孤《こ》宿《しゅく》の人  (下) 宮部みゆき 新人物往来社      闇に棲む者    一 「おおい、うさぎ。干し物は済んだかね」  英心和尚《えいしんおしょう》のおおらかな胴間声が、本堂の方から聞こえてくる。宇佐《うさ》は背伸びをして、干し物の最後の一枚を棹にかけたところだ。 「はい、終わりましたぁ」  こっちものびやかな声で応える。 顔を仰向けると日差しが眩《まぶ》しい。お天道《てんとう》さまはちょうど、中《ちゅう》円寺《えんじ》の修繕痕だらけの屋根の上にちょこんと乗っている。夏の日はまだまだこれから先が長い、ここらでちょっとひと休みだ。この寺は城下を見おろす丘の上にあるので、お天道さまも青空も近くに見える。 「それじゃ、お使いに行ってくれんやけ」  本堂の裏口から英心和尚が出てきた。傾いた木の段々を降り、そこに脱ぎ捨ててあった薄べったい履物に足を入れる。宇佐は空《から》になった桶を抱え、和尚の方へと駆け出した。 「走らんでええが。まったく元気な女子《おなご》だわの」  よれよれの着物の上から破れた袈《け》裟《さ》をかけ、坊主頭にてらてらと陽を受けて、英心和尚は笑っている。笑っても怖い顔だ。黙っているともっと怖いし、朝晩熱心にお経を読んでいるときの顔はさらに怖い。 「つまり人相が悪いのだ」と、渡部一馬《わたべ かずま》は大真面目に言っていた。「実はなかなか偉い坊さんなのだが、人徳が顔に出ないのだな。前世でよほど悪いことをしたのかもしれん」 中円寺は荒れ寺である。来歴は立派なお寺なのだが、なぜかしら貧乏だ。それなのにお救い小屋のような役割を担っている。  お寺としての役目だけでは立ち行かないからお救い小屋になったのか、住職がお救い小屋のよぅなことをやっているから貧乏になってしまったのか、どっちが先かわからない。いずれにしろ、丸海《まるみ》の町で暮らしに窮した人びとにとっては有難いことだ。さらに、ここの世話になるのは地元の者ばかりではない。金比羅《こんぴ ら》詣でに来て、路銀を失くしたり、病《やまい》にかかったり、怪我をしたりした人たちも身を寄せている。 「どちらにお使いに行きましょうか」  英心和尚は懐《ふところ》から書付を出し、宇佐に渡した。ひらがなで書いてある。そのひとつひとつを指差しながら、どこへ行って何を買い、誰に会ってくればいいのかと教えてくれる。 「それと帰りがけに、三《み》幅《の》屋に寄ってきておくれ」 「またですか?」宇佐はちょっと笑った。「よろしいんでしょうか」 「よろしい、よろしい」和尚は重々しくのたまう。「約束をしてあるのだ。重蔵《じゅうぞう》の奴め、米俵を三つと言いよったくせに、昨日は二つしか寄越さなんだ。一つ足らん。使いの男があれこれ言い訳しとったが、どうせそんなのは嘘に決まっておる。妄語《もうご》を重ねると御仏の加護を失うぞと、せいぜい脅してやるがよろしい」  三幅屋というのは、丸海でも名のある大きな旅篭《はたご》だ。重蔵はそこの主人で、旅籠町の差配方《さはいかた》つまりまとめ役を務めている人だ。英心和尚の弟なのである。  参勤交代行列の道筋にあるわけではないが、諸大名が金比羅さま詣でに来るとき、丸海の港に下りることが多いので、丸海の町には本陣がある。代々ひとつの家が務めているが、本陣のやりくりというのは、実はたいへんに厳しい。お泊まりいただいて、精かぎり根限り粗相のないようにおもてなしをして、しかし儲けなどほとんどない。持ち出しの方が多いくらいだ。ただ名誉があるだけである。  だから丸海の旅籠町には、お金や人手を出してそういう本陣を支えるお店があり、それが三つあるので三店と呼ばれている。諸大名家の金比羅さま参拝が重なり、本陣ひとつでは切り盛りができないときには、この三店が脇本陣を張る資格も持っている。  三幅屋は、その三店のひとつである。つまり英心和尚は、そんな大きな家の生まれなのだ。なのに主人の座を弟に譲り、自分は仏の道に入って、しかもこんな破《や》れ寺の住職におさまっている。  どういう事情があってこうなったのか、誰も知らない。ただ和尚は、しきりと三幅屋の弟のところに無心をする。それも当然のような顔で|た《ヽ》か《ヽ》る《ヽ》のだ。宇佐がこの中円寺に来てまだ十日と経たないが、これまでに何度「三幅屋へ行ってこい」と言いつけられたことか。自分のことではなくても、少々気恥ずかしいほどである。  が、和尚はまったく悪びれない。また弟の重蔵も、毎度毎度の無心に、怒ったり、使いの宇佐を手ぶらで追い返したりすることはけっしてない。 「また兄さんか」  在宅していれば自ら出てきて、何のかんのと包んだり、あとで届けさせると約束をしてくれる。兄弟仲も悪くない。時折、重蔵がこの荒れ寺に酒を提げて遊びに来ることがあるのがその証拠だ。つい先もそんなことがあり(米俵三つの話は、そのときのものだろう)、宇佐は呼ばれて笊《ざる》いっぱいの卵をもらった。二つ三つを茄でて肴《さかな》にしてくれろ、残りは皆で食えという。おかげで翌朝、病人たちに卵粥を出すことができた。 「それじゃ、行って参ります」  宇佐は前掛けをはずすと、足取りも軽く中円寺を離れた。この寺に山門はない。長い貧乏暮らしのあいだに薪《たきぎ》に化けてしまったのだ。山門の跡には、切り株のような門の根っこが残っているだけである。宇佐はそれをぴょんと飛び越えた。  宇佐を中門寺に世話してくれたのは、渡部一馬であった。  西番小屋を追い出されたあの日、泣きじゃくる宇佐を前にひとしきり渋面を刻んだ渡部は、ようよう宇佐が泣き止むと、 「うどんを食おう」と、近くの店に連れて行ってくれた。 「あれだけ勢いよく泣くと、腹が減ったろう。見ている俺も腹ぺこだ」  ぶっきらぼうに言ったが、宇佐はそれでも嬉しかった。渡部の優しさが身に泌みた。 「それでおまえ、これからどうする?何とかして食っていかねばならんだろう」  うどんのどんぶりを前に、渡部はきわめてさばさばと問いかけてきたが、宇佐は何も考えられず、黙ってうなだれるばかりだ。 「いつか言ってたな。おまえの母親は、おまえを塔屋《とうや》の織り子にしたがってたとか。今からでも遅くはないのじゃないけ」  離れ屋のおさんに頼んでみたらどうか、という。宇佐はかぶりを振った。 「あたし、不器用なんです」  ああ、だからと、渡部が抱えていた風呂敷包みを指した。「お針も駄目です。古着は有難くいただきますが、仕立て直しは誰かに頼まなくちゃなりません」  しょうもない女子だなぁと、渡部は嘆息した。 「すみません。引手《ひきて》なんかになりたがるような女ですから」  軽く言ったつもりだが、胸がずきりと痛んだ。渡部はうどんをひと口ふた口と食って、まあ、人はそれぞれだとあっさり言った。 「悔しいのはわかるが、拗《す》ねるなよ」うどんを頬張ったままもがもが続けた。「ひがみ根性は良くない。それくらいなら怒れ。どうせ自分は、なんてひねたことを考えてよじれるより、素直に怒った方がずっといい」  宇佐はうなずいて、うどんを噛んだ。 「漁師町に帰るか」 「帰りません」 「バカにきっぱり言うな。なぜだ」 「一度出てきてしまったところです」 「だからって帰れないわけじゃなかろう」  渡部の言うとおりだ。潮見《しおみ》の宇《う》野《の》吉《きち》は、喜んで迎えてくれるだろう。引手に飽きたら帰って来いと言っていたのは、口先ばかりのことではあるまい。 「漁師町に帰って、誰かの嫁になったらどうだ。おまえは骨惜しみせずに働くし、身体が丈夫で気性も明るい。いい嫁になる」  褒められた。照れくさいのもあって、宇佐は吹き出した。 「あたしなんかもらってくれる人、いないですよ」 「そんなことはなかろう」渡部はどんぶりを置いて宇佐を見た。 「西番小屋に、花吉《はなきち》とかいう引手がいるな。まだ小僧に毛が生えたような奴だ」  あいつに聞いたぞ、と続けた。 「潮見の倅がおまえを嫁にしたがってる。なのに、宇佐はそれを嫌って漁師町を出てしまった。潮見の家の嫁になれるなんざ大変な幸せなのに、もったいない話だって」  なんで花吉がそんなことを知っていたのだろう。まったく早耳だ。おまけに、渡部さまにペらぺらしゃべるなんて。 「そんなら勝《かつ》さんのことでしょう。潮見の宇野吉おじさんの息子です。あたしは勝さんの嫁になりたくないから漁師町を出たわけじゃありません。それが理由じゃないです」 「じゃ、なぜ出てきたんだ」  まっすぐに問われて、宇佐は当惑した。問われたことにではなく、すぐに答えることのできない自分自身に。  あたしはどうして漁師町を離れ、引手になりたいなどと考えたのだろう。 「自分でもよくわからなくなりました」  箸を揃えてどんぶりに乗せ、宇佐は両手の指を組んだ。自然、神妙に背中が伸びる。 「何ででしょうね。おかしいな」  渡部はふふんと鼻を鳴らした。どんぶりに残っていた出汁をすっかり平らげてしまう。 「母さんは、漁師の暮らしを好いていませんでした。海は怖いし、苦労ばっかりだって。だからあたしのことも、塔屋に預けたかったんですよ」  塔屋で織り子になることはできなかったけれど、せめて漁師町を出て堀外で暮らすことで、母親の願いをかなえたいと思った。あのころの自分の気持ちは、せいぜいそれくらいの、小さなものだったろう。振り返ってよく考えてみても、それ以上の想いは見出せない。 「引手の見習いになったのも、嘉介親分が、木っ端仕事をやる女手があると助かるから、働かないかと言ってくれたからです。最初《は な》から引手になりたいと思っていたわけじゃありません。番小屋で働いているうちに、そういう気持ちになってきたんです」  何より、嘉介親分が立派な引手だったから ——— と言ったら、また涙が溢れてきた。 「嘉介は、気の毒なことだった」  押し殺したような声で、渡部が言った。 「子供たちもな」  宇佐は涙を拭う手を止めて、はっと顔を上げた。「渡部さま、ご存知なんですか」  渡部はうなずいた。「俺も一応、町廻りだからな。事が起こってごたついているうちに、小耳に挟んだ」  煤《すす》けた天井《てんじょう》をちょっと仰ぐと、 「町役所じゃ、そうだな ——— 十人ばかりの者が知ってる。残りの者は、町場でコロリが出たと思っている。表向きは、嘉介の子供二人はコロリで死んで、嘉介と女房にもそれが感染《う つ》って、隔離されたということになっているんだ」  それなら ——— そうか、親分のおかみさんが、匙《さじ》の香坂《こうさか》家に預けられたのも、そういう表向きの話に合わせての処置だったのかもしれない。それを話すと、渡部は顎《あご》の先でうなずいた。 「そりゃそうだ。今後は、俺も含めて、真相を知っている者どもは、みんな口裏を合わせていくんだ。常次も当然、そのように言い含められているはずだぜ」 そして、ちょっと首をかしげた。 「常次がおまえを追い出したのも、そのせいかもしれんぞ。おまえは頑固で、他人の言うことを聞かん。いくら言い含めようと、コロリだなんて作り話だと、大声で触れ歩きかねん。いくら女で見習いでも、番小屋に出入りしている者にそんなことをやられたら、常次親分としちゃたまらんだろう」 宇佐も腑に落ちる気がした。これまで、常次親分と顔を合わせる機会は少なかったけれど、その人となりをまったく知らないわけではない。その宇佐の目から見ても、今日の常次親分の冷たさは、まさに豹変という感じがした。あんな底意地の悪い物言いをする人ではなかったはずだ。 しかし ——— あれがコロリだということにされているのなら、嘉介親分は? 「親分は今どこにいるんでしょう。渡部さまならご存知ですよね?」 「そこまでは、俺にもわからん。事を処理したのは公《く》事《じ》方《かた》と御《ご》牢《ろう》番《ばん》だからな」  濃い眉をぐっと寄せて、腕組みをした。 「だが、もう生きてはおらんよ」  宇佐の涙に濡れた頬が、すうっと冷えた。身体の温もりが外へ飛んでいってしまう。  嘉介親分は ——— 死んだのだ。  宇佐はぽとぽとと涙をこぼした。涙はうどんの出汁のなかにも落ちた。渡部は何も言わずに宇佐が泣くのを見守っていてくれた。  しばらくして、渡部は訊いた。 「なあ、宇佐よ。引手のどこがいいのだ? おまえは嘉介のどんなところが立派だと感じていたんだ」  宇佐ははっと顔を上げた。渡部は宇佐を見据えている。 「他《ひ》人《と》様《さま》の……役に立てます。丸海のみんなのために働ける」 「漁師の女房だって、亭主や子供たちのために働いてるぞ。潮見の家の嫁なら、抱えの漁夫たちの世話もする。引手だけが立派な務めじゃあない。どんな仕事だって ——— 」 「それじゃ渡部さまは」宇佐は遮った。「なぜ町役人になったんですか」 「俺か」渡部は考える様子もなく、まるで受け取ったものをぽんと投げ返すように答えた。 「親父の後を継いだのだ。家代々の役人だから、俺も役人になる。それだけのことだ」  手を打って、お代わりをくれと呼ばわった。うどん屋の親父がへえいと応じる。お前も食うかと問われたが、宇佐は首を振った。まだどんぶりの中身が残っている。 「勝とかいう漁師は、いい男か」と、出し抜けに訊いた。 「顔はごついけど優しい人です。漁師としての腕もいいし」  幼馴染みだから、よく知っている。潮見の宇野吉は、丸海藩の御用船の水先案内を務めたこともある。おいおい、勝もそうなるだろう。それほどに丸海の海をよく知っている。 「だったら宇佐、悪いことは言わんから、そいつの嫁になれ。それがいちばん、おまえのためだ。幸せになれる」  空《あ》いたどんぶりを睨みつけるようにして、渡部は早口にそう言った。 「どうして渡部さまにそんなことがわかるんですか。勝さんのこと知らないのに」 「勝のことは知らんが、おまえのことは、ちっとは知った」  うどん屋の親父がお代わりを運んできた。渡部は口をぐいと結んで黙った。 「あたしのことをですか」  親父が去ってから、宇佐は小さく問いかけた。渡部は意固地な感じでうなずいた。 「そうだ。それに俺は、井上啓一郎のこともよく知っている。だからおまえは勝の嫁になった方がいいとわかるのだ」  宇佐は頭から血の気が下がるのを感じた。そのくせ、頬は熱い。 「井上の若先生のことが、どうしてあたしなんかの身の振り方と関わりがあるんですか。何をおかしなことをおっしゃるんです。渡部さまは変だ」  とっさに、ムキになって言い返すのに、渡部は応じない。お代わりのうどんのどんぶりを引き寄せると、食べ始めた。ずるずるすすって、ぐいぐい飲み下す。  やおら箸を止めて、言った。「啓一郎は、けっして道を踏み外さない男だ。己の本分をわきまえ、それをまっとうする男だ。そう遠くない将来、舷洲《げんしゅう》先生の後をとって匙家の当主になる」  そんなこと、宇佐だってわかっている。 「だからおまえが」渡部は顔をあげ、喉をごくりとさせてうどんを飲み込むと、続けた。 「どれほど啓一郎を慕おうと、無駄なことだ。たとえ啓一即が、おまえの想いに応えておまえに情を抱いたとしても、それでも無駄だ。あの男がおまえを井上の嫁にとることはない。けっしてない」  宇佐は|く《ヽ》ら《ヽ》り《ヽ》とした。そんなことは、言われなくてもわかってる。あたしだってバカじゃないんですよ。わかってます。なのに、なのに、どうして目の前が暗くなるのだろう。わかってる。みんなみんな、わかってることばっかりだ。今さら泣いたり、傷ついたりなんかしない。 「おまえが堀外での暮らしにこだわり、引手にこだわるのは、啓一郎とのつながりを絶ちたくないからだろう? 漁師町に帰ったら、もう会えなくなってしまうからな。だがな、宇佐。その方がいいのだ。見込みのない思慕は、抱いているだけ辛い。想いがふくらめば、辛さが増すだけだ」 「あたし……若先生のお嫁さんになりたいなんて、思ってないです」  宇佐のかすれた呟《つぷや》きを、しかし渡部はぴしゃりと押さえつけた。 「嘘をつけ。思っていなかったわけがない。俺だって、琴《こと》江《 え》殿をもらいうけることを夢に見た。無理だ、無駄だとわかっていても、そばにいれば想いを抑えきれぬ。それは仕方のないことだ」  うどん屋は空《す》いている。それでも渡部は、向かいに座る宇佐でさえ、かろうじて聞き取れるか聞き取れないかというほどに声を抑えていた。そのために、彼の顔も赤らんでいた。 「おまえはいい娘だ」  言葉と裏腹に、叱っているみたいな口調だ。 「俺はおまえに、これ以上辛い思いをさせたくない。不幸になってもらいたくない。おまえにはおまえの幸せがあるはずだ。宇佐、それを探せ。啓一郎のことは忘れて、漁師町へ帰るんだ」  それだけ言い切ると、渡部は猛然とうどんを食べた。うどんが仇《かたき》であるかのような食いつき方だ。とっくにお腹はいっぱいだろうに、もう何も言いたくないから、宇佐の顔を見たくないから、しゃにむに食べている。 「すみません」  宇佐は言った。新しい涙が溢れた。あたしはこんなに泣き虫だったろうか。 「でもあたし、漁師町には帰りません。堀外に残ります」  渡部は箸を止めると、はあっと息を吐いた。宇佐は急いで続けた。 「でも、心配しないでください。啓一郎先生のことは渡部さまのおっしゃるとおりです。あたし、途方もない望みなんか持ってません。本当です。堀外に残るのは、別の理由があるからです」 「そりゃ何なんだ」  半ば呆れ、半ば怒った顔の渡部に、宇佐は言った。「|ほ《ヽ》う《ヽ》のことです。あの子を涸滝《かれたき》に置き去りに、あたしだけ幸せになるわけにはいきません。安穏に暮らすことなんかできないんです」  渡部の面《おもて》に、言葉にならずに渦巻く感情が、いっぺんに表れた。そのなかのひとつ、いちばん強い困惑を、宇佐は正しく読み取った。 「ほうは涸滝から帰ってこない ——— 渡部さまはそうおっしゃりたいんでしょう?」  渡部はつっかえた。「か、帰ってこられるにしても、いつになるかわからんぞ」 「いいんです。あたし待ってます。あの子は縁あって丸海に来て、あたしと知り合いになりました。あの子も独りぼっち、あたしも独りぼっちだった。でも今は違います。あたしたちは姉妹です。ほうはあたしの妹です」  その大事な妹が、丸海藩の大事の一端に関わって、一生懸命涸滝で働いている。 「それができるなら、あたしも涸滝へ行きたいくらいです。でも無理ですよね」 「当たり前だ」 「だったらせめて、ほうのこと、あの子の様子が少しでもわかりそうな近くにいて、待っていてやりたい。あの子がお役目を終えて帰ってくるのを信じて、その日が来たら、迎えてやりたいんです」  渡部は片手を額にあてて、ぐったりとうなだれた。ああ本当に、おまえは強情だと捻るように言う。宇佐はまた、すみませんと謝った。 「 ——— ほうを待つあいだ、どうやって食っていく?」 「仕事を探します」 「あてはあるのか」 「それも探します」  身体を起こすと、渡部はしげしげと宇佐の顔を見た。宇佐はまっすぐにその目を受け止めた。  渡部は、つりあがった目じりをつと緩ませた。「おまえを拾った嘉介の気持ちがわかるよ」  そしてくくくと笑い崩れた。つられて宇佐も微笑《ほほえ》んで、目元を拭った。もう泣かない。 「何とまあ間の悪いことに、俺は頼まれごとをしている」 「は?」 「中円寺の和尚に、女手が足らんから探してくれと、ずいぶん前から言われていたんだ。中円寺、知っているだろう?」  引手として関わったことはないが、もちろん知っている。お救い寺だ。 「長いことあそこで働いて、和尚を手伝っていた女中が、先年病で死んでな。それきり後釜がおらんで、困っているんだ」  宇佐は勢いよく頭を下げた。「ありがとうございます!」 「簡単に決めるな。普通の女中奉公じゃあないけ。貧乏寺だ、給金は出ん」 「はい、かまいません」 「炊事に洗濯、掃除に畑つくり、何でもかんでもやらされるぞ。おまえ、畑の世話なんかやったことがないだろう」 「わからないことは教えてもらいます。あたし、しっかり働きます」 「おい、勝手に決めるな。まだ和尚が何と言うかわからん。引手の真似事をしていたようなはねっかえりの娘は御免だと言うかもしれんのだからな」 「大丈夫ですよ、渡部さま」  実際、和尚はひと目で宇佐を気に入った。こうして、宇佐は中円寺に住み込むことになったのだった。  用事を済ませて三幅屋に立ち寄ると、ちょうど船の着いた時刻で、店先は草鞋《わらじ》を脱ぐ客たちと、それを迎える女たちとで混み合っていた。 格式の高い三幅屋は、誰でも泊まれる宿ではない。常客の大半はお武家や裕福な商人だ。講を組んで大勢で金比羅詣でに繰り出してくる町人衆の場合は、その講の世話人が、先にも三幅屋に泊まったことがあるか、泊まったことのある人からの紹介状がなければ駄目だ。泊まり客でなく、ここで小休止して食事を取り、陽のあるうちに山を登って金比羅さまの門前町に入るという客であっても、|ふ《 ヽ》り《 ヽ》では入れない。もっとも旅籠は数多いので、それで誰かが不自由するわけではなく、要は身分と懐具合にあったそれぞれの旅をするというだけで、結局その方が揉め事も少なくて済む。  さて、そういう品のいい客の集まりでも、旅といったらやはり浮かれるだろう、三幅屋の店先はたいそうな喧騒で、旅寵の衆も、やれ案内だ、やれ足洗いだと忙しい。宇佐は声をかけかねた。むしろ、断りを入れずにするりと帳場へ入ってしまおうかと思っていると、後ろから声をかけられた。 「おいおい、またお使いかね」  振り返ると重蔵がいた。きちんと羽織《はおり》を着ている。背丈も高く身体つきもがっしりとして、しかも英心和尚と同じく顔が怖い。こういう主人が仕切る旅籠なら、行儀の悪い客もめったなことはできなくなって、女子供も安心して泊まれる —— と思われるか、山賊の親戚のような主人のいる宿では、いつ身包《みぐる》みはがれるかわからなくておちおち寝られない —— と思われるか。どっちの目が出て、三幅屋は繁盛しているのだろう。 「あいすみません、またいい遣って参りました」 「米だろう」重蔵は渋い顔をした。「一俵足りなかったからな。まったくあの和尚さんは、この三幅屋を打ち出の小槌《こづち》だと思っていなさるから困るよ」  ぶつくさ言っているが、本当に困ったり腹を立てたりしている様子は感じられない。 「まあ、奥へおいで。ちょうどよかった」  先に立って人ごみを分け、すいすいと進んで行く。その間も、ざわつく客たちに、長旅お疲れさまにございます、ごゆるりとお休みくださいまし、三幅屋へおいでいただきましてありがとう存じます、はい、金比羅さままではあと一息にございますよ、などと愛想を振りまくことも忘れない。  桟敷《さじき》のようになっている入口を抜けて、右手が帳場である。格子に囲まれた座机が二つあり、手前の小さい方には、朱塗りの大算盤《おおそろばん》を前に、番頭が座っている。その後ろのひとまわり大きな座机には、重蔵が座ったり、お内《か》儀《み》さんが座ったりする。今は誰もおらず、空の座布団が斜めになっていた。 「小暮《こぐれ》さまご一行がお着きになりましたので、お内儀さんはご挨拶に行かれました」  重蔵にお帰りなさいと挨拶をし、番頭がすぐに続けた。  今宵はご一泊になるそうで、小暮さまのご隠居が、ぜひ旦那さまと 一献傾けたいとご所望でしたよ」 「一献じゃなかろう。またひと勝負ということだ。やれやれ」 「まったくで」と、番頭は笑う。目が合ったので宇佐が頭を下げると、会釈して「そちらもご苦労さまなことで」と言った。なにしろ短いあいだに何度も来ているので、すっかり顔なじみになってしまった。この大番頭も重蔵に劣らず体格がよく、顔も額も月代《さかやき》もてらてらと脂が乗っている。この人は番頭というだけでなく、用心棒も兼ねているのではないかと、宇佐は思う。得物はもちろん、あの大算盤だ。 「来春《らいはる》の橋本《はしもと》さまのご参拝は、どうやら見合わせになったよ」  帳場格子に手をついて、磊落《らいらく》な感じで主人は番頭に言った。 「江戸から文が来た。御用繁多の何のと書き並べてあったが、なんの、お手元不如意のせいだろう。花菱《はなびし》さんはほっとしていたよ」  花菱というのも三店のひとつの大旅篭だ。橋本さまというのはお武家だろう。脇本陣が要る家格ではなくても、花菱では重々気をつかって逗留をいただかねばならない家なのだろう。そのくせ、たぶん、金払いは悪いのだ。だから、参拝が取りやめになってほっとしているのである。 「先の改鋳で、江戸の景気はかえって悪くなったようだ。物価は上がる一方だそうだしな。近頃じゃ、加賀さまが勝手方をしていたころを懐かしむような風さえあるそうだよ」  場違いなところで、しばらく耳にしなかった加賀さまの名を漏れ聞いて、宇佐はちょっとどきりとした。 「何のかんの言っても、勘定奉行としちゃあ大したお方だったからね。この分じゃ、またすぐに首の挿《す》げ替えがあるだろうさ」  凄いことを立ち話で言って、重蔵は宇佐をちらりと見返り、こっちへおいでと先へ進んだ。恵《え》比《び》寿《す》鯛釣りの図の描かれた唐紙《からかみ》をからりと開けると、小座敷がある。まあお座りと声をかけ、重蔵は膝を折って正座すると、さっさと羽織を脱ぎ、そちらの方を見もせずに奥へと声を張り上げて、おみつ、おみつ、茶をふたつと叫んだ。一拍遅れて、ああ忙しいというふうに割れた声が「はあい、只今」と返事をした。  いつもは帳場で要件が済んでいる。この座敷に上げてもらうのは初めてだ。床の間の、すうっと背の高い竹筒の花活けに、菖蒲の花が投げ入れてある。書画の軸はない。長火鉢や煙草盆も見当たらないが、床の間に並んで、ちょうど宇佐の腰ぐらいの高さで、幅はそう三尺、奥行き一尺半ほどの船箪笥《ふなだんす》が据えてある。船箪笥というのは、普通の箪笥よりもずんぐりとした造りで、ぐっと重い。特にこの座敷のは年代ものらしく、脂《やに》を塗りつけたようなくすんだ褐色で、金具の類も錆びているので、さらにどっしり重たげに見えた。  帳場側ではない方の唐紙が開いて、年増の女中が茶を運んできた。でっぷりと二重顎で、帯がぱつんぱつんになっている。主人の対面に座っている宇佐を見て、あらというようにちょっと目を瞠《みは》った。宇佐は丁寧におじぎをした。古株の女中のようだけれど、今まで会ったことはない。 「中円寺に来た新しい女中さんだ」と、重蔵が宇佐を指して言った。 「|こ《 ヽ》ん《 ヽ》だ《 ヽ》、ずいぶん若い人だね、日那さま」  女中がじろじろと宇佐を検分する。 「和尚さま色気づいたけ」  あけすけな物言いに宇佐は驚いたが、重蔵は叱りもせずに笑った。 「つまらんことを言うと、おかめに枕元に立たれるで」  ああ、本当だぁと女中は首をすくめ、どたどたと出ていった。宇佐のびっくり顔を見返って、まだ笑いながら、重蔵が謝る。 「すまんねえ、あれは口が悪いんだ」 「おかめさんというのは、亡くなった先の女中さんですよね」  二十年以上、中円寺に住み込んで英心和尚を助けてきたという。中円寺に身を寄せている人びとは、一人残らずおかめの世話になっており、皆おかめの死を悲しみ、懐かしんでいた。宇佐も、この十日のあいだにたくさんの話を聞いた。 「ああ、そうだ。もとはうちの奉公人でな」  重蔵は旨そうに茶を飲んだ。 「兄貴が家を出たときに、若日那のお世話をする手が要るって、後を追いかけて出てな。いろいろあって兄貴が仏門に入ると、いったんはここへ戻ってきたんだが」  英心和尚が中円寺に落ち着くと、またそこへ追いかけて行ったのだという。 「おかめはまあ、だから、兄貴の女房のようなものだったけども、兄貴はもう色気は抜けて久しいし、あんたのことは、そんなふうに扱う気なんぞまるでないんだから、安心してくれろ」  目の前の重蔵もそうだが、英心和尚も、外見から年齢を見定めにくい。四十半ばか五十路そこそこに見えるときもあれば、ひどく爺むさく見えるときもある。ただ、色の道に年齢は関係ないというから、和尚の色気が抜けて久しいというのは、歳の問題ではなく、仏の道に仕えているから、ということだろう。実際、宇佐は今まで、和尚からそのような雑念を感じたことは一切ない。 「少しは慣れたけ」  だるまの湯飲みを手にしたまま、重蔵が宇佐に尋ねた。 「はい、おかげさまで慣れました。あたしじゃまだまだ至らないことばっかりですが」 「そんでもあんた、ここへ無心に来るときは、えらく決まり悪そうな顔してさ」  宇佐は笑ってしまった。「あいすみません」 「さっきのような事情だから、おかめは委細承知していたんでな。ここへ来るのも当たり前のような顔して来て、あたしらもそれに慣れとったけども、あんたじゃそうはいかん。いっぺん、話しておかんと悪いと思ってな。なに、込み入った話じゃないよ」  なぜ長男の英心和尚が後を取らず、重蔵が三幅屋の主人をしているか、という話だった。 「あんた引手をしていたっていうし、三店のことは知ってるだろ」 「はい、存じてます」 「三幅屋はあたしで八代目です」と、重蔵は急に改まった口つきになる。「代々、後を継いだのは長男で、今までそのしきたりが破られたことはなかったんだけども」  英心和尚 ——— 俗名|英蔵《ひでぞう》は、十一の歳に、大変な悪さをして勘当《かんどう》になったのだ、という。 「三店は脇本陣を張る資格もある。本陣、脇本陣てのは金は儲からんが、名誉はある。その名誉の印《しるし》が、お泊まりいただいたお大名家から下される、紋所つきの羽織でな」  万事よろしく取り計らっても、泊まった大名がケチで羽織をくれないこともある。そんなときは、追いかけていって押して拝領するというほど、大切な印なのだそうだ。 「三幅屋にもそういう拝領羽織がありました。もちろん家宝だ。ところが英蔵兄貴は、その羽織を蔵から出して、袖を通しよった」  勘当に値するほどの粗相なのに、それを語る重蔵の口ぶりは軽く、面白そうに笑っている。 「先代 —— つまりあたしらの親父は、そりゃもう鬼のように怒った、怒った。子供のいたずらと見逃しては、三幅屋の名に関わる。それで兄貴を放逐したというわけだよ」  母親と親戚筋のとりなしもあり、英蔵は一年ばかり堀外で謹慎暮らしをしていたが、やがて仏門に入ることになった。 「それがいちばん本人のため、三幅屋の安泰のためにもなるということでな」  茶を飲み干して、畳の上に湯飲みを戻すと、ちょっと考えてから、言った。 「兄貴がなぜ拝領羽織に袖を通すような大それたことをしよったか、未だにわからん。本人も、こればっかりは言えんと、教えてくれなんだ」  宇佐は黙って聞き入った。 「事があったとき、あたしは十で、だからまあ、悪戯《いたずら》なのだと思っていた。だいたい兄貴はきかん気が強くて、やるなと止められたことほどやりたがるところがあったからな」  ただ ——— と、少し目を細め、 「自分が三幅屋の主人になって、昔の事どもをあれこれ考え合わせるとだな、思い当たることがあるんだよ」  英蔵が騒ぎを起こす半月ほど前、虫干しの折に、蔵のなかの大切な品物を迂闊に扱って損ねたという咎《とが》で、若い女中が一人責められ、それを苦にして首を括ったという事件があったのだという。 「おようという女中で、内働きになる前は、あたしら兄弟の子守をしてくれていた。旅寵の商《あきな》いは忙しいから、子供はみんな子守に育てられる。あたしらにとっても、おようは母親同然だった」  だから英蔵は、おようの死に腹を立てた。 「どれほど大事の品か知らないが、そんなものがおようの命より大切だったか、何で縊《くび》れ死にするほどにまで責め立てて追い詰めたんだと、先代を憎く思ったんだろう」 「それで拝領羽織を ——— 」  宇佐の言葉に、重蔵は口元に薄く残っていた笑みを消して、うなずいた。  重蔵が黙ると、座敷の外の喧騒が、唐紙を通して聞こえてくる。先ほどまでよりは、ずいぶん静まったようだ。 「兄貴の気持ちは、あたしもわかる」  重蔵は、少し遠いまなざしになった。 「それにもともと、三幅屋は兄貴のものになるはずだったお店だ。だからあたしは、兄貴に無心をされたら、できる限りは、いくらだって応えるつもりでいるんだよ。あんたも遠慮は無用ということだ」  宇佐は背を伸ばして座り直した。 「よくわかりました。あたしも一生懸命和尚さまのお手伝いをいたします」 「よろしく頼むよ」  もう一度深く頭を下げて、これで失礼しようと、宇佐は腰を浮かしかけた。が、重蔵が呼び止める。 「ところであんた、引手をしていたそうだな。どの番小屋だね」 「西番小屋です」  重蔵の目が、すっと曇った。「そうすると嘉介親分の下にいたのだな」 「はい」  港に続く旅寵町は、船奉行とその下に連なる磯番小屋の縄張りである。だが客商売の常、しかも金比羅詣での旅行客を相手の商いだから、堀外の番小屋にも何かと世話をかけることがある。だから、必ずしも堀外の番小屋の引手たちと疎遠ではない。旅籠町は、堀外と港の引手たちの勢力が入り混じっている場所なのである。重蔵が嘉介親分を知っていても、まったく不思議はない。 「気の毒なことになってしまったねえ。コロリとは」  重蔵も、嘉介親分と二人の子供はコロリにやられたのだという、表向きの話を聞き知っているのだ。 「しかし、コロリにしちゃ少し時期が早いようだが ——— 、あんたどう思う?」  宇佐は重蔵の顔色を見守った。どういうふうに|か《 ヽ》ま《 ヽ》をかけられているのか、判じかねたからである。  今の問いかけは話の弾みであったらしく、重蔵は宇佐の答えを待たずに続ける。 「いやね、うちの女中が堀外で聞き込んできたんだが、あれはコロリじゃないという噂があるそうだ」 「どんな病だというのでしょう」 重蔵は顎を撫で、少し声を落とした。 「もう十五年は前のことかな。浅木さまのお屋敷で妙な病が流行ったことがある。あんたは知らないけ」  食あたりのような奇病のことだ。 「話を聞いたことはあります。その病を遠ざけるために、浅木さまは涸滝のあのお屋敷を建てたそうですね」 「そうなんだよ。その涸滝に、今は加賀さまがござらっしゃる」  どんな言葉が後に続くのか、宇佐には充分、察しがついた。 「涸滝の屋敷は、あのまま封じておいた方がよかったんだが、あんなことに使われて、しかもお籠《こも》りになった方が方だ。あすこから悪い病の気が放たれて、城下に飛び火しているんじゃないのかと ——— そういう噂が出ているそうだ」  そして重蔵は、塔屋の子供にも寝ついた者がいるらしい、と言った。八太郎のことだろうかと、宇佐はとっさに思った。 「あたしが知ってる限りでも、確かに塔屋の子で病にかかった子はいますが、食あたりではありませんでした。子供のことですから、ちょっと熱を出したというだけです。しかもそれは、加賀さまがまだ丸海に来られる以前のことですから」  正確には、八太郎は普請直し中の洞滝の屋敷に肝試しに出かけ、鬼を見て寝ついてしまったのだが、今ここでそんな話はしない方がよさそうだ。 「そうか・・・・・・」  顎をつまんだままぐるりと目を天井に向け、重蔵は怖い顔に珍妙な表情を浮かべた。 「そんなら、騒ぐほどのことでもないけ。しかし、噂は広まっとるようだよ。あんたなら、何か詳しいことを知ってるんじゃないかと思ったが」 「そうですね、あたしは嘉介親分の小屋におりましたし、これでも、他の商いの人よりは、少しは早耳だったつもりですが、何も存じませんよ。ほんの一時の、限られた場所での噂じゃござんせんか。放っておけば、広まることもありませんでしょう」  思わず、引手見習いをしていたときの口調になってしまった。 「そうだな。ありがとうよ」  到来物の菓子があったはずだから、持ってお行きと、重蔵はまた女中を呼んだ。宇佐はその包みを有難く頂戴して、三幅屋を出た。  中円寺に入って、町場の暮らしから切れ、ほっとして、まだたった十日しか経っていないけれど、いろいろなことを忘れかけていた。忘れて、逃げてしまいたかったからだ。  でも、宇佐が忘れたとしても、丸海の抱える難題が消え失せたわけではないのだ。  まるで流れに逆らうように、宇佐は頑固に前だけを見て、中門寺まで駆けて帰った。    二  舷洲先生のおっしゃった「お屋敷で少し騒ぎがあった」ことの詳しい内容を知るまで、結局、ほうは三日も後の日暮れ時まで待たされた。  戸《と 》崎《ざき》さまも小《こ 》寺《でら》さまも、ほうの頭の鈍いのをカンカンに怒っておられるようだったし、御牢番の頭、いちばん偉い方である船橋《ふなばし》さまも見えるということだったし、小屋に戻って、いつ呼ばれるか、何を叱られるのかと首を縮めて待っていたのに、あの日はそのまま過ぎてしまったのだ。  そして翌日は、少し顔色を取り戻した石野さまから、今までどおりに働くようにと言いつかった。唯一、南詰所に入ることだけは禁じられ、でも、それ以外は何の変わったこともなかったのである。お屋敷に詰めている人たちに、少しばかりあわただしい気配はしたけれど、詰所の弁当や湯茶も、ちゃんと召し上がってもらえるようになった。ほうは働き続けた。  そうして、ようやく呼ばれたのだ。東詰所だった。石野さまが連れて行ってくれた。待っていたのは舷洲先生で、怒りんぼの戸崎さまも、偉い船橋さまもおられなかった。 「おお、ほう。今日もご苦労だった」  舷洲先生は一昨日と同じ正装で、でも一昨日よりもずっとくつろいだ様子で座っていた。ほうをそばに招くと、傍らに置いてあった風呂敷包みを取り上げて、 「しずから言付かってきた。おまえの着物だ。新調だぞ。菓子も少し入っておるそうだ」  ほうの手に渡し、ニコニコと頬を緩めた。  石野さまは詰所の唐紙のすぐ前に正座し、目元を引き締めている。舷洲先生が偉い匙家の先生だから、緊張しているのだろう。 「しずさんが」ほうは風呂敷包みを抱きしめた。 「ありがとうございます」  ぺこりと頭を下げる。ここへ来る前、一緒に堀内へ入ったときのしずさんは、とても怖かった。理由はわからないけれど、ほうを怒っているみたいだった。だから、こんな優しい差し入れは、正直に言って意外な気がした。 「あれはあれで、おまえの身を案じている」と、舷洲先生はおっしゃった。「今日も一緒について来たがったのだが、この屋敷には私しか立ち入ることができぬのでな。おまえに、身体に気をつけるよう、真面目に働くよう、よくよく言い聞かせてくれと言っていた」  あいかわらず口うるさくて心配性だと、笑いながら付け足した。  誰がお出ししたのか、大ぶりの茶托に小さな茶碗で、白《さ 》湯《ゆ》が出ている。先生がご所望になったのかもしれない。かすかな湯気の立つ湯飲みを取り上げて、先生はひと口、ふた口とゆっくり飲んだ。それから穏やかな口調で切り出した。 「このあいだは、おまえにまで怖い思いをさせてしまった。済まないことだったよ」  舷洲先生に謝られるなんて、とんでもないことだ。ほうはあわてて頭を下げ、それから、風呂敷包みを抱えたままでは行儀が悪いことに気づいて、急いでそれを脇に置いた。両手を揃えて畳につき、深々と平伏した。何を言ったものか見当もつかなかったので、黙ったままで。  舷洲先生は目を細めた。「お辞儀の仕方も堂に入ってきたな」  そして、伏せたままのほうの頭越しに、石野さまに話しかけた。「石野殿と申されましたな。ほうの世話役をお務めいただき、ありがとうございます」  や、やややと、石野さまがあわてたような声を出す。袴《はかま》がしゅっと鳴った。 「い、いえ、私のような若輩者が、匙の先生からそのようなお褒めの言葉を賜るとは、恐縮至極にございます」  舷洲先生がほうの背中を軽く叩く。「もう起きなさい」  ほうが顔を上げると、先生の優しい笑顔がまん前にあった。 「この石野殿が、あの騒ぎには、おまえはまったく関わりがないと懸命に申し開きをしてくださったおかげで、おまえはあの怖い顔をした船橋様や山崎《やまぎき》殿に叱られることがなくて済んだのだ」  石野さまはさらにあわてて、丸顔に血をのばらせた。「いえ、それは違います。井上先生のお口添えがあってのことでした」  ほうは二人の顔を見比べた。つくづくと見ても、どちらのおっしゃることの方が上なのかわからなかったので、最初は舷洲先生に、次にはきちんと身体の向きを変えて石野さまに、「ありがとうございました」 と、丁寧に言った。 「お礼を申し上げるなら、井上先生に申し上げなさい」  石野さまは赤い顔のまま、つんのめるように早口で、 「あのままだったら、私一人の力ではどうすることもできず、おまえは ——— 」  言いかけて、はっと口をつぐむ。顔の赤味が失せて、目が泳いだようになって舷洲先生を見た。  舷洲先生はうなずいた。そしてほうに目を向けられた。 「あの日、何が起こったのかというとな、ほう」  このお屋敷に忍び込もうとした子供が二人、警備の役人に見つかって、成敗されたのだとおっしゃった。 「せいばい・・・・・・」 「斬られたのだ。斬られて、命を落とした」  優しい声でゆっくりと、先生は言い聞かせてくれた。 「その二人の子供に、邪気 ——— いや、悪い企みがあったとは思われない。ただいたずらか子供らしい勇気試しで、鬼だ悪霊《あくりょう》だと騒がれ、この屋敷に押し込められている加賀殿のお顔を見ようとやって来ただけのことだろう。それでも、御牢番としては捨て置くことはできぬ。だから斬った」  ほうは石野さまを振り返った。石野さまはほうの目を見て、うなずいた。 「二人とも死んでしまったんですか」と、ほうは舷洲先生に訊いた。 「うむ」 「さぞかし怖くて、痛かったですよね」 「ほんの刹那《せつな》のことだったろう」  |せ《 ヽ》つ《 ヽ》な《 ヽ》の意味がわからないが、ほうは黙って下を向いた。 「それらのことは、おまえが何も知らず、一日の疲れにすやすやと眠っているときに起こった騒動だ。だがなぁ、運の悪いことに、その二人の子供を、おまえは少し知っていた」  びっくりした。どの子だ? ほうには友達なんかいない。いるのはおあんさんだけだ。 「嘉介を覚えているか。西番小屋の親分だ。ほんの数日のあいだだったろうが、おまえを引き取ってくれたことがある」  親分 ——— おあんさんがそう呼んでいた、あの小父さんのことだろうか。そう、あの家だ。 「お吉《よし》ちゃんて子がいました」  ほうより年長の女の子で、意地悪をされたから覚えている。そういえば、他に男の子が二人いたじゃないか。うるさいくらいに元気な兄弟。でも二人とも、ほうには話しかけてこなかったっけ。ちょっと離れたところから、くりくりとすばしっこく目を動かして、珍しそうに眺めているだけだった。  いっぺんだけ、訊かれたかな。   ——— おまえ、うさぎの身内か?  ほうが返事をしなかったら、年長の男の子の方が弟に、こいつは頭が鈍いんだってサと言っていた。 「お吉は無事だ。今度のことで死んだのは、お吉の二人の弟たちだった」  二人とも死んだのか。ほうは名前も覚えていない。あのころ教えてもらったのだろうが、頭に留めておくことができなかった。 「彼らの両親も、このことでお咎めを受けた」と、舷洲先生は続けた。声が低くなっている。 「嘉介は覚悟していたようだ。嘉介の妻 ——— 兄弟の母親は、倒れて寝込んでしまったので、何とか処分を免れ、今は匙家にお預けの身になっている」  石野さまが素早く口を挟む。「それについても、井上先生がご尽力されたと伺っております」  舷洲先生は答える前に、ふうと吐息をした。 「私だけではありません。嘉介は皆に仰がれる立派な引手頭でしたから、堀外の者が奔走してくれたのですよ。しかし、結局はただ時を稼いだだけでした。いずれ、目立たぬ形で処罰されることでしょうな」  ああ‥・・・というくぐもった声を漏らして、石野さまは目を伏せた。 「いずれにしろ、この子まで巻き添えにせずに済んで不幸中の幸いでした。石野殿のおかげです」  石野さまは、膝の上に置いた手を軽く握り締めると、うつむいたまま言った。 「戸崎さまや小寺さまは、嘉介とこのほうのつながりを、かねてからご承知のようでした」  舷洲先生は黙ってうなずく。 「日ごろは、稗《はしため》のこの子のことなど、犬ころのように扱って ——— いや、その、ただ便利に使っているだけの方々です。戸崎さまがこの子の身の上に興味を持たれる理由もありません。それなのに、いったいどうして詳しくご存知なのかと訝《いぷか》りました」  舷洲先生ははっと膝を動かし、石野さまの方に向き直った。「石野殿は、本来、作事奉行の番《ばん》匠《じょう》でおられますな」  石野さまは顔を上げて答えた。「左様でございます。十五年前、この屋敷の普請の折には、作事奉行が采配をいたしました。当時、私の父が番匠頭を務めておりましたので、一切の実務を取り仕切ったのです」 「お父上が」 「はい。私はまだ未熟者ですから、番匠のなかでも小役から昇格したばかり、このたびの課役のような大事の役割を担うことなどできません。ただ、この屋敷を建てたのが父だというつながりで ——— 私自身、当時の作事を父に連れられてこの目で見ておりますし ——— 某《なにがし》かのお役に立てることもあろうという番匠頭の配慮により、御牢番に連なる大役を拝命したのです」  舷洲先生は微笑んだ。「しかし、そうして来てみれば子供の世話役だ。まことに申し訳ない」 「い、いえ。とんでもない。もともと作事方から私が選ばれた理由の内には、とにかく人を出さねばならぬのならいちばん使えぬ者を遣っておけという考えがあったからでして、父のことはまあ口実 ——— ああ、いえ」  言いながら、石野さまは汗をかいている。 「それに私は子供が好きです。ほうは末の妹と同じくらいの歳ですし、いい子です。よく働きます」 「番匠の方々は山や海や野や川を相手にお役目に忙しく、日頃、お城のなかの生臭いやりとりとは無縁の暮らしをしておられる」  困ったような顔で、石野さまがほうを見た。舷洲先生はほうに言った。「こちらの石野さまはな、ほう。我々丸海の民が安心して暮らせるように、橋をかけたり、土手を築いたり、築いたものが壊れたら修繕をするのが本来のお仕事だ」  まったく知らなかったから、ほうは目を瞠った。「大工さんですか?」 「士分の皆様だから、番匠とお呼びする。大工ではなく、大勢の大工を使って指図をするお役目だよ」 「私はまだまだそこまでいかないんだ」  石野さまはまた赤くなった。ふるふると片手を振っている。そんな仕草をすると、急に子供のように見えた。ほうは石野さまの年齢のことなど考えたこともなかったが、今まで何となく思ってきたよりも、もっとお若いのかもしれない。 「しかし、それでは困惑なさるのも無理はありません」と、舷洲先生は石野さまに言った。 「この舷洲は、物頭で御牢番頭の船橋様とは竹馬の友。また加賀殿の係医を務める砥部《と べ》家とも親しく行き来をする間柄です。一方、戸崎殿や小寺殿は大番頭の倉持《くらもち》様の配下で、倉持と船橋の両家は、大番頭と物頭という上下関係にありながら、代々折り合いがよろしくない。また倉持の家は、匙家筆頭の杉田《すぎた》家と深い姻戚関係をお持ちだ。匙七家に関わる事柄ですから、これは私もよく存じていますが、杉田家は万が一の失敗を恐れて加賀殿の係医になることを逃げ回っておったのですが、いざ砥部家に決まると、新参者が生意気なと後腹を立てている」 「ははぁ……」と、石野さまは感心したような声をあげた。 「そもそもは、誰が御牢番頭を務めるかという争いに、事は端を発しています。倉持様は、加賀殿ほどの大切な幕府からの預かり人を警備するに、たかが足軽の頭に任せられるものかとおっしゃった。ところが船橋様は、加賀殿は預かり人ではなく流人、罪人。それを警護し監視監督するは、むしろ大番頭の下につき、足軽頭でもある物頭にこそふさわしいお役目と主張した。一朝事あれば軍陣の将ともなる大番頭自らが警護をなすっては、幕府の定めた罪人を丸海では貴人の如く礼遇するかという誹《そし》りを免れぬとおっしゃったのですよ。そうした、ご家老を審判役に立てての意見の応酬に、結果的には船橋様に軍配が上がった」 「殿のご決断と伺っております」と、石野さまが言った。  舷洲先生は大きくうなずく。「英断にあらせられると、私は思います。左様、前身はいかなる貴職にあろうと、今の加賀殿は一介の罪人なのですからな」  難しい言葉が行ったり来たりする。ほうは一生懸命、舷洲先生と石野さまの顔を見比べていたが、おっしゃることの半分もわからなかった。 「それでも、ご家老としても、大番頭の面目を丸つぶれにするわけにもいかない。御牢番頭は船橋様、御牢番に就く藩士も半数以上は物頭配下から出すことに定めた上で、大番頭からの直命で、監督役を数名入れさせることにした。戸崎様がその監督役です。つまり涸滝のこの屋敷は、最初から倉持と船橋の呉越同舟《ごえつどうしゅう》であるわけです」  石野さまの真っ直ぐだった口元が、ちょっと緩んだようである。 「なるほど・・・・・」  舷洲先生の頬も緩む。「さすがに表立った諍いは慎むにしろ、どうにも剣呑な雰囲気がございますかな」 「はあ、何かと。私にはその理由がわからず、困ったものだと思っていました」  一昨日の一件の折も、と、また真顔に戻る。 「船橋様は、子供らを即座に斬り捨てず、しばし待てのご命令を下されたそうです。しかし間に合いませんでした。あの日の夜番の長《おさ》はもう一人の助役《すけやく》の ——— 」  皆まで言わせず、舷洲先生は言った。「そんなことであろうと思っていました」 「あの夜、私は」石野さまの喉仏がごくりとした。「子供らが屋敷に忍び込んだ経路を探り出せと命じられました。父の書き残した図面と、今般の普請直しの際の図面を手に、夜通し検分しましたが、この野山や森をよく知る子供たちの知恵と、身軽さにはかなわなかったようです」 「作事方では、どなたかお咎めを?」 「易《やす》々《やす》と子供らを近づけたのは普請に手抜かりがあった故であるという廉《かど》で、番匠頭が蟄居を命じられております」  ほうには、やっぱり難しいお話ばかりだったけれど、あの騒ぎのあった夜、石野さまが足袋を泥だらけにして、ひと晩眠っていないような赤い目をしていたのは、夜通しお仕事をしていたからなのだということだけはわかった。 「倉持様は、それ見たことかと船橋様をお叱りになったようですよ」 「それでも、ご処分ということにはなりますまいな? そんな白地《あからさま》の大事にしては、丸海藩が危うくなる」  舷洲先生は目をつぶってうなずいた。 「ですから作事方の番匠頭が割を食ったことになるのでしょう」 「江戸表にまで……今般のことは聞こえているでしょうか」 「さあ、それはわかりません。わかったところでどうしようもない」 と言ってから、舷洲先生は急に吹き出した。驚いたように石野さまが目を剥く。 「い、井上先生?」 「いや、これはご無礼を。しかし片腹痛いとは思いませんか。あの子ら二人を、あの幼い子供たちをですよ、倉持様はまるで刺客《し かく》であるかのようにおっしゃったそうです」  そ、それはと石野さまは詰まった。 「しかも、このほうが手引きをしたと。つまり、先《せん》からつながりのある子供であるから、それに違いないと。さらに大本《おおもと》をたどれば嘉介がおり、嘉介は此度の課役をし損じさせることによって、丸海藩転覆を企む一派の手先だというのですな。言いがかりにもほどがあろうというものだ」  舷洲先生は言って、まだくつくつ笑いながらほうを見返った。そして、 「おまえは十と八つのガキ大将の刺客を手引きしたというので、危うく斬られるところだったのだよ、ほう」  シカク? 斬られる? 「刺客というのは殺し屋のことだ。おまえがここに殺し屋を呼んだと思われていた」 「あたしがですか?」  ほうは指で自分の鼻の頭を指した。 「そうだ、おまえがだ。大人は途方もないことを考えるものだね」  ピンとこない。だってほうはずっと小屋にいて、それは確かに気が揉めたけれど、ただそれだけで何事もなく終わってしまったわけだから。 「先の頓死した女中は、倉持様の推挙で上がった者でした。それがころりと死んでしまい、御牢番に動揺が起きて、倉持様としては格下の船橋様の前で面目を失った形になっていた。すわ、これで巻き返しだとばかりに言い募ったのでしょうが、何しろ相手は子供だ。刺客なんぞであるわけがない」  最後の方は、ぴしりと叩くような口調になって、舷洲先生は言った。 「私のような軽輩が、井上先生にこんなことをお訊ねするのはご無礼かと存じますが」  石野さまがかしこまって口を開いた。 「ほうが処分をまぬかれたのには、他ならぬ側隠公《そくいんこう》からのおとりなしもあったからだという噂を聞きました。もしもそうであるならば、それも先生がご尽力くださったのですね」  舷洲先生は軽く首をかしげると、ほうに言った。「側隠公というのはな、ほう。お城におられるお殿様のお父上のことだ。今は御隠居の身になり、側隠と名乗っておられる。すべて哀れな者に慈悲深くあれ、というお名前だよ」  よくわからないまま、ほうはハイとうなずいた。ソクインコウって、珍しいお名前だ。 「井上先生は、側隠公の御世には係医を務めておられたのですから、今でも ——— 」  と言う石野さまを、舷洲先生は軽く手を上げて遮った。 「私がほうをこの屋敷に推挙したのは」と、一語一語をはっきりと、石野さまとほうではなく、何か空《くう》にある見えないものに向かって言い切るように言葉を続ける。 「この子のように無垢《むく》な者こそが、大人たちがこぞって踏み迷っている闇を晴らしてくれるのではないかと期待しているからです」  いたずらな恐怖。我執。欲や憎しみ。数え上げておっしゃる。 「加賀殿のようなお方は、周囲にいる者どもが日頃は押し隠しているそういう黒いものを浮き上がらせる。加賀殿の毒気がどうだの、魅入られておかしくなるだのというのは、何のことはない、その者がもともと内に隠し持っていたものを、加賀殿を口実に外へ出すことができるようになるからこそ起こることだ。火元は己れだ。闇は外にはありません。ましてや加賀殿が運んでこられたわけではない。領民たちはさておき、この屋敷で加賀殿をお守りする牢番にだけは、しっかりとそれを理解してもらわねばならぬ」  舷洲先生の言葉に聞き入る石野さまの口元と眉毛が真っ直ぐになった。 「内に闇を持たぬこの子を見ていれば、愚かな大人どもにもそれがわかるだろうと、私はわずかな望みをつないでいるのですよ。しかし、私のそういう考えが気に染まぬ人びとも、また多い。ほうの立場は、今後も危うい。此度のことは運よくしのいだが、これで安心というわけには参りますまい」 「次に何かあれば、ほうだけでなく先生と、船橋様のお立場も ——— ?」 「船橋様と私、私が後ろ盾している砥部先生がしくじれば、倉持様と筆頭の杉田が出張《でば》ってくることになりましょうな。それで上手くいくとも思われませんが」  薄笑いを浮かべる舷洲先生の前で、石野さまはますます固い表情になる。 「至りませんが、私もよくよく気をつけるようにいたします。こんな幼い子が、また命を散らすようなことだけは断じて」  あってはなりません。言い切る石野さまの声が少し震えを帯びている。 「よろしくお願い申し上げる」  舷洲先生は手をついて平伏した。石野さまも同じようにして礼を返す。ほうは二人を見て、あわててぺったりと畳に伏した。ややあって、姿勢を直した舷洲先生と石野さまが、抑えた声ながらも明るく笑うのを、頭の後ろで聞いていた。    三  ほうの日々はそれからも、判で押したように同じことを繰り返し、単調ながらも忙しく続いた。  夏の暑さは増してゆく。御牢番の方々が、夕方になると訪れる雷雨が、今年は特に激しいと噂しているのを聞いて、石野さまにお訊ねすると、 「どうもそのようだ。雷のあたり年ということだろう」と笑って、 「おまえは雷が怖くはないか?」 「怖いです。でもおあんさんがお守りをくれました」  着物の襟《えり》に縫い込んだ日高山《ひだかやま》神社の雷避けを見せた。 「なるほど、それなら安心だ。日高山神社がお守りくださる。それでも、稲妻が頭の真上でぴかりぴかりと光っているときには、木立のそばに寄るなよ。落雷で木が倒れては大変だ。小屋や屋敷のなかに入っていることだ」  雷はおっかないが、夕立は昼間の暑さを洗い流してくれるからとても有難い。忙しくて行水も使えず、身体を拭くこともままならぬまま過ぎてしまった一日など、夕立の通った後の涼風に、身が清められるような気がするものだ。  涸滝へ来て以来、丸海藩にいながらも、ほうは海を見ていない。この屋敷は山のなかにあり、城下の頭越しに丸海の海を望むことのできる場所はごく限られている上に、大半の窓はほうの頭よりも少し高いところにあるし、背伸びしてのぞいても、目の詰まった格子がしっかりと嵌《は》められていて、視界をふさいでいる。住まっている小屋は山側だから、見えるのは森と薮ばかりだ。  夕立を見ると、琴江さまが亡くなったあの日の通り雨を思い出す。夕立のときも、やっぱり海にはうさぎが飛んでいるのだろうか。おあんさんはそれを見ているだろうか。海うさぎと同じように、おあんさんは元気だろうか。いつになったら会えるだろう。  ほうの小屋には、寝床にしているむしろと上掛けと、ここへ来るとき担いできた身の回りのものを入れる行李《こうリ》がひとつあるきりだ。飾りものなど何もない。が、先の騒動から十日ばかり経ったある日、石野さまが暦を一枚くださった。 「壁にこうしておこう。これでおまえにも今日の日がわかる」  手ずから壁に貼ってくださった。暦には細かい漢字とひらがながずらりと並んでいるが、その上に小さな張子の犬の絵がついていた。犬張子は子供の病避けなのだと、石野さまは教えてくださった。 「私の母は丸海の生まれではないのだが、母の郷《さ》里《と》では犬張子を赤く塗るそうだ。赤も病避けの色だから」  まん丸な目の犬張子はとても可愛い。  ただ、しげしげと顔を近づけてながめても、いっこうに暦を読むことができない。井上家に上がったとき、最初に習ったのが暦の読み方だった。そのときもなかなか覚えられなかったのを、琴江さまと啓一郎先生が、辛抱強く教え込んでくださったのだ。  それなのに忘れてしまっている。ほうの頑は、次から次へと起こる新しい出来事と、行く先々で働くこと、出会う人の顔を覚えるのに精一杯で、それ以前に習ったことは、押し出されるようにして抜け落ちてしまったものらしい。  試しに、ひらがなで自分の名を書いてみようとしたら、これも上手くできなかった。 「う」は書けるが「ほ」がどうも覚束《おぼつか》ない。木っ端を片手に、地面をがりがり引っかいて何度もやり直してみたが、書けば書くほどに混乱するようだ。  阿呆の|ほ《 ヽ》う《 ヽ》だ。そればかりは覚えている。琴江さまはきっと、困った子ですねと笑っておられることだろう。  その夜は夢を見た。夢のなかのほうは井上家にいて、琴江さまもいらした。啓一郎先生も舷洲先生も出てきた。どうしてかわからないけれどおあんさんも井上のお家《うち》にいて、ほうと一緒に働いている。  二人はお揃いの着物を着ていた。   —— おあんさん、もうどこにも行かないでいいですか。ずっと一緒におあんさんと暮らせますか。   —— うん。ずっと一緒だよ。  ああよかった、嬉しい。そこで目が覚めた。  月のない夜だった。星明りがうっすらと、小屋の羽目板の隙間から忍び込む。その明かりで壁の暦がほの白く浮き上がる。  涸滝に来てから、幾日経ったかな。数えておけばよかった。ここへ来たのは何の日で、今日は何の日だろう。石野さまも、ほうが暦を読めるものと思い込んでいらしたのか、教えてくださらなかった。  暦を見つめるうちに妙に目が冴えてしまい、ほうはむしろの上に身を起こした。それでなくても陽が落ちると涼しくなるし、今日はまた夕立がことのほか強かったので、隙間風は肌に冷たいほどだ。そういえば石野さまが、今夜は寝冷えに気をつけろとおっしゃっていたじゃないか。  ちゃんと上掛けを掛けて寝ないと風邪をひくよ。おあんさんが心配して、夢に出てきてほうを起こし、知らせてくれたのだろう。足先に触ったら冷えていた。  と、そのとき。夜のどこかで、何かがカチカチと鳴るような音を聞いた。  ほうは耳を澄ました。がたんがたん。戸を開け閉《た》てする音もする。こんな夜中に何だろう?  ひょっとして、また誰かが忍び込んだのだろうか。また子供が? そしてまた斬られるのか。  ほうは上掛けを除けて立ち上がった。そろそろと小屋の戸口に近づく。手をかけたところで、今度ははっきりと、お屋敷の方から人声が聞こえてきた。 「見つけたか?」 「いや、ここにはおらん!」  音をたてないように気をつけて戸を開け、ほうは顔を出した。 「出合え!」 「明かりは? 明かりを点《つ》けろ」  矢継ぎ早の声が飛び交い、廊下を駆けてゆく足音が続く。間違いない。ぴっちりと雨戸を閉てきったお屋敷の内側で、何人かの人たちが走り回っているのだ。  どうしよう。小屋の戸につかまったまま、ほうは夏の夜の底に沈む涸滝の屋敷を仰いだ。あたしは小屋に戻った方がいいんだよね。じっとしていた方がいい。お邪魔にならないように。先《せん》の時もそうだったんだし。  もしもまた子供が斬られるのだとしたら、ほうもまたお叱りを受けるのかしら。  出し抜けに、小屋に面した雨戸が一枚、ぱらりと倒れて庭に落ちた。ほうはぎょっとして飛び下がった。  なかからは誰も出てこない。星明りも、敷居のあたりを照らすだけだ。屋敷の内には闇が溜まっている。  雨戸を元に戻さなくちゃ。  心の臓がどくんどくんと飛び上がるので、両手で胸を押さえて棒立ちになっていた。膝に力が入らない。ああ、どうしよう、どうしよう。  と、頭の上を風がよぎった。  ような気がした。急いで目を上げてみても、何も見えないのだ。何か鳥のようなものが飛びすぎたように感じたのに。  |こ《ヽ》ん《ヽ》な《ヽ》夜《ヽ》中《ヽ》に《ヽ》飛《ヽ》ぶ《ヽ》鳥《ヽ》は《ヽ》い《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》。  それでもほうは生き物の気配を感じた。何か息をするものが、すぐ近くにいるのを感じた。  両手にぎゅっと力が入る。寝巻きの襟をつかむ。  大きなケモノがそばにいる。  ほうは小屋の屋根を仰いだ。羽目板と、その上に載せた石が丸く光っている。  そこに闇が淀んでいた。  夜の闇ではない。空に散った星が、そこだけ暗闇に切り取られているのだ。  目を凝らした。淀んだ闇はじっと動かない。  心の臓が高鳴る。膝が笑う。それでもほうは闇の形を見定めようとした。  闇が動いた。  動いた途端に、その形が見て取れた。頭、肩と腕。  人の形が見えた。  ほうは息を呑んだ。心の臓が止まる。それと同時に、屋根の上からほうの拳ほどの石がころころと転がり落ちてきた。  屋根の上の人の形が立ちあがる。何かがぎらりと光った。銀色の光だ。  刀だ! ほうは声もなく駆け出した。今にもあれが飛び降りてくる。ほうは斬られる。斬られてしまう。雨戸の落ちたところに駆け寄る前に。走っていたら追いつかれる。  筋道立てて考えたのではない。身体が勝手に動いていた。ほうは前のめりに駆けて、屋敷の床下へと転がり込んだ。膝で這い、両手で地べたを引っ掻いてしゃにむに奥へ奥へと進んだ。追いつかれたら斬られる。  あわ、あわと叫んでいた。自分では大きな声を出しているつもりだったけれど、実は息を吐いているだけだった。冷汗と涙で目の前が曇った。それでも前に進むことをやめなかった。  頭の上の床を、数人の足音が雷鳴のように轟いて駆け抜ける。思わずきゃっと叫んで止まり、両手で頭を抱えた。身を縮めて丸くなる。ほうが止まると、屋敷のなかの騒動が聞こえてきた。あっちでもこっちでも怒鳴り声がしていた。雨戸や唐紙が蹴り倒される。 「庭だ、庭だ! 庭に回れ!」  床下のどんよりとした闇のなかに、ほうは一人きりだった。鼓動を手で必死に抑え、気配を感じ取ろうと身構える。  小屋の屋根の上にいた闇の人は、追いかけてはこないようだった。床下に、ほうは一人きりだ。  ぐるりを見回した。土台柱の影がぼんやりと見える。立ち上がったら頭をぶつけてしまう。両手は砂と土にまみれ、膝を擦り剥いたのかヒリヒリした。  お屋敷のどのへんまで来てしまったのか。どっちへ戻れば小屋のある裏庭だろう。闇雲に進んでしまったので、どっちから来たのかも見当がつかなくなっている。  再び地べたに手をついて、とりあえず今顔が向いている方向へ進んでみた。柱、木っ端、石。何か小さなものが身体をかすめて逃げ去ったのは、鼠だろう。噛まれなくてよかった。  顔にうっとおしくくっつくのはくもの巣か。手でごしごしとこする。  駄目だ。さっぱりわからない。涸滝のお屋敷は広い。このままでは床下で迷子になってしまう。夜が明けるまで待とうか。でも鼠に囓《かじ》られるのは嫌だ。  ほうが逡巡しているあいだにも、頭の上では足音と怒声が続いている。すぐ近くで叫んでいても、声が割れて上ずっていて聞きとれない。  御牢番の皆さんは、裏庭に行ったのだ。さっきの闇の人を追いかけて。  刀を持っていた。曲者《くせもの》だ。  不意に、耳慣れないけれど聞いたばかりの言葉がほうの心に浮かんだ。  刺客。殺し屋。  がくがくと震えが出てきた。もう膝が動かない。寝巻きは汗でじっとりと湿っている。  ほうの右手の先、一間ばかり進んだところに、細かい明かりが漏れていた。  畳とその下の床板が緩んでいるのだ。だから明かりが見える。こんな時刻、明かりがついているのは廊下だろう。さもなければ詰所だ。ほうは、屋敷で変事が起こっている以上、どこに明かりが点いていても不思議はないということまで思いが及ばなかった。  下から声をかけてみてはどうかしら。床下に逃げ込んで出られなくなりました。刀を持った怪しい人を見ました。そう言えば、御牢番の皆さんが助けてくださるだろう。  ほうは明かりの漏れている下まで這った。真下に来て、上を仰いだ。手を差し伸べ、床板の隙間に触れかけた。ほうの掌の幅だけ、光が遮られて暗くなる。  出し抜けに、頭上が開けた。畳が上がり、床の羽目板が消えた。眩しさにとっさに顔を背けた。 両手で目をかばう。 「こ、これは?」  大きな声が降ってきた。まばたきしながら目を向けると、鼻先に槍が突きつけられている。ほうの鼻の頭から一寸と離れていない。  そのまま固まってしまった。 「おまえは ——— 」  頭上に、三人の人影がある。明かりを背負って真っ黒な影だ。どなたなのかわからない。一人が槍を、二人は刀を構えている。  ようやく槍が引っ込んだ。 「下女だ。あの子供だ」  唾を吐くように誰かが言って、ほうはむんずと腕をつかまれた。そのまま吊り上げられる。肩が抜けそうに痛かった。床板の縁にしたたか膝頭をぶつける。 「こんなところで何をしておるのだ!」  怒鳴り声と一緒に唾が飛んできた。怖さとわけのわからなさに、ほうは頭のなかが真っ白に飛んでしまい、言葉を忘れた。くちびるが合わさらない。胸倉をつかまれ揺さぶられると、腕も足もぶらぶらした。 「この痴《し》れ者が。ここで何をしていたと聞いておる!」 「答えぬか! 答えねば斬るぞ」  三人の御牢番が口々に怒鳴る。すらりと反り返った刀が光る。そこは座敷で、行灯《あんどん》が赤々と灯っていた。ほうは目が回ってきた。 「逃げてきたのであろうよ」  響きのいい声がした。  ほうを捕まえていた御牢番たちは、一様にびくりとして動きを止めた。 「頑是無《がんぜ な》い子供を相手に、逆《の》上《ぽ》せて怒声を上げるなど武士の恥。其処許《そ こ もと》らの軽挙は、畠山公《はたけやまこう》の恥にもなろう。落ち着かれよ」  三人の御牢番は、首をよじって自分たちの後ろを見ている。ほうも襟をとられて宙吊りのままそちらに目をやった。 「放しておやりなさい。子供の首が絞まってしまう」  同じ響きのいい声が、御牢番たちにそう命じた。平らかな水のような声だった。声が人の形を写すものであるならば、御牢番たちの声が浮き足立っているのに、この声ばかりはどっしりと据わっていた。  声の主のいる方を向いたまま、ほうの襟首を取っていた御牢番は手を緩めた。ほうはぺしゃりとその場に崩れた。  身構える御牢番たちの胴の間から、静かに響く声の主の姿が見えた。  違い棚のある床の間を背に、膝を揃えて正座している。行灯の光に、顔の半分だけが照らされている。残りの半分は影になっている。  身体の半分が人で、半分が闇だ。経帷子《きょうかたびら》のような白装束に、髪はほうほうと乱れ、顎はげっそりと痩せこけている。  明るい方の半分の顔に、眼が光る。その瞳がほうを見ていた。 「おまえはここで働いている下女か」  その人はほうにそう尋ねた。未だ声を取り戻せず、ほうはただただ何度もうなずいた。うなずいているうちに震えがきた。涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。  お、とか、あ、とか、呻くような短い声をいくつかあげながら、御牢番たちは互いの顔を見回し、ほうに問いかける白装束の人を見る。 「か、か、か」と、一人の御牢番が言った。上ずっているのを通り越して、ほとんど泣いているような声だ。何か言おうとしているのだろうが、つっかえてしまって言葉が出てこない。 「刀をおさめてはいかがか」  落ち着き払い、叱るような厳しい声音で、白装束の人は三人に言った。 「下女に何の危険があろう。あるいはこの座敷に踏み込んだ咎で、この子を斬るか」  ほうは手放しで泣いていた。白装束の人はほうの泣き顔に目を向ける。 「無用の殺生に及ぶおつもりであるならば、まずこの加賀を誅《ころ》してからにしていただこう。下女に罪はない」  この加賀。  この方が加賀さまなのだ。涙に曇る目をいっぱいに瞠って、ほうはその病人のようなお姿を見つめた。   四  夜明け前に、ほうは涸滝の屋敷から外へ出された。  逃げられぬよう、手足をきつく縛られて駕篭に押し込まれている。何処へ連れて行かれるのか見当などつかない。  真夜中、あの騒動の渦中で、ほうは初めて加賀さまのお顔を見た。  加賀さまの身辺を守る御牢番のお侍さんたちに、刀と槍を突きつけられた。  ほうはこんなふうに頭が鈍いけれど、それだってあの場に立ち込めていた殺気は感じ取れた。筋道立てて物事を考えることはできないけれど、自分が、小屋のそばで出遭った賊の気配に怯えて床下を逃げ惑ううちに、他でもない加賀さまの寝所の真下に迷い込んでしまったことぐらいは察しがついた。  斬り捨てられるのだ —— と思った。  その剃那には怖くなかった。いろいろな声が遠く聞こえて、いろいろなものの色がくっきりと見えた。加賀さまがお召しになっていた経帷子のような白装束は、今もまぶたの裏に焼きついて離れない。  すぐ手の届きそうなところに浮かんで見えた、痩せてやつれた加賀さまのお顔も。  鬼ではなかった。頭に角など生えてはいなかったし、恐ろしい牙が口の端からはみ出していたわけでもない。  ただ、とても悲しそうなお顔に見えた。  加賀さまが何かおっしゃった。それでほうの「時」が動き出した。ほうは、小屋の上に黒い鳥がいたことをしゃべった。でも、夜中に鳥が飛ぶはずがないことも言った。小屋の屋根で光った刃のことも言った。泡を吹くような勢いで、一生懸命に言った。  すると座敷から引きずり出されて、長い廊下をぐいぐいと引っ張られて進んだ。何とか自分の足で立とうと、いくら床を蹴っても無駄だった。ほうを捕らえて引きずってゆく御牢番のお侍の力は強く、足は速く、角を曲がるときほうの頭がしたたか柱にぶつかっても、それを気にする様子もなく、何か穢《けが》れたものを大急ぎで放り出してしまおうとでもいうかのように、しゃにむにほうを加賀さまのお座敷から遠ざけていった。  そうして今は駕籠のなかに押し込められている。まわりが動き出したことで、ほうの「時」は動いても、心は未だ止まったままだ。  ほうが駕籠に乗せられるとき、すぐ間近で、誰かが泣くような声で何か言い募っていた。石野さまのお声だと思ったけれど、違うかもしれない。名を呼ばれたような気もしたけれど、それもたぶん夢のようなものに過ぎないのだろう。  ひょっとしたら、ほうはやっぱり、もう斬られて死んでいるのかもしれない。駕寵に乗っているのではなく、これは三途《さんず》の川の渡し舟なのだろう。  いつか ——— そう、もう名前も思い出すことができないけれど、江戸の萬屋《よろずや》を発つとき一緒についてきた、あの意地悪な女中が言っていたことがある。あれは確か、大井川という、見たこともないような広い川を渡ったときだったっけ。ほうを渡してくれた川人足のおじさんは優しい人で、ほうが金比羅さままで、おうちの人たちの代わりにお参りに行くのだと話すと、偉い、偉いと褒めてくれた。不憫《ふ びん》だなぁとも言った。|ふ《 ヽ》び《 ヽ》ん《 ヽ》てなぁにと聞くと、おまえはいい子だなと、また褒めた。  そして川を渡り終えると、ちょっと待ってなと言って、川人足の溜まり小屋へ大急ぎで戻って行き、紙に包んだものを持ってきて、ほうにくれた。開けてみると、焼菓子だった。 「達者で旅をするんだぞ」  渡し場から離れると、あの女中がそばに来て、ほうの手からお菓子の紙包みを取り上げた。それを地べたに捨てると、草鞋の底でなんべんも踏みつけた。   ——— あんたなんか、大井川じゃなくて、三途の川を渡っちまえばいいんだ。  そして、ほうの二の腕の柔らかいところを、ぎゅうっとつねりあげた。旅を始めてから、何度となくそうされていたので、ほうの腕のそのあたりには痣《あざ》がいくつもついていた。   ——— いつかきっと、そうしてやるから。今に見てな。  目の色を変えて凄んでいた。  |い《 ヽ》つ《 ヽ》か《 ヽ》き《 ヽ》っ《 ヽ》と《 ヽ》。意地悪な女中はいなくなってしまったけれど、その|い《 ヽ》つ《 ヽ》か《 ヽ》が今来たのかもしれない。この駕寵の覆いを上げたら、川の流れが見えるのかもしれない。そして川を渡りきったら、岸辺にはおっかさんがいる。死んだ人はみんな、向こう岸にいるんだもの。  駕龍が止まった。出し抜けに、覆いを跳ね除けて誰かの腕が伸びてきて、ほうの腕をむんずとつかむと引き摺りおろした。そら、岸辺に着いたのだ。  そこは土間のような薄暗い場所だった。天井が低く、立ち並ぶ太い柱とぶっちがいになった梁《はり》が、黒光りしてほうを見おろしていた。  身体が宙に浮いた。担ぎ上げられたのだ。そしてほうは、くねくねと入り組んだ廊下を運ばれていった。涸滝のお屋敷と同じくらい ——— いや、もっと広いかもしれない。いくつ角を曲がってもまだ角がある。人の声が聞こえたり、聞こえなくなったり、足音が近づいたり、遠ざかって不意に消えたり。ほうを担いでいるお武家さまは一人ではなく、何人もが前後についていて、手《て》燭《しょく》を持っている。その炎が黒い廊下に映って揺れた。  お武家さまたちの歩みが止まった。  どすん! とおろされ、背中を押された。低いくぐり戸のようなものの内側へ、ほうは頭から転がり込んだ。すぐに背後で、ずしりとした重たいものが動かされるような音と気配がした。  板張りの床におでこをぶつけて、目から火が出た。手足を縛られているので、痛むおでこをさするどころか、起き上がることさえできない。芋虫のように転がったまま、それでも、足を揺すったり肩をひねったりして、身体の向きを変えた。  壁一面の、太い格子が見えた。さっきほうが転がり込んだくぐり戸は、その格子の一部で、戸の枠組みの部分が他の格子よりも太くなっている。格子のひとつひとつは三尺四方ほどの大きさで、大人なら腕を通すこともできないだろう。  格子が邪魔で、外の景色は見えない。どっちみち暗い。でも、くぐり戸のすぐ脇に、こちらに背中を向けて、誰か座っている人がいる。お武家さまだ。着物の背中に、畠山家の紋所がひとつ。そばに燭台《しょくだい》か瓦灯《が とう》を置いてあるのだろう。明かりの大半はその人の身体に遮られてしまっているけれど、明かりがほのかに揺れるのはわかる。  ここは ——— 牢だ。  江戸の萬屋に、座敷牢があった。何かでひどく叱られて、お仕置きだと、一、二度入れられたことがある。その折には、女中頭に、ひどく脅かされたものだった。 「先々代のご隠居さんは、ここで死んだんだよ。病がおつむりに入っちまってね。畳をむしって口に入れたり、とっくに死んだおかみさんとしゃべったり笑ったりしなすったもんだからね。あんたも、心を入れ替えて神妙にしないと、死ぬまでここから出してもらえないよ」  |そ《 ヽ》し《 ヽ》た《 ヽ》ら《 ヽ》、あ《 ヽ》ん《 ヽ》た《 ヽ》の《 ヽ》お《 ヽ》つ《 ヽ》む《 ヽ》り《 ヽ》に《 ヽ》も《 ヽ》病《 ヽ》が《 ヽ》入《 ヽ》っ《 ヽ》ち《 ヽ》ま《 ヽ》う《 ヽ》よ《 ヽ》。  牢というのは、そういうところだ。  そうか。ほうは加賀さまにお会いしたから、もう何か悪いものがおつむりに入ってしまったのかな。だから、こんなところに閉じ込められてしまうのかな。  残りの三方の壁は板張りで、だいぶ古くて板目が歪んでいるところもある。窓はない。四畳半ばかりのこの場所には、黴《かび》のような、泥のような、厠《かわや》のような、重たくてどろりとした臭いが溜まっている。手ですくいとることができそうなほどにまったりと。 「あの」  横様に転がったまま、くぐり戸のそばの人影に声をかけてみた。返事はなく、動きもない。明かりがほろほろと揺れるだけ。  ほうは目をつぶった。そうすると、心が落ち着いた。駕籠に乗せられているときと同じだ。ここは三途の川の途中だ。次に目を開けたら灰色の川の流れが見えて、岸辺が遠く霞んでいて、そこにおっかさんが立っている。  だから泣くことも、怖がることもない。萬屋のご隠居さんみたいに悲しいことになる前に、ほうはあっち側に渡る。  その前に、もういっぺんだけおあんさんに会いたいけど、それはかなわない願いだろう。  廊下を踏む荒々しい足音で、目が覚めた。 「これはいったい」  誰かが怒っている。 「なぜこのような酷《むご》い扱いをするのです。誰がこんなことを命じたのです」  おや、舷洲先生のお声のようだ。  くぐり戸が開いた。ほうはまぶたを開いたが、いつの間にか眠ってしまったらしく、寝ぼけていてよく見えない。 「この子は何も悪いことをしたわけではない!」 今度ははっきり聞こえた。やっぱり舷洲先生だ。目の焦点が合った。最初に見えたのは、先生の袴の折目だ。身体が優しく抱き起こされる。 「ほう、大丈夫か。恐い思いをさせてすまなかったな」  舷洲先生はほうを座らせ、手足のいましめをほどきにかかる。ほうはぼうっと目を上げた。裃《かみしも》を身に着けた船橋さまがくぐり戸から入ってくる。さらにもう一人、手燭に立てた長い蝋燭《ろうそく》の炎を手でかばいながら、袴姿のお武家さまが続く。初めて見るお顔だ。どなただろう? 「怪我はしておらんか。見せてごらん」  ほうの手足をさするようにして、舷洲先生が問いかける。忙《せわ》しなく首をめぐらせて、くぐり戸の外に向かい、 「この子に何か食べ物と、白湯を持ってきなさい」と、厳しく命じた。 「井上先生」  船橋さまが声を発した。格子を背に姿勢正しく座り、歯痛に苦しむ人にも似た、辛そうなお顔をしている。 「お怒りはほどほどに。たかが下女のことではありませんか」  舷洲先生は噛みつきそうな勢いで船橋さまを振り返った。「たかが下女なら、なぜこんな過酷な扱いをするのです」  先生が怒鳴るなんて、信じられない。ほうは、先生のふたつの目の玉が、今にも飛び出してしまうのではないかと心配になった。 「おわかりのはずだ」と、ため息を吐き出しながら船橋さまは言った。「やむを得ぬことだったのですよ」  船橋さまから三尺ほど下がり、手燭のつくる光の輪の縁に座っていた三人目の袴の方が、ゆっくりとうなずきながら口を切る。 「倉持さまは、この下女を手ずからお調べになるおつもりです。今も、躍起になってこの者の居所をお探しのようだ。素早く涸滝から連れ出すことができて重畳《ちょうじょう》でございました」  舷洲先生が唾を吐くように言った。「いつもながら、梶原《かじわら》殿のお手際は鮮やかなものです。しかしそれならば、涸滝で不祥事が起こった折、いの一番に倉持さまに御注進に及ぶような不心得者を、もう少し注意深くより分けて除いておくことはできませなんだかな」  梶原と呼ばれた袴の方が、嫌な臭いをかいだような顔つきになった。梶原、かじわら。ほうは記憶をたどった。  かじわらの ——— |美祢《 み ね》さま。  ではこの方は、琴江さまを手にかけたあの人のお身内か。太りじしの身体つきも、手燭の明かりにてらてらと光る月代も、二重にたるんだ顎も、美祢さまとは似ても似つかない。でも名字は一緒だ。 「おまえ、名をほうと言ったな」  とげとげしいやりとりから顔を背けて、船橋さまがほうに話しかけてきた。 「おまえは昨夜、涸滝で何を見た。なぜ加賀殿の座敷に隠れようなどとしたのだ」  舷洲先生が、ほうを身体でかばうように前に出た。「この子は見てのとおりの幼子です。頭から脅しつけて問い詰めても、怯えるばかりだ。順々に諭して聞き出さねば」 「そんな余裕はない!」  船橋さまの声が高くなった。でもすぐに、暗がりのなかに潜ろうとするかのように低くくぐもる。背をかがめ、眼差しも下がる。 「この子は賊の姿を見たらしいのですよ、井上先生。それに怯えて逃げたのです」 「黒い鳥だと言ったとか」と、梶原さまが口を挟む。「間違いなく刺客と遭遇したのです。その場で斬り殺されずに済んだのは、さても運の強い子供だ」  口の端を吊り上げるように笑って言う。舷洲先生もにっと笑い返す。これまでほうが目にしたことのない、意地悪な笑顔だ。 「逃げ去った賊の追手の指揮は、倉持さまがとっておられるのでしょう」 「それが大番頭のお役目です。洞滝の屋敷は我ら御牢番が固めております」 「なるほど、鳥が逃げてから駕寵の戸を閉じる」 「何ですと?」  梶原さまが身を乗り出しかけ、それを船橋さまが目顔で押し留めた。 「つまらぬ言い合いをしている場合ではない。井上先生もお慎みください。今は丸海藩大事の時です」  ほうは舷洲先生の着物の袖をそっとつかんだ。舷洲先生が目を向ける。 「あの、わたくしは、見ました」  目上の方とお話をするときは「わたくし」と言うのだよ、と石野さまに教わった。 「何を見た、ほう」  ほうは真夜中の出来事について話した。上手く言葉が見つからず、たびたび詰まってはヘどもどした。そのたびに舷洲先生が頭を撫でたり、背中をさすったりしてくださる。船橋さまはますます歯痛の顔になり、梶原さまは怒った顔になる。 「それではおまえは、賊の顔を見たわけではないのだな?」  まだ語り終えていないのに、梶原さまに強く問われて、ほうはびくりと縮み上がった。 「は、はい」 「見たのは黒装束と刀だけか。脅されはしなかったのか」  言葉でぶたれているようで、ほうは怖くなってしまい、ただかぶりを振ることしかできない。 「おかしな話だ」船橋さまは舷洲先生に目を向けた。「私が刺客であるならば、必ずこの子を斬り捨てる。大した手間ではない。刀の一閃でけりがつく」  舷洲先生は口をへの字に結んでいる。 「本《 ヽ》物《 ヽ》の《 ヽ》刺客であったか、怪しいものだ」  唸るような声で船橋さまは言った。ほうの耳には、この牢座敷の壁や床が唸っているかのように聞こえた。 「賊を捕らえてみればはっきりすることでしょう」と、舷洲先生が言った。「ほうが生き延び、こうして語ることができるからこそ、賊の逃げた方角も知れたのです」 「ですからそれも罠なのですよ」船橋さまは唾を吐くように言い捨てた。「倉持さまは策士だ。ただ闇雲に山狩りをして賊を捕らえたのでは、なぜそれほどに手際がいいのかと疑いを招く。しかし、賊が何か手がかりを残しておれば、話は別だ」  それがこの子ですと、顎の先でほうを指した。ほうは怖くなって身を縮めた。 「この子の頭の鈍いことも、承知の上の策でしょう」 「では狂言だと?」驚いたように目を瞠り、梶原さまはでっぷりした顎を震わせた。「刺客は倉持さまが放った者だと」 「声が大きい」  梶原さまが首を縮めた。舷洲先生たちが来るまでくぐり戸の外に座っていた人は、いつの間にか姿を消している。 「そのように底の浅い狂言を打つほど、倉持さまは粗忽《そ こつ》な方ではありますまい」  舷洲先生が、言葉を噛むようにしてゆっくりと吐き出した。 「加賀殿に刺客がかかったのは、これが初めてのことでもない。大坂湊での一件を、お忘れになったわけではないでしょう」 「しかし上様は」あたりを憚る低い姿勢を保ったまま、船橋さまは言った。「加賀殿の死を望んではおられないはずです。それならばもともと流罪に処するはずが ——— 」 「この国で起こる事どものすべてが、上様の御意見に基づくものであるわけがない」  舷洲先生は薄い笑みを浮かべている。 「昨今、江戸市中には、加賀殿の治政を懐かしむ風潮があるようです」  船橋さまと梶原さまが顔を見合わせる。 「当家には、長年、親しく出入りを許している江戸の薬種問屋がございます。そこから漏れ聞く、これは噂話ではございますが」  落書や読本《よみほん》のなかに、今の勘定奉行の手際を詰《なじ》り、加賀殿を誉めそやす内容のものが散見するようになってきた。つい先ごろ、それらの読本の作者と版元がお咎めを受けたと、舷洲先生は語った。 「確たる見通しのないまま繰り返される貨幣の改鋳や、厳しいが斑《むら》のある奢侈《しゃし》禁止令のせいで、江戸では、商人たち町人たちのあいだに憤懣が溜まっているようなのですよ。こんな無能で無慈悲な勘定奉行を頭に頂いているくらいなら、いっそ鬼でも人殺しでも、加賀殿の方がよかったという」  加賀殿復活待望論ですかなと言って、ちらりと笑みを浮かべた。 「では、此度の刺客は、それを不愉快に思う筋から放たれた者だと —— 」 「わかりません」舷洲先生は重々しくかぶりを振った。「江戸は遠い。そこから吹き来る風には、ありとあらゆる思惑が含まれていることでしょうからな。しかし、我が丸海藩の内輪揉めではなさそうだ。いや、そうであってほしくないと、私は思います。それほどに愚かな手合いが、我が薄の治政を担う場所に鎮座していると考えたくはない」  梶原さまはふるふると顎を震わせて、なぜかしら船橋さまから目をそらすようにうつむいてしまった。 「どのみち」と、舷洲先生は容赦なく強い声音で続ける。「誰がどういう理由で加賀殿のお命を狙おうと、結果として加賀殿という玉《ぎょく》を損ねられる事態に至れば、その瞬間に、我が丸海藩の命運は尽きる。ならば、刺客の正体や出所を詮索するのは、空しく無駄な時間の費《つい》えでありましょう。我らはただ、加賀殿をお守りすることに専心すればよろしいのです」  むっとしたように眼を底光りさせて、船橋さまが舷洲先生を睨んだ。「そのようなことは、匙家に今さら言われるまでもない」 「左様でございますか。私はまた、すっかりお忘れになっているかと思いました」  悪びれずに切り返して、舷洲先生はほうに眼を転じた。励ますように微笑むと、再び船橋さまを正面から見据えて、 「いずれにしろ、倉持さまが本当に刺客を捕らえようと、あるいは、これがあの刺客だったという者の屍骸《し がい》を引きずってこられようと、これから成すべきことはひとつ。それは倉持さまご自身もご承知のはずです」 「捕り逃した場合にはどうなるのです」と、梶原さまが膝を乗り出す。舷洲先生は短く笑い、船橋さまは不機嫌そうに息を吐いた。 「それはあり得ぬ」 「あり得ぬとは ——— 」 「梶原、おまえは何もわかっておらぬな。よいか、加賀殿に刺客などかからなかった。刺客はおらぬ。昨夜はいつもと変わらぬ静かな夜であった」  梶原さまはぱちぱちとまばたきをした。ほうも、お話の向きがさっぱりわからなくてまばたきをしていた。梶原さまは、ご自分がほうと同じことをしていると気づくと、急に怖い顔になってほうを睨み、またひと膝、船橋さまににじり寄った。 「つまり、揉み消してしまうということでございますな?」 「最初から何も起こらなんだ。起こっておらぬことを、どう揉み消す?」 「しかし、殿のお耳には ——— 」 「殿も我らと同じお考えじゃ。それしか道がないことはよくご存知なのだから」 「しかし倉持さまは」 「倉持さまのことは忘れろ。殿とて、あの御仁の腹の内などとうに見越しておられる」  そして歯軋《は ぎし》りにまぎれてしまうような低い囁きで、ご城代の企みもな —— と付け加えた。  舷洲先生がほうの肩に手を置いた。「ほう、わかったかの。昨夜、おまえは怖い夢を見た。たいそう恐ろしい思いをしたが、あれは夢だ。本当に起こったことではない。だからまた涸滝の屋敷に戻り、今までと同じように働けばよい」  あれが夢? あの黒ずくめの怖い鳥が? 星明かりの下で冷ややかに閃いた刃も? 舷洲先生がそうおっしゃるなら、そうなのか。  が、ほうがうなずこうとしたとき、船橋さまが斬りつけるように割って入った。 「井上殿、それはならぬ」  舷洲先生は驚きに目を見張った。「ならぬ —— とはどういう仰せです」 「この下女を涸滝に戻すわけにはいかぬと言うておる」  船橋さまの声の残響が、格子をすり抜け暗い廊下にまで染み渡ってゆく。誰も何も言わず、黙っているからだ。舷洲先生の顔は平たく強張り、梶原さまはまばたきもしない。  船橋さまの口元はきつく結ばれている。 「何故《なにゆえ》です」  凍っていたものが溶けたかのように、舷洲先生は素早くほうの肩を抱き、かばうように前に出た。「この先、ほうが何の障りになるとおっしゃる? あれは夢だ、もう忘れろ、二度と口にするなと言い聞かせれば、この子はそれに従いましょう」 「あてにはできぬ。この女中の頭のなかには、藁屑が詰まっておるようなものだそうではないか。いつ誰に、どんな不用意なことを漏らすかわかったものではない」 「確かにほうは頑是無い子供です。だがそれだからこそ、己の損得や面子などという目先のものに踊らされる大人どもより、よほど信を置けるというものです」  船橋さまは舷洲先生の言葉を振り払うようにかぶりを振った。一度、二度。 「井上殿のご意見は承《うけたまわ》った。が、聞き入れることはできぬ。涸滝にはもう下女は置かぬ。御牢番頭をあい勤める私がそう決めた以上、従っていただく」  両手を膝に、真正面から舷洲先生を睨み据えた。 「いかに名門といえども、匙は一介の医家。弁《わきま》えなされよ」  ほうは、肩を抱いてくれている舷洲先生の骨ばった手が、汗ばんでいるのを感じた。先生の額と鼻筋も、うっすらと光っている。 「先生」と、お顔を仰いで問いかけた。「それならあたし、帰れるのですか」  おあんさんのところに、と言いかけたとき、廊下の先からあわただしく床を踏み鳴らす足音が近づいてきた。騒がしいぞと、梶原さまが暗がりの向こうに大きな声を投げつける。 「失礼をいたします」  見慣れた御牢番の出で立ちの、若いお侍が、牢の格子の前でつんのめるようにして平伏した。袖を括った襷《たすき》が、背中でよじれているのがちらりと見えた。 「匙の砥部先生より船橋さまに、急ぎお伝えするようにとの仰せでございます」 「何事だ」首だけ僅かによじって、船橋さまは問いかけた。格子の向こうの人は、平伏したまま黙っている。 「かまわぬ。人払いは無用だ。申せ」  ははっと声を出して、鼻先が床につきそうなほど身を低くしたまま、若い御牢番は言った。 「砥部先生におかれましては、加賀殿より、火急のお申し出を受けたそうにございます。それが先生の御一存では到底決めかねる内容である故に、急ぎお報せするようにと申しつかりました」 「何だと?」  船橋さまがそちらに向き直った。梶原さまは息を止めている。舷洲先生が、さらに近くにほうを抱き寄せる。 「何を言っておるのだ、貴様は」 「ですから砥部先生が ——— 」 「いや、それよりも加賀殿は何をお求めなのだ?」と、舷洲先生が尋ねる。宥《なだ》めるような落ち着いた声を取り戻している。  若い御牢番は、そろりそろりと面を上げた。そして、他の誰でもなく、ほうを見た。目でほうを指し示したのだ。  船橋さまも梶原さまも舷洲先生も、それに従ってほうの顔へと目を向けた。いっせいに見られて、ほうは顔がちくちくした。 「か、加賀殿は、先夜の下女との面会を許すとの仰せです」  船橋さまが、再び「何だと?」と言った。裏返ったような声だ。 「下女とは ——— この子か?」  梶原さまが乱暴にほうの肩をつかんだ。舷洲先生が、その手をばしりと退ける。 「昨夜の騒動の最中に、加賀殿は、この子に、お目通りを許された」舷洲先生は、ゆっくりと言葉を並べるように言った。「その折に、特別の感興を覚えられた故に、二度のお目通りを許されるということだな」  若い御牢番が頭を下げ、何か答える前に、船橋さまがかっと怒った。 「ふざけたことを!」 「しかし船橋殿、そういうことでございましょう」  舷洲先生の顔に笑みが戻った。ほうには何が何だかさっぱりわからないけれど、舷洲先生がご機嫌を直されたようなのは嬉しい。 「だいたい、加賀殿は罪人だ。誰に目通りを許すも許さぬもあるものか。そんなことを言えた身分では ——— 」 「ありませぬか? ただの罪人でございますか? お上からの大事な預かり人ではないのでございましたかな」 「それとこれとは話が別だ!」  船橋さまが凄い勢いで立ち上がったので、袴の裾がそばにいた梶原さまの袖をかすった。梶原さまは、もっと固いものに打たれたかのようによろめいた。 「お、恐れながら、砥部先生の仰せによりますと、加賀殿には」  御牢番頭に見おろされ、若い御牢番は、今や汗びっしょりになっている。 「先夜の狽籍の直後より強いご不快を訴え、これまで、食事はもとより、湯水も薬もまったく口になさっておられません。ひたすらに、かの下女との面会を求めておられ、かなわねば、このまま果てるとのお言葉が」  船橋さまは両手を拳に、仁王立ちになっている。顔をしかめているせいで鉤型を描く鼻の線が、鬼の面を見るようだ。 「今さら申すまでもありますまいが、船橋さま」  舷洲先生が、その鬼の面に向かって言った。 「加賀殿はご病気でございます。井上と砥部のお診立《 み た》てだけではなく、匙筆頭杉田の所見でも、早急な加療を欠くことのできぬ疾病が確認されております。それより何より、御老中申し送りの書状にも、加賀殿の病については厳重な但し書きがございました」  舷洲先生の口調は、うって変わってうららかなものになっている。 「丸海入りした折には、そこに長旅の疲労が重なり衰弱が激しく、一時《いっとき》も目を離すことのできぬ状態だと、砥部先生が厳しく警告を発せられたことを、よもやお忘れではございませんな。あれから今日《こんにち》に至るまで、砥部先生は、細心の注意を払って加療を重ね、投薬を続け、加賀殿のお身体をお守りしてきたのです。なぜならば、今一度申し上げますが、たとえそれが病死であろうとも今ここで加賀殿という玉を失っては、丸海藩は ——— 」 「もういい! 今さら聞かされずともわかっておるわ」  船橋さまの怒声に、舷洲先生は静かにうなずいた。 「失礼をいたしました。いやしかし、加賀殿が今、一日、いや半日、薬を欠き安静を欠き、滋養を欠いては、すぐにも重大な病変を差し招くことになりましょう。砥部先生が動転されるのも無理はない」  舷洲先生は温和な表情のまま、格子の向こうの若い御牢番を見やった。 「我らの所在をつかむまで、かなり手間取ったのではないか。船橋さまがここにおられることが。よくわかったものだ」  御牢番のお侍は、あわてたように平伏し直して、返事をしない。別にそれでかまわなかったらしく、舷洲先生はにっこりする。 「さて、いかがいたしますかな」  ぶるんと身体を震わせて、船橋さまは舷洲先生をひと睨みすると、 「涸滝へ戻る。その下女を連れてきなさい」  割れた声で言い捨てて、くぐり戸を開けた。どすんどすんと廊下を歩み去る。あわてて梶原さまがついてゆく。 「さあ、来なさい」  舷洲先生はほうを手招きし、手を取って一緒に立ち上がった。乱れた髪を撫でつけ、しわの寄った着物の裾を引っ張り、帯を直してくださる。 「舷洲先生」 「何だね?」  ほうは、今までのやりとりのなかで、自分にわかったことだけを問いかけた。「加賀さまはご病気なんですね」 「そうなのだよ。重いご病気だ」 「とてもお痩せになっていました」 「お食事を召し上がらないからだ」 「いけませんよね」 「それもご病気のせいだよ」 「あたしは涸滝に戻るんですか」 「ああ、そうだ」  使いに来た若い御牢番が、手燭を掲げて控えている。その額も頬もまだ冷汗に濡れている。舷洲先生は笑いかけた。 「この子の名はほうという」  ほうでございますと、ほうは頭を下げた。若い御牢番は、存じていますと舷洲先生に言った。 「井上先生、この子は ——— 」 「うむ」  舷洲先生は、ほうの背をそっと押して、くぐり戸をくぐらせた。ご自分は、窮屈そうに身をかがめ、唸るような声を出して廊下に出てきた。そしてほうと手をつないだ。 「では、参ろうか」 「はい」  ほうの返事に、若い御牢番の返事が重なった。彼は狼狽したようになって、ほうの顔から目をそらす。  驚いたことに、舷洲先生は楽しそうに笑い始めた。歩き出しても笑いが止まらず、とうとう立ち止まってしまった。 「先生、何が可笑《お か》しいのですか」  可笑しいのではない、嬉しいのだよと先生は言った。笑いながらほうの頭を撫でる。手燭の明かりに目を細め、若い御牢番に向かって言った。 「この子の無心と無知を、私はずっと、かけがえのない美しいものと思ってきた。が、今の今は惜しくてたまらん。ほんの一時、この子に悪知恵を貸してやりたいものだ。そしてこの事態をわからせてやりたいものだ」 「 ——— 井上先生」  あたりを憚るように、御牢番は低い声で先生を制した。先生は何度もうなずく。そして、唐突にほうを抱き上げた。ほうはびっくりして落ちそうになり、舷洲先生の首っ玉にかじりつかなくてはならなかった。 「おまえはなぁ、ほう。自分ではわからぬだろうけれども」  愉快そうに、跳ねるようにほうを抱いてゆさぶりながら、舷洲先生は言った。 「鬼よ、悪霊よと恐れられる男に、命を助けられたのだよ。加賀殿がおまえの命を助けてくださったのだ。そして、藩のためお家のためとはいえ、またぞろ幼い子供を斬らねばならぬ羽目に追い込まれるところだった御牢番の誰かをも、その所業から救ってくださったのだ」  手燭を掲げた御牢番が、空いた手で顔を拭った。かすかに、笑みに似た表情がそこをよぎってすぐ消えた。 「さあ、涸滝へ帰ろう。そして加賀殿にお会いするのだ」      黒い風    一    まぶしい夏の光の下を、額に手をかざして、宇佐は足早に歩いていた。今日も今日とて英心和尚に命じられ、三幅屋に金の無心のお使いである。  丸海の町は、空と海とが一体になったかのような青い夏にすっぽりと包まれている。振り仰げば、お城の白壁は雲に負けじと強く陽を照り返し、町を取り囲む山と森から油蝉の鳴き声が降り注ぐ。潮の香りを含んだ風が、南の港から吹き上がってくる。ずらりと並んだ塔屋の塔から立ちのぼる湯気は、ゆらゆらと蜃気楼のように揺らめいている。  この夏は、宇佐が覚えている限りで、いちばん暑い夏であるような気がする。そのせいか、毎日のように通り過ぎる夕立の激しさもまた格別だ。ひとしきり雷鳴が轟き、激しい雨が降り、それが断ち切れたようにぴたりと止むと、途端にあたりがひんやりとする。  そんなとき、身に馴染んだ野良着の袖も裾もたくしあげて忙しく走り回っていて、ろくに汗を拭っていないと、すぐくしゃみが飛び出す。英心和尚にも、風邪には重々用心しろと言われている。  宇佐は、すっかり中円寺に居ついてしまった。今では寺にいる誰もかれも、宇佐に親しく話しかけ、また頼りにもしてくれる。それが嬉しくて張り合いになり、よく働くからさらにあてにされる。  英心和尚の弟で、三幅屋の主人である重蔵も、宇佐の働きを買ってくれているようだ。無心をするのに遠慮は要らぬという理由は聞かせてもらったけれど、やはり頻《ひん》々《ぴん》と伺うのは照れくさい。が、重蔵は宇佐が顔を出すと、どんなに忙しそうにしている時でも自ら出てきて相手をしてくれる。  西番小屋を追い出された時、心に深く刺さった棘も、ようやく抜けたようである。このごろの宇佐の毎日は、晴れ晴れと明け暮れてゆく。引手の見習いとして木っ端仕事に追われていたころよりも、あるいは今の方が楽しいかもしれない。そんなふうにさえ思うようになった。  今の宇佐の心にかかる事柄はただひとつ、|ほ《 ヽ》う《 ヽ》の身の上だけである。  涸滝の屋敷の方角を向いては手を合わせ、朝には、これから始まるほうの一日が無事に終わることを、夕には、ほうが一人で寝《やす》む夜が安らかであることを、深く祈った。中円寺で畑の世話や煮炊きや洗い物をしている時も、ふと思う。ほうが涸滝から戻ってきたら、こうして一緒に働くんだと。また一緒に暮らし、宇佐はほうの「おあんさん」になって、こまごまと面倒をみてやることができる。もっとも、手先はあの子の方がずっと器用だから、縫い物繕い物はお任せだ。英心和尚も、必ずほうを気に入ることだろう。  遠からず、そういう暮らしをするのだ。きっと、きっと。  涸滝の屋敷が今どういう様子なのか、宇佐にはまったくわからない。町場には噂のひとかけらも伝わってはこないのだ。番小屋にいたときだってそうだったが、中円寺の暮らしにどっぷりと浸かってしまった今では、なおさらだった。 「おまえがいくら気を揉んだところで、あそこで何が起こっても、何も起こらなくても、それについて知ることはできぬ。涸滝の屋敷は、わしらの手の届く場所ではない。だったら宇佐、思い悩むのはやめにしろ。代わりに祈れ。ほうのためにな。そして信じろ。御仏の加護を。祈るというのは、そういうことなのだ」  日陰を選《よ》って弾むように歩いていると、塔屋の立ち並ぶ通り筋で、やはり急ぎ足の女の人とすれ違った。眩しいので目を伏せているから、顔形がよくわからない。そのまま行き過ぎようとすると、その女の人が立ち止まり、宇佐の方を振り返った。 「あら、あなた。あの西番小屋の人ではありませんか」  声に聞き覚えがある。振り返ると、陽盛りの道端に佇んでいるのは柵《さく》屋敷の山内《やまうち》家の妻だった。 「これは奥様、失礼をいたしました。お久しぶりでございます」  宇佐はきちんと足を揃えて頭を下げた。山内の妻は微笑を浮かべて近づいてきた。手に風呂敷包みを抱えている。この人も、多くの下級藩士の奥様と同じく、塔屋から内職をもらっているのだろう。 「元気そうですね」  おとなしやかに、山内の妻は言った。 「はい、奥様もお変わりないご様子、お慶び申しあげます」  山内の妻は、宇佐の野良着姿に驚いているようだった。宇佐は笑顔で言った。 「わたくしは西番小屋からは退きまして、今は中門寺で寺子として働いております」 「まあ、そうなのですか」  紅半纏《べにはんてん》がよく似合っていたのに、と言う。 「ありがとうございます。でも、女の身では、やはり引手は務まりません」 「そんなことはありませんでしたよ。あなたはよく務めていました」  山内の妻はつとあたりを見まわすと、急に仔細ありげな表情になった。 「それにしても、良いところであなたに会いました」  宇佐に近づいてきて、囁くように問う。 「あなたがいたのは西番小屋でしたね。そこの頭分《かしらぶん》を務める者が、先頃コロリで死んだという噂を聞いたのですが、本当なのでしょうか」  表向きはそういうことになっている。宇佐はうなずいた。 「はい、残念なことでございました」 「その妻も子供たちもコロリにかかって、儚《はかな》くなったというのも本当ですか」 「はい」宇佐は短く答え、山内の妻にはわからぬよう、かすかにくちびるを噛み締めた。 「それであなたは番小屋から退いたのですか。これから嫁いで子供を産む、大切な身体ですものね」 「奥様、わたくしのような野育ちを嫁にしてくれる人がいるとは思えません」  宇佐の混ぜっ返しに、山内の妻は顔をほころばせた。「それはご縁ですから、どこでどなたと出会うかわからぬものですよ」  でも ——— と呟いて、すぐに笑みを消した。眉間に薄い皺が寄る。 「それは、本当にコロリだったのでしょうか。いえ、コロリの恐ろしさはわたくしも承知しているつもりですが」  宇佐はしみじみと、山内の妻の細面の顔を見返した。最初に会ったときは食あたりで弱っており、次に会ったときには、永年頼りにしていた下男の茂三郎《しげさぶろう》に去られて困っていた。つまりは、いつも萎れているところしか見かけたことのないこの奥様だが、今日もまたぞろ、何かに悩んでいるような風情だ。 「と申しますと、奥様」  促すつもりで問いかけると、山内の妻は、もう一度周囲の人目を気にした。塔屋からは忙しなく、にぎやかに、働く人びとの声と気配が伝わってくるが、陽盛りの裏道に人通りはない。 「柵屋敷で耳にしたことなのですが ——— 」  浅木さまのお屋敷で、また奇妙な病が出ているらしい、という。  宇佐は思わず目を見開いた。「十五年前にも出たという、あの病でございますか」 「そのようなのですよ。あなたは十五年前のことを知っているのですね?」 「お忘れでしょうか。奥様に教えていただいたのですよ」と、宇佐はにっこりしてみせた。「出所のわからない食あたりのような病で、浅木家の皆様がたいそうお困りになったというお話でございました。あの涸滝のお屋敷も、その折に浅木家が療養のために普請されたものだと」 「ええ、そう、そうなのです」  うなずいて、口をつぐんでしまう。額の皺の数が増える。よくよく見れば、目元や口元にも細かなちりめん皺が浮いている。年齢と、暮らしの苦労とが刻み込んだ、下級藩士の妻の皺だ。  宇佐は思い出す。山内の妻は、涸滝の屋敷に加賀さまが入られる以前、先の食あたりの時から怯えていたのだ。あのころ、涸滝の屋敷には加賀さまお迎えのために修繕が入っていた。山内の妻はそれを指して、不吉だ、あの屋敷はずっと封じておいた方がよかったのにと言っていた。自分たちの食あたりと、十五年前に浅木家を襲った妙な病とをつなげて考えて、不安がっていたのだった。  そのころの不安は、取り越し苦労でございますよと、宇佐の言葉でも打ち消すことができた。が、今は事情が違っている。もっと事が進んでしまったと言い換えてもいい。 「わたくしは案じられてならないのですよ」と、山内の妻は小声で言った。「やはり涸滝のお屋敷には、人が踏み入ってはならなかったのではないでしょうか。あそこに加賀さまをお迎えしたばっかりに、封じられていた病がまた動き出したのではないでしょうか。加賀さまは、人外のモノの恐ろしい力を備えておられるとか、鬼に憑かれているとか、いろいろと恐ろしい評判がおありです。そんな方の力が涸滝の屋敷に加わって、今度はもっと酷《ひど》いことが起こるのではないでしょうか。おかしな病が、浅木家だけでなく、城下にまで広がって ——— 」 「奥様、あまりお考え過ぎにならないほうがよろしゅうございます」  つとめて丁寧な明るい口調を保って、宇佐は言った。 「浅木さまのお屋敷で起こっている病については、わたくしは何も存じません。でも、嘉介親分はコロリで亡くなりました。浅木さまのこととは、何のつながりもかかわりもないと存じます。夏場には、どうかするとコロリが出るものでございますから」 「本当にコロリだったのですか。浅木さまの病と同じ病ではなかったのですか」 「はい、間違いございません」  あたしはいつの間にか、大きな声できっぱりと嘘をつく者になったと、宇佐は心の内で思った。  先に三幅屋の重蔵にも、同じようなことを尋ねられたのを思い出す。嘉介親分は本当にコロリだったのかね、十五年前、浅木家を悩ませた妙な病がまた起こり、今度は町場にまで飛び火したという噂があるんだよ ——  その噂が広まっているようだ、とも言っていた。だからしばらくのあいだ、宇佐は気にかけていたのだが、その後はどこの誰からも、浅木家の病がまた出て云々の話は聞かされていない。町場で聞きかじったこともないし、中円寺にいる病人や老人たちのあいだにも、そんな噂が流れている様子はなかった。  だから忘れかけていたのだ。ところが噂は堀外から堀内へ、柵屋敷の方へと流れていたらしい。 「浅木さまのお屋敷では、その病で、よほど酷いことになっているのでしょうか。そのために、奥様のご心配が募るのですか」 「山内の妻は腕の風呂敷包みを持ち代えると、その陰に顔を隠すようにした。 「どのようなご様子なのか、なにしろ切れ切れの風評でしか耳に入りませんので、詳しくはわたくしも存じません。ただ、柵屋敷ではこのごろ、その話で持ちきりです。それというのも、実は、柵屋敷でも似たような病が出ているからなのですよ」  宇佐も、これには驚いた。山内の妻は宇佐の驚き顔を見て、さらに表情を重たくする。 「小番の蜂矢《はちや》という家のご当主が、お歳はまだ三《み》十《そ》路《じ》前という方ですが、四、五日前から床に伏しているそうです。手当てをしても甲斐がなく、日に日に病状が傾いて ——— 」 「それこそ、コロリではございませんか。あるいは食あたりでは」  山内の妻は、ゆっくりとかぶりを振った。 「匙の井上家の先生が、足しげく治療に通ってきておられます。匙の先生のお診立てで、もしもコロリということならば、柵屋敷じゅうにお触れが回ることでしょう。食あたりだとしても同じこと。ちょうど、以前にあなたがそうしてくれたように、食あたりの素《もと》を探して、聞き取りなどが行われるはずです。それが一切ございません。蜂矢家の方々も、禁足《きんそく》を命じられたかのように息を潜めてひっそりとしておられるばかり」  短く息を詰め、それを吐き出しながら、山内の妻は早口に言い足した。 「蜂失さまは小番から御牢番に出仕なさっておられました。涸滝の屋敷に詰めておられたのです。そこで病にかかられたのでしょう。あの屋敷に封じられていた穢れと、加賀さまの恐ろしい気《け》が合わさって生じた病に」  奥様 —— と、宇佐は思わず山内の妻の腕に触れた。失礼な仕草だから、すぐに手を引っ込めようとしたが、逆に山内の妻が、宇佐の手にしがみついてきた。「わたくし、とても恐ろしいのです。蜂矢さまが病に倒れられ、代わりに、山内が御牢番のお役目を拝命することになりました。普請方の小役という軽輩の身でございますから、よもや御牢番の大役を賜ることになるとは、思いもかけぬ話です。というより、ええ、軽輩だからこそ、御牢番を命じられたのではないかとさえ思うのです」  痛いほど手を握られて、しかし宇佐はひるまぬように、穏やかな声を保った。 「御牢番は、加賀さまお預かりの大役に携わる大切なお立場です。名誉あるお役でもございましょう。奥様、そんなお顔をなさいますな」 「何が名誉あるお役なものですか」  とっさに、山内の妻の語調が鋭い怒気をはらんだ。 「涸滝の屋敷に詰める方々は、日々、命の縮まる思いをしていると聞きます。気苦労と疲れから、病とは言えぬまでも、身体の具合を損ねる方々も多いとか。そうして人手が足りなくなり、新しい御牢番を命じる折には、軽輩の藩士たちの名を書き並べて、くじ引きをしているという話もあるのですよ」  誰が御牢番になって涸滝に行くか、まさしく、貧乏くじを引くのは誰かということか。  山内の妻の指は冷たく、骨ばっていた。指先にはささくれがいっぱいだ。毎日水仕事や野良仕事に追われている宇佐と、おっつかっつの荒れようだ。  宇佐は黙ったまま、その指を握り返した。今、聞かされた話が、にわかには信じ難い。いや、信じたくないのだ。  涸滝にいる御牢番の人たちは、本当にそのように恐れ狼狽しているのか。そうなのだとしたら、涸滝ではいったい何が起こっているというのだ。丸海藩士たちの命を縮めるような、どんな恐ろしい出来事が。  ほうが、そこにいるのに。 「奥様、堀外には、御牢番の皆様がそれほどに苦労を重ねておられるなど、一切伝わってきておりません。今、初めて耳にいたしました。すべて本当のことなのでございましょうか。噂というものは、とかく尾ひれがついて大げさになりやすいものでございますから」  宇佐も動揺しているから、かなり尖った物言いになったはずだった。が、山内の妻は怒りもしなかった。いっそう身を締め、声をひそめた。 「確かに、あなた方には知りようもない事柄でしょう。もともと、町場の者どもには、加賀さまお預かりという藩の大命も、身近なことではありませんものね。万事が平らかに過ぎているように見えていれば、安心してしまえる」  でも、それは見せかけですと、一瞬、歯を剥き出すようにして言い捨てた。 「涸滝のお屋敷は、やはり、人が踏み込んではならぬ場所だったのです。それなのに、あろうことかその場所に、邪念に心を塗りつぶされた、世にも恐ろしい人殺しを押し込めてしまいました。なんと愚かなことをしたものです」 「奥様 ———  」 「加賀さまはあの屋敷に入り、そこに巣食っていた悪《あ》しきものを、今では、すっかり手の内に入れてしまわれたのですよ。そして災いを起こしておられる。浅木家の病が再燃したことは、ほんの始まりに過ぎません」  強いまなざしで宇佐の顔を見ると、 「浅木家は、ただ丸海港の重臣の家系だというばかりではありません。知っていますか」  それなら宇佐も知っている。浅木家は、丸海の町の守り神である日高山神社を奉じる家系でもあるのだ。 「浅木家に災いが起こるということは、丸海を守護する神が弱るということなのです。十五年前もそうでした。浅木家がどうにか病を封じるまで、季節外れの大雨や大風、山火事などに悩まされて、この町はたいへんな難儀を被《こうむ》ったのです。今度は、それよりももっともっと ——— 」  溢れかけるほど溜まっていたものを、一気にこぼすようにそこまで言って、山内の妻は我に返った。黙ったまま、ひたと見つめている宇佐のまなざしを感じたのだろう。激しくまばたきをすると、あわてて宇佐の手を放し、身を引いた。 「まあ、わたくしときたら」  風呂敷をぎゅっと抱きしめると、空いた手で口元を押さえた。額にうっすら汗が浮いている。  しゃにむな一人語りが止まったので、やっと宇佐は尋ねた。 「奥様、涸滝のお屋敷で、いったい何が、御牢番の方々をそのように悩ませているのでしょう。誰かが亡くなったとか、おかしなものが現れたとか、蜂矢さまのほかにも、妙な病で倒れた方がおられるとか、そのようなことでございますか。ご存知でしたら、どうぞお教えください」  山内の妻は、疑うように目を細めて宇佐を見た。宇佐は思い切って言った。 「わたくしの身内の者が、涸滝で下女として働いているのです。まだ幼い妹です。ですから奥様、わたくしは涸滝の様子が知りたいのです。本当に何か恐ろしいことが起こっているのならば、わたくしは妹を放っておかれません。助けてやりたいのです」 「あなたの ——— 妹」 「はい」宇佐は強くうなずいた。  山内の妻は身をひねり、宇佐から顔を背けて呟いた。 「ごめんなさい。なんと哀れなことでしょう。わたくし、余計なことをしゃべりすぎました。あなたの顔を見たらつい、心がほどけてしまいました」 「でも、奥様」  袖にすがろうとする宇佐から、山内の妻は後ずさりした。 「わたくしは何も存じません。あなたも、今聞いたことはお忘れなさい。どうにもしようのないことです。山内も ——— 」  そこでぐっと言葉を呑み込むと、風呂敷包みを抱え、身をひるがえして駆け出した。宇佐は数歩追いすがったが、止めても無駄だと諦めた。  所詮、立ち話で聞きかじる噂など、あてにはできない。本気で涸滝の様子を探るつもりなら、もっとちゃんとした手を考えなくてはならない。    二  三幅屋へ顔を出すと、重蔵は来客中だった。気の張る客ではなさそうで、談笑している。唐紙越しに廊下の方まで、やりとりする声が、切れ切れに聞こえてくる。なにやら、盛んに落雷を話題にしているようだ。そういえば昨夜、陽が暮れてから間もなくひとしきり雷が鳴って、東の山の方でたまげるほど大きな音がした。ああ、落ちたねと、和尚さまたちと外へ出て眺めたが、どこにも火の手が見えなかったので、ほっとしたものだった。  丸海の土地には雷が多い。春先から秋の終わりまで、一年の半分以上は雷害に備えなくてはならない。そのために多くの智恵を持っている。  漁師たちは、どれほど空が青かろうと、風が静かで海が凪いでいようと、船の舶先《へ さき》から空を仰いで、拳ほどの大きさの雷雲が見えたなら、即座に漁場を変える。風向きによっては、大急ぎで船を戻すこともある。潮見櫓では鐘の代わりに太鼓を吊るしている。山に入る猟師や樵《きこり》たちは、山の森を抜ける風が北から南に急に変じたら、道具を置き去りに森を出て草地へ逃れる。  町中では、さすがにそこまで空模様に敏感ではないが、火の見櫓に鐘を吊らないことは一緒だ。  どの家も軒下に雷封じのお札を貼り、誰でも着物の襟に雷避《よ》けのお守りを縫いこんでいる。また、昔から丸海の女たちには、髪に金気《かな け》の簪《かんざし》をつけない慣わしがある。雷獣《らいじゅう》は金気を好むからである。旅籠町では、金比羅さま詣でに来る客たちにも、山越えの時には髪簪を外すようにと勧める。  二本差のお侍には、柄《つか》だけでなく鍔《つば》まで覆う柄袋を進呈する。これは旅館によって意匠が違い、ばかに凝っている店もある。藩士たちも、山奉行や作事奉行の役人は、畠山家の紋所の入った柄袋を、必ず腰につけているものだ。  そうした知恵の集積のおかげで、山でも海でも町中でも、人が雷に打たれるという不幸は、もうずいぶん長いこと起こっていない。が、落雷はしょっちゅうで、丸海の者なら慣れっこになっている。たいていは山に落ち、悪くすると火が出るが、大きく広がることはない。山火事を素早く消し止めるのは山奉行配下の山火消しの仕事で、その手並みはたいへん見事なものだ。  それだもの、今さら落雷の話など珍しくもないのに、何を長々としゃべっているのだろう。宇佐の心はほうの身の上を案じ、涸滝の屋敷の方へと飛んでいて、くるくると空回りをしている。  ようやく客が帰り ——— 重蔵と親しい寄り合い仲間であるらしく、宇佐の顔を見ると、やあご苦労だねと声をかけてくれた ——— 重蔵が宇佐を呼んだ。 「待たせたね。おや、何だその顔色は」  宇佐は心模様がすぐ顔に出る性《た》質《ち》であるらしい。 「誰かと喧嘩でもしたか。それとも恋煩いかね」  いつもなら話が弾むところだが、今日は気のきいたことを言い返せる気分ではない。 「何でもありません。それより旦那さん」  宇佐は近頃では重蔵をそう呼んでいる。 「先に、西番小屋の嘉介親分はコロリで死んだのじゃない、あれは、十五年前に浅木さまで出た病がまた出て、今度は町中に飛んできたのだ —— という噂話を教えてくださいましたね」  重蔵は目を白黒した。「何だね、出し抜けに」 「すみません。ちょっと前に、同じような噂を聞きかじったんです。まるっきりのデタラメなのに。このごろでも、そんなことを言って歩《まわ》ってる人がいるんでしょうか」  重蔵は痩せた顎をちょっと撫でて、首をかしげた。「さてね。このごろはとんと聞かないようだよ。番小屋から回状が来て、みんな納得したからだろう」 「回状?」 「常次親分が出したのさ。そうだね、おまえとあの話をしたすぐ後だったかね。噂が立ったんで、番小屋でも気にしたんだろう。嘉介親分と、親分のおかみさん、二人の子供たち、みんなコロリでとられたと」  親分のおかみさんも死んだと、はっきり書かれていたのか。 「あたしが知ってる限りでは、おかみさんは匙の香坂先生に預けられたはずですけれど」 「だから、香坂先生に診ていただいてたんだけども、空しくなったということさ」  その回状には、コロリを避けるためにはどうすればいいか、生水は飲むな、これこれの食い合わせはいけないなどということも書き添えてあったそうだ。念のいったことである。  おかげで、堀外では噂は収まったのだ。が、堀外よりもはるかに涸滝の動静を知りやすい柵屋敷では、そうは問屋がおろさなかった。この分では、柵屋敷から堀外へ、また噂が戻ってくることも大いにあり得るだろう。柵屋敷には、堀外から多くの奉公人があがっている。商人も職人も出入りする。 「バカに難しい顔をしておいでだな」  重蔵は半ばからかう口調で、だが半分は心配そうな口つきになってきた。 「中円寺で何かあったかい」 「いえ、何でもないんです。すみません」  宇佐がいつものように住職から言付かった無心にとりかかると、重蔵もいつものように奉公人を呼び、てきぱきと差配をしてくれた。 「さっきも話していたんだがね。昨夜、大きな雷が落ちたろう」 「はい。また東の山でしたね」 「日高山神社のすぐ近くでね」重蔵は言って、眉をしかめた。「おまえは知っているかな。神社の南側の山はお止め山になっている。お日高さまの社殿を修理したり、鳥居を立て替えたりするときに使う材木は、みんなそこから伐り出すからね」  日高山神社の鳥居は、鋳物や焼き物ではなく木でできている。十年に一度ぐらいの割合で、新しいものに立て替える。 「昨夜の落雷で、次の立て替えに使うはずだった木が倒れてしまった。まるで、狙ったようにそこに落ちたそうでね」  宇佐は重蔵のちまちまと細い目を見た。重蔵はうなずいた。 「あたしだって、今さら丸海の雷に驚いたりしやしないよ。だがね、あのお止め山はお日高さまのお庭みたいなものでさ、これまでは、いっぺんだって雷が落ちたことがなかったんだ。それが急に、どうしたんだろう」  木っ端微塵だったそうだよと、暗い顔をした。  宇佐の頭を、つい先ほどの山内の妻の言葉がよぎった。   ——— 浅木家に災いが起こるということは、丸海を守る神が弱るということなのです。  つい、口に出しかけた。旦那さん、浅木家で十五年前と同じ病が出ているそうですよ。  かろうじて思い留まった。重蔵は顔が広い。うっかり口を滑らせたら、宇佐が新しい噂を広めることになる。もちろん、放っておいても、早晩必ず堀外まで聞こえてくる噂ではあるが、自分が火元になることはない。 「そうですかね、旦那さん。ものは考えようですよ」  つとめて平気なふうで、そう言った。 「昨夜のは本当に大きな雷でした。町場に落ちたら大変なことになったでしょう。だから、お日高さまがわざと雷を呼び寄せて近くに落として、町を守ってくだすったんじゃありませんか」  重蔵は破顔した。「なるほど。おまえ、上手いことを言うね。兄貴に似てきたな」  確かに、ロにしてみると、今の申し状はいかにも英心和尚が言いそうなことだ。 「あたしらは歳だからね。なかなかこう ——— ひとつの考えから離れられない。やっぱり、加賀さまがござらっしゃることが何かと障《さわ》りになってるんじゃないかと思うと、どうにも落ち着かなくて仕方がないんだ」 「旦那さんは、涸滝のお屋敷に、何か伝《つ》手《て》をお持ちですか」  もって回るより、気楽な顔で訊いた方がいいと思った。が、重蔵はつと向き直って宇佐を見た。少し正直に尋ねすぎたようだ。 「どうしてそんなことを訊くんだね?」 「いえ、なにしろここは名のある旅籠だから、もしかして加賀さまお迎えに何かお手伝いをしたことがあるかと思ったんです。お城の偉い方々とも、旦那さんならお近づきになる折があるでしょうし」 「そりゃまあ、まるっきりつながりがないわけじゃあない。だけども加賀さまお迎えは、どこぞの大名家が金比羅さま詣でで丸海にお泊りになるなんていうこととは比べものにならない大事《おおごと》だ。あたしら旅篭の親父がお手伝いするようなことが、あるわけがない」 「そうですか」  あんまり正直にがっかりしないよう、気をつけた。もし重蔵がどこかに顔がきいたなら、涸滝に奉公する道をつけてもらえるかもしれないと、ほんの少しではあるが期待していたのだ。  もし、山内の妻の言うとおりに、涸滝の御牢番が動揺し恐れが広がっているのならば、病で欠ける人も出ているというならば、切実に人手が欲しいところだろう。現にほうが女中として上がっているのだ。宇佐だって上がれるかもしれない。 「そうすると、旦那さんでも涸滝のお屋敷のご様子は、何にもわからないんですか」 「わかりやしないよ。何を寝ぼけているんだね」苦笑してそう言ってから、重蔵ははっとしたようだ。「そうか、おまえはほうという女の子のことを案じているんだね」  ほうのことは、重蔵も知っている。兄貴から聞いたのだ、と言われた。 「はい。どうしているか、何もわかりません。せめてあたしも一緒に女中として働ければいいんですけど」 「気の毒だが、それは難しいだろうね」  重蔵は懐手をした。口元がへの字になる。 「おまえの心配な気持ちはよくわかるが」  そして、ふいと目を上げた。 「ほうという子は、井上の舷洲先生が、涸滝にお連れになったのだろう?」 「はい」 「だったら、井上家にお願いしてみたらどうだね。匙の先生は、あたしら町場の者の治療もなさる。舷洲先生は、なかでもとりわけお優しくて、町場の者の言うこともよく聞いてくださるお方だと評判だ。おまえがどうしてもそうしたいというのなら、先生をお頼みするのがいちばん近道じゃないかね」  それは宇佐だって考えた。が、真っ先に望み薄だと捨てた考えだ。宇佐には、舷洲先生に近づく機会がない。井上家に押しかけたところで、家守《いえもり》の金居《かない》さまや、しずというあの怖い女中に、またぞろ叩き出されるだけだ。  若先生にも会えやしないし ———  そのとき、渡部の顔が浮かんだ。  そうだ。渡部に頼めば、舷洲先生は無理でも、啓一郎先生には会ってもらえる。宇佐の願いを言伝えてもらうことはもちろん、涸滝の屋敷の様子だって教えてもらえるかもしれない。井上家の方々なら、ほうがどうしているか、きっとご存知のはずだ。  それに、山内の奥様は言っていたじゃないか。病に倒れた御牢番の蜂矢さまを、井上の先生が診ていると。舷洲先生か啓一郎先生かわからないが、とにかく、それがどんな病であるのか、もっともよく知っているお方だ。 「しかしなぁ、宇佐」  重蔵はなだめるような声を出した。 「どんな伝手を頼っても、そう易々と、おまえが涸滝に上がれるとは思えないよ。加賀さまのことは、別格だからな。辛いだろうが、ほうの戻ってくるのを待って、中円寺で働いていてはくれないかね」  あたしも、あわててはいません、ちゃんとよく考えますと、宇佐は神妙に答えた。  三幅屋を出ると、堀外を歩き回って渡部の立ち回りそうなところを探した。見つからなくて、とうとう町役所まで行ってもみたが、甲斐はなかった。中円寺からのお使いだと、身分はちゃんと名乗ったのに、渡部さまはお出かけだ、出直せとすげなくされただけだった。  宇佐が中円寺に落ち着いた後も、渡部はときどき顔を出してくれる。あてもなく探すより、それを待つ方が得策か。まったく、肝心なときにつかまらないんだから。    三  寺に戻ると、今日はばかに時を食ったなと、英心和尚がすぐ言った。和尚も野良着姿で畑を耕している。お勤めをする時以外は、いつもこんなふうだ。 「重蔵がしわい屋の本性を出したか。うん?」  和尚は手ぬぐいで坊主頭の汗を拭いながら、しげしげと宇佐をながめる。 「わしは漬物石などもらって来いとは言わなんだぞ」  宇佐はきょとんとした。 「おまえのその顔、背中に漬物石をしょっているようだ。何を一人で重たがっておる」  いきなり見抜かれて、宇佐は口ごもった。畑には他に人もいる。ここでは、助けられた病人や貧民がそのまま居ついて、働き手になることは珍しくないのだ。  「あとで本堂に来なさい」  察しよく、和尚はそう言った。  ひとしきり忙しく働いてから、宇佐が本堂に行くと、和尚は野良姿のまま仏具の拭き掃除をしていた。 「おまえも手伝え」  宇佐はぼろ布を手に仕事にかかった。手を動かしながら、今日の出来事を打ち明けた。  気がつくと、宇佐に掃除を任せて、いつの間にか和尚は木魚《もくぎょ》の脇にどっかりと腰をおろしている。 「まず、涸滝の屋敷に上がるのは諦めた方がいい」  つるりと木魚を手で撫でて、英心和尚はそう言った。 「でも ——— 」 「舷洲先生がほうという子を連れていったのは、何かお考えがあってのことだろう。おまえはまったくのバカではないから、わかるはずだ。大事な加賀さまを預かる屋敷に、あんな頑是無く頼りない子供を、わざわざ選んでお連れになった。それには相応の理由がある。大人の、もののわかった女中では足りぬ理由がな」  宇佐には見当もつかない。 「あの子は江戸からの流れ者で、身寄りもありません。死んだって、気にする人はいない。あたしぐらいです。だから都合がよかったんじゃありませんか」 「舷洲先生はそんなお方かな」  これには、ちょっと返事に詰まった。 「わかりません。あたしは優しい先生だと思っていました。でも丸海藩の大事に関わることだとなったら、舷洲先生だって、あたしなんかの思いもつかないようなことをなさるかもしれないでしょう。匙のお家の方は、あたしやほうみたいな馬の骨とは違います」 「ならば訊くが、おまえはどうして、涸滝でほうが死んでしまうと思うのだ?」 「そんなこと思ってやしません!」 「思っているではないか。口にもしている。今も言ったぞ。�死んだって、気にする人はいない�とな。どうしてすぐにほうが死なねばならぬのだ。ただ飯炊きや掃除に上がっているだけなのに。普通は、女中奉公に上がっただけで、すぐ死ぬとは思わぬぞ」  宇佐はぼろ布を握りしめた。指摘されればそのとおりだ。 「おまえも、加賀殿を鬼だ、悪霊だと思っているということだな。だから、近づけば死ぬと心配になる」  そうだろうか。宇佐は自分の心をのぞきこむ。今まで、こんなふうに問いかけてみたことはなかった。 「あたしは……あの……」 「おまえらしくもない。しゃんとせぬか」  宇佐は顔を上げた。和尚は厳しい目をしていた。顔の真ん中にあぐらをかいた、立派な鼻の穴が広がっている。 「そんなふうに思っているつもりはありません。ただ、何か間違いが —— 涸滝のお座敷で良くないことが起こったときに、それがほうのせいにされてしまうんじゃないかって心配なんです」 「どうしてほうのせいになる?」 「あの子は自分の言い分を言えませんから」 「そもそも、なぜ涸滝の屋敷で良くないことが起こると決めつける?」 「だってあのお屋敷は、謂《いわ》れが謂れじゃないですか。浅木さまの病が封じられていて、そこに人が入った途端に、竹矢来が倒れて大勢怪我をして ——— 」  宇佐はあっと思って、ぼろ布を持った手を口元にあてた。  和尚はふふんと笑った。 「そういうことだ。謂れが謂れだ。現に不吉な事が起こった。そこに加賀さまが入られる。不吉に不吉が重なる。おまえも重蔵と同じ、ひとつの考えから逃げ出せないでいる」  宇佐は両手を膝に、きちんと正座した。頭も身体も、沈み込むように重い。 「しかしおまえは、同じ頭のどこかで、正しいことをわかってもいるのだ。良くないことが起こったら、それがほうのせいになる。なるほど、そういうことは起こり得るだろう、おまえの心配は、的外れなものではない」 「だったら!」 「だからわしは尋ねたのだ。井上の舷洲先生は、そんなことのために幼子を使い捨てにするほど酷《こく》なお方かと。おまえは本当にそう思うのかと」  しばらく、じっと宇佐を見据えてから、和尚もやおら座り直した。 「では宇佐、おまえにもうひとつ問おう。御仏は何処《いずこ》におられる?」  ここで暮らすようになってから、数え切れないほど和尚の読経を耳にしてきたが、法話を聞いたことはない。お説教をされたこともなかった。 「和尚さま、あたしなんかにそんな難しいこと、訊かないでください。それに、今そんな話はしてませんよ」 「いいから答えなさい。御仏は何処にござるか」 「どこか ——— 西の空の高いところでしょう。うんと遠いところです」 「それは違う。御仏は今、ここにござる」  ご本尊さまのことか? 「山川草木悉有仏性《きんせんそうもくしつうぶっしょう》。すべてのもののなかに、御仏はござらっしやる。それはどういうことか」  和尚は分厚い掌を己の胸に当てた。 「わしらのような、儚く空しく、卑しい人の身のなかにも、仏性はあるということだ。それは加賀さまとて同じことだ」 宇佐は目を瞠った。「和尚さま、加賀さまは人殺しをしたんですよ! 殺生をしたんです。しかも自分の奥様と子供たちを手にかけたんだ。そんな人にどうして仏さまが宿るんです?」 「それは、尊い仏性を宿しながらも、わしらが儚く空しく、卑しい人の身であるが故」  現身《うつせみ》では、わしらは御仏になり切れぬ。ただひたすらに御仏を思い、自らの内にありながら手の届かぬ仏の慈悲を請い願うのみ。和尚は続けて、とんとんと胸を叩いた。 「しかし宇佐、それでも御仏はわしらのここにござる。どこへも立ち退かれず、どこへもお隠れにはならん。わしらがそのお姿を探そうとするならば、必ず見ることができる。だがわしらが御仏を忘れれば、御仏のお姿は見えなくなってしまう」  宇佐は、困惑の勢いで、手にしたぼろ布でごしごしと顔をこすってしまった。 「和尚さまのおっしゃること、あたしにはさっぱりわかりません」 「わかろうとせんから、わからんのだ。わかっておるのに、わかっておると知ろうとせぬからわからんままなのだ」  もっとわからない。 「そうですよ。仏さまには会ったことがないから、あたしにはわかりません。でも、酷《ひど》いことをする人は、世間にいくらもいます。加賀さまだってそうです」 「では加賀さまは、己の成したその所業を、はたして喜んでおられるだろうかな。鬼や悪霊になるということは、鬼や悪霊の所業に喜びを見出すということだ。加賀さまは、我と我が妻子を手にかけて、やれ嬉し、やれ楽しとお喜びか」 「そんなこと、もっとわかるわけないですよ。和尚さまにはおわかりになるんですか?」 「わしも知らん」  呆気なく言う。腹を立てかけていた宇佐は、和尚の惚《とぽ》けた顔に吹き出してしまった。 「知らんが、わかる」  大真面目に和尚は続けた。 「宇佐よ。何が障りになったか知らぬが、加賀さまは一時ご自身を見失い、ご自身の内にある御仏とはぐれて、重い罪に手を汚された。しかし、加賀さまの身は人のままだ。儚く空しく、卑しい人の身。じゃがその奥底には御仏がおわす。御仏がおわす故に、人はけっして鬼や悪霊にはなれぬ。|な《 ヽ》り《 ヽ》切《 ヽ》れ《 ヽ》ぬ《 ヽ》のだ。いっそなれた方がはるかに楽、はるかに安穏であろうにな。わしはそのことをわかっておる。加賀さまのご心情は知らずとも、それだけわかっておれば、人の理はわかる」  懇々と説く口調になってきた。 「涸滝のお屋敷に、何の恐れるものが潜んでいようか。そこには、人のなかの人である加賀さまが蟄居していなさるだけのこと」 「人のなかの人?」 「弱く、儚く、卑しい人だ。罪を犯したことで身内にある御仏の加護に気づき、しかしその加護にはもう近づくことのできぬ人だ」  宇佐は考え込んでしまった。判じ物のような言葉の連なりに、今までわかっていたはずのこともわからなくなるようだ。 「その布で顔を拭くな」  言われて、はっと手元を見た。ぼろ布だ。あわてて、空いた方の手で顔をきれいにする。 「でも和尚さま。加賀さまの周りでは、本当に嫌なことが起こっています」 「どんなことだ? 数え上げてごらん」 「ですから竹矢来の一件でしょう、嘉介親分の ——— 子供たちのことでしょう」  今も、口に出すのは辛い。 「そのことで親分とおかみさんがお咎めを受けました。あ、それより前に、ほうの前に涸滝で女中をしていた人が頓死しています。塔屋の八太郎という子が、涸滝のお屋敷へ肝試しに行って、鬼を見て寝付いてしまったこともありました。それと今度の、浅木さまのおうちの病。御牢番の方にまで広がってます」  ひとつ言い忘れた。 「加賀さまが丸海に来られる前、大坂湊の宿にお泊りのとき、刺客がかかったとかで、お迎え役の方が怪我をしました。お船奉行の保田《ほ た》さまのご次男で、新之介《しんの すけ》さまという方です」  亡くなった井上の琴江さまの縁談相手だと、小さく言い足した。琴江さまの死の真相については、和尚にも話していない。だから今の呟きの声がかすれた意味は、和尚にはわからないはずだった。 「よう知っておるな。さすがにうさぎだ。耳が長いな」 「いくつかは、渡部さまに聞いたんです」 「あの男もまたよう知っておる。それにあの男はおまえよりは賢い。知ったことを己の分際のなかにしまって、逃げておるからな」  褒める言葉なのに、責めているように聞こえた。 「他言してはいけないと、きっと言い付かりました。今までしゃべったことはありません」 「宇佐よ」  磊落《ちいらく》に呼びかけて、和尚は膝を崩すと木魚に寄りかかった。 「ひとつわしと一緒に考えてみんか。ひとつひとつ検《あらた》めてみよう。それらの悪い事どもを。それらは真《まこと》に、加賀さまのせいで起こった凶事か?」  宇佐が何か言う前に、勝手に続けた。 「そうじゃ、すべて加賀さまのせいで起こったことばかりだ。しかしな宇佐、肝心なのは、すべては加賀さまのせいだが、それは別段、加賀さまが鬼や悪霊でなくとも起こる凶事だということだ」 「 ″ただの人 ″ でも、ということですか」 「良いことを訊く。ではわしも訊こう。加賀さまは �ただの人 ″ か? かつて勘定奉行職に就き権勢をふるったお方は、ただのお人か?」  それは違う。宇佐はかぶりを振った。 「そうじゃな。加賀さまは立派なお人だ。立派なお人が罪に堕ちると、とかく扱いが難しい。お上からの預かりものの流人など、そもそも暗い真昼と同じくらいに矛盾した、あってはならぬ代《しろ》物《もの》だ。加賀さまの引き起こす厄介は、その部分にこそ端を発しておる」  宇佐は身を固くしたまま、和尚の言葉を聞いた。ちょっとでも気が逸れたら、またわからなくなってしまう。 「扱いが難しいから、間違いが起こる。刺客がかかったこと。涸滝の屋敷に近づいたというだけで子供までが斬られたこと。これらはその間違いじゃ」 「じゃ、竹矢来が倒れたのは? 女中さんが死んだのは? 八太郎が見た鬼は?」 「女中の死を、渡部は何と言った?」 「 ——— 頓死だって」 「原因は何だ」  病死だ、余計なことは考えるなと、きつく言われた。 「病だそうです」 「それなら、不幸だがどこにもあることだ」 「あたしもいったんはそう思いました。でも、今度の浅木家の病と考え合わせると」 「待て待て」分厚い掌を上げて、和尚は宇佐を遮った。「浅木家の病のことは、後回しにしよう。何でも一緒に語ると、見えるものも見えなくなる。わしは、あの病のことならちくと知っていることがあるのでな」  驚いた。こんな貧乏破れ寺に籠っている和尚が、重臣を大勢出した丸海藩の名家の何を知っているというのだろう。 「八太郎という子の見た鬼は、本物の鬼だったろうよ。しかし加賀さまとは関わりない」 「なんでそう言い切れるんです?」 「人の目に映る鬼は、その者の目のなかに棲んでおるからだ。だから追い出すのが難しい。追い出してしまうことを良しとばかりも言えぬ。わしら坊主は苦労する」  またおかしなことを言う。宇佐は考えた。そのせいでしかめ面になったのだろう、和尚が面白そうにちょっと笑う。 「竹矢来のことはな、宇佐。ただの|は《 ヽ》ず《 ヽ》み《 ヽ》じゃ。粗忽な組み方をしたので、倒れて怪我人が出た。それだけじゃ」 「だって今までそんなこと ——— 」 「ありゃせん。丸海藩では、竹矢来を立てるようなことがまずなかった。絶えて久しく行われておらん。長閑《のどか》で結構なことじやった。そのために、竹矢来の上手な立て方を、知っている者がおらなんだ。おらなんだから下手を打った」 「よりにもよって涸滝ですよ?」 「加賀さまをお迎えする場所が他の屋敷であったとしても、同じように倒れたろうよ。どこで組もうと、下手は下手じゃ」  宇佐はふと、懐かしい思いにとらわれた。何だろう、この感じは。そして気づいた。啓一郎先生にいろいろなことを教わったときと似ているのだ。宇佐が問い、若先生が答える。宇佐が問いかけた以上のことまで答えてくださることもあった。  物事の仕組み。人の心を動かす理《ことわり》。まだわからぬことと、わかりたいことと、これからどうしたら、わからぬことがわかるようになるのかという手立て。  啓一郎先生は何でも教えてくだすった。若先生の言葉を耳にするそばから、宇佐は、身の回りのすべてが見通せるような気がしてきたものだった。  胸が熱くなる。それを和尚に悟られぬように、下を向いた。 「女中の死も、たまたまじゃ。病なら、他所で働いておっても死んだかもしれん」  そう言われればそうだけど、でも現に女中は涸滝で横死しているのだ。宇佐はそう、和尚の言うとおり、ひとつの考えから逃げられないでいるのか。 「そもそも加賀さまは、なぜ鬼よ、悪霊よと恐れられるようになったのか」  和尚は問いかけた。そして自分で、鬼や悪霊に憑かれたとしか思われないことをしたからだ ——— と答えた。 「しかし宇佐。加賀さまの所業は、真に鬼や悪霊にしかなせぬことであったかな。人だからこそなしてしまう罪であったと、考えることはできぬか」 「だって、人のすることなら、どんなことにだって相応の言い分があるはずです。加賀さまは、どうして奥様や子供たちを手にかけたのか、理由《わ け》を言ってないんでしょう? だから江戸の人たちは怖がったんだ。 「言《ヽ》わ《ヽ》な《ヽ》い《ヽ》ことと、言い分や理由が|な《 ヽ》い《 ヽ》こととは違うぞ」  ゆっくりと噛んでふくめるように、和尚は言う。 「加賀さまは理由を言わなんだ。言いたくなかったのかもしれぬし、言えなかったのかもしれぬ。しかしそれでは世間はおさまらん。おさまらんから、勝手に理由をつくり、加賀さまの言い分をこしらえた。それが鬼や悪霊よ。そういうことではないか、宇佐」 「そしたら幕府のお偉い方々も?」 「そうじゃな。鬼よ悪霊よと、本気で信じて恐れ慄《おのの》いた人びともおろう。一方、鬼よ悪霊よというのは都合がよい、それにしておこうという人びともおったろうよ」  和尚はくつくつと笑った。 「考えてもみろ。加賀さまが本当に鬼や悪霊の類に変じておられるのなら、どこの誰が刺客を放つ? 大坂湊で加賀さまを襲ったという刺客が、どこから放たれた者であったにしろ、人外のモノと変じた加賀さまを討つべしと来たのだろうかね? その刺客は、鬼や悪霊の法外な力を恐れなかったわけか。ならば、よほどの神通力の持ち主じゃ。そのくせ、警護の保田新之介とやらと切り結び、保田に手傷は負わせたものの、加賀さままで達することはできずに追い払われてしまった。ずいぶんとだらしがないのう」  悪霊封じの法術なら、坊主に頼めばよいものをと、軽口のように言った。 「宇佐、わしは先ほど、おまえはわかっておるのに、己がわかっておることを知らぬと言った。わしの目には、おまえがどうにも宙吊りになっているように見える」 「宙吊り……?」 「そうじゃ。わしは今、小ばかにしたようなことを言ったがな、流人《る にん》となった加賀さまを、鬼よ悪霊よと恐れて封じようとするのは、なかなか良い考えだ。それなら万事が上手く収まる。加賀さまご自身も、それを良しとされておるからこそ、未だに口を開かず、淡々とこの地に流されてきたのだと思う」 「どうして万事が収まるんです?」 「人外のモノだという覆いをかければ、厄介で扱いの難しい加賀さまが、少しは扱いよくなるからだ。加賀さまが何を言っても、何をしても、それはもはや人の言葉でなく、人のすることでもない。真《ま》に受けることもなく、ただ恐れておればよい。手違いが起こっても、鬼や悪霊の類は人の手には余ると、誰よりもまず己に対して言い訳が立つ。お上にとっても丸海藩にとっても、まことに都合がよい理屈じゃ」  しかし、それを信じきっていない人も少しはいるから、刺客が送られることもある ———  宇佐の呟きに、和尚はうなずく。 「まあ、その刺客とやらが、どこから来たのかはわからんがな」 「江戸からでしょう? 決まってるじゃないですか」 「おまえがそう思うなら、それでいい」  謎かけみたいだ。 「とりわけ今の上様は、鬼神の力を恐れること甚だしいお方だという噂だ。だったら良いではないか。加賀さまは鬼だ。鬼を預かり、鎮めて封じるという大役を、この丸海藩は仰せつかった」  だから丸海藩は、加賀さまを恐れる。 「わしら下々の民も、殿様がそうおっしゃるなら、そのように信じていようぞ。そうしておけば、この大役を果たし易くなるのだ。いやいや、わしが言うまでもなく、堀外でも柵屋敷でも、皆、信じておるじゃないか。涸滝にまつわる噂が、それを裏付けておる。これは、今の丸海の者どもの有り様《よう》としては、とても正しい形なのだ」  それなのに ——— と、和尚は半身を乗り出して宇佐を見据える。 「そのなかで、おまえ一人は妙に宙吊りだ。それも、己で心得て宙吊りになっているのではない。わしにはそれが剣呑に思える。どうしておまえは、その山内家の妻のように、ああ恐ろしい加賀さまの祟りじゃ、加賀さまの悪気が丸海に満ちて病が起こる、災いが来る —— と、恐れ怯《おび》えてばかりおられんのだ?」  自分では、そんなふうに考えてみたことがなかった。 「心が恐れ憚る気持ちだけに塗り込められれば、おまえはよほど楽になるぞ。ほうの無事を祈るにも、熱の入れようが変わるだろう。自分も涸滝に上がってなかの様子を確かめたいなどと小賢しい考えに踊らされずに、ひたすら神仏にほうを加護してくだされと願い、安らかに暮らせるはずじゃ。なのに、おまえを見ていると、いくらわしがそう教えても、今ひとつ身を入れて祈っておらんわ」  そうだったかな。自分では、一生懸命祈っているつもりだった。  でも、どこかに疑いがあったかもしれない。 「あたし、引手の見習いをしているころに、井上の若先生に、いろんなことを教わりました」 「どんなことじゃ」 「ものの見方とか、世の中の理とか。もちろん、あたしの頭じゃ半分もわかりませんでしたけど」  途端に、和尚は饅頭を押し潰したような顔になった。 「井上の若先生も、罪なことをなすったものだ」と、唸り声を出す。  宇佐はあわてた。「そんなことありません。あたしは嬉しかった。ちょっとは —— 賢くなったようで」 「半端な賢さは、愚よりも不幸じゃ。それを承知の上で賢さを選ぶ覚悟がなければ、知恵からは遠ざかっていた方が身のためなのじゃ。それがわからず、おまえのような者に知恵を説くとは、井上の若先生の尻は青いな。大甘じゃ」  よくわからないけれど、和尚は啓一郎先生を責めている。それは不当だ。思わずロを尖らせた。 「そんなふうに言わないでください。啓一郎先生に理を説いてもらわなかったら、あたし、琴江さまのことだって、とうてい耐えられませんでした。だから ——— 」  いけない、口を滑らせてしまった。  和尚はぐりぐり目で宇佐を見ている。 「琴江とな。梅雨の頃に死んだ、井上家の息女の名ではないか。その娘の何を、おまえが耐えねぼならなかったというのだ?」  しばらくにらめっこして、無言の押し問答をした。が、宇佐に勝てるわけがない。和尚は説教も問答も場数を踏んでいる。ご面相の迫力も桁《けた》がひとつ違う。  結局、全部打ち明けることになった。 「なるほどなぁ」  和尚は肉厚の掌で、ぴしゃりと音をたてて膝を打った。 「おまえが加賀さまを、鬼、悪霊と信じきれないわけが、わしにもやっとわかったよ。だからこそ宙吊りになっているのだな」 「あたしにはわかりませんけど」 「おまえは、加賀さまよりも先に、本物の鬼、悪霊を見てしまったのだよ」  梶原家の美祢だと、和尚は言った。 「加賀さまお迎えの大事という大儀に隠れて、己の卑しい嫉妬を晴らし、恋敵を手にかけた女だ。おまえはそれを目の当たりに見た。そして同じ時に、それを覆い隠そうとする人びとの、目つき手つきも見てしまった。それだもの、おまえがただただ鬼を恐れ、悪霊を恐れて目を伏せることができなくなっても無理はない。おまえのなかには、それに抗する理屈が芽生えたからだ」  宇佐はふと自分の両手に目を落とした。あたしのなかに芽生えた理屈 ———  人が悪い事をするのは、自分の勝手でするのだ。鬼や悪霊のせいじゃない。そうだ。啓一郎先生に、あたしはそう言ったことがある。  自分で放って、若先生にぶつけた言葉だったのに、忘れかけていた。 「だがしかし、一方では加賀さまにからみ、凶事がひんぴんと起こっている。それはすべて加賀さまの仕業で、人外のモノの悪しき力のなせることだと、おまえの心は信じかける。いや、実は信じるというよりも、皆が信じていることに、流されそうになってしまうのだ。おまえの心もまた弱い。二つの力が、右と左からおまえを引っ張る。だから宙吊りになってしまうのだ」  和尚の言葉に、宇佐は、座っているのに、足元が崩れるような気がしてくる。自分のいる場所が見えてきて、かえって怖くなってくる。あたしはこんなに細い際《きわ》に立って、どっちに行ったらいいか決めかねているんだ。 「鬼も悪霊も、生身の人だということだよ、宇佐」  和尚は、これまででいちばん優しい声を出した。 「美祢は生身の娘だったろう? 違うかね」 「いいえ、だって ——— あの」  削《そ》ぎ刃《ば》を突きつけたら怯えて青くなりましたと白状した。和尚は高らかに笑った。 「可愛いものじゃないかね。それでどうだった、宇佐。美祢を懲らしめて、その後おまえは病にかかったけ? 呪われたけ?」  ぴんぴんしておるじゃないかと、先回りして言われてしまった。 「しかも、今でも美祢を怒っている。ちっとも恐れてなどおらんわな」 「そりゃそうですよ。だって面憎いじゃありませんか。まだ保田さまと逢引なんかして」 「乳繰り合っておるわけだからな」  この言い様には顔が赤らんだ。和尚はしゃらっとしている。 「それが鬼だ。それが悪霊だよ、宇佐」  気がつくと、和尚はまた姿勢を正していた。 「美祢もまた、己の内の御仏からはぐれておる。が、最初に言うたように、はぐれても、御仏はそこにおられなくなったわけではない。姿が見えなくなっただけじゃ。だから美祢も、鬼、悪霊にはなり切れぬ。なり切れぬが、己の顔を捨て姿を捨て、鬼、悪霊の面を借りている。美祢のかぶった鬼、悪霊の面は、美祢にはとてもかぶり心地の良い、快い面なのだろう。人が鬼、悪霊に変じるというのは、そういうことでしかないのだ。人は人のままじや。仮面があるだけなのじゃ」  だから、鬼、悪霊が悪気で人を殺すことはできぬ。災いを起こすこともできぬ。 「面には手足がないからの」  毒を盛ることもできんわいと、苦笑しながら言い捨てた。 「そういえば、井上の若先生はあたしにおっしゃいました」  得心がいかずとも、いっそ宇佐も、これから丸海で起こる災いは、すべて加賀殿のせいだと思ってくれ ——— 「その言葉が、おまえの迷いの始まりか。切ないのう」  宇佐も考え直してみた。自分で自分を検めてみた。  もしも琴江の死の真相を知らず、琴江が病で死んだと知らされただけだったなら? ほうに会わず、あの子の言葉を聞かず、若先生から頭を下げられることもなく、若先生のお考えを聞くこともなかったら?  あたしは、今よりもっと易々と、加賀さまを恐れていたことだろう。あの方は鬼だ。悪霊だ。  あたしがそう思い込んでいたのなら、塔屋の八太郎を見る目も違っていたことだろう。もっともっと気をつけて、嘉介親分の子供たちを始め、町場の子供たちが涸滝の屋敷に近づかないよう、目を光らせていたことだろう。  加賀さまの祟り、悪気を恐れる一方で、そこから丸海の町を守るのだと、気負ってもいたことだろう。  ちょうど ——— 花吉のように。  今のように中途半端に、迷って立ちすくんではいなかったろう。  大きくひとつ、長々とため息を吐くと、和尚はご本尊の納められた厨子《ず し》の方へと目を上げた。つられて、宇佐もそちらを仰いだ。 「御仏よ、現世はかくも汚れてござります。人は弱い。法《ほう》の道は細く険しく、わしも行き迷いそうにござりますぞ」  いやいや、とっくに迷っておる。だからこんな寺におるのじゃと、呟いて額を打った。 「浅木家の、あの病もな」  話の向きが変わったので、宇佐はびくりとした。 「そういう面をかぶった、鬼、悪霊のなせるわざよ」 「どういうことです?」  思わず、宇佐は声を小さくした。 「浅木家のような名家には、いろいろと渦巻いているものがある。欲得の綱引きに、裏も表もある思惑が入り混じってな」  どろりどろりと、宇佐の想像のなかで渦が巻く。 「十五年前のあの病は、病なんぞではない」  顔を上げて、問いかけるように宇佐を見た。 「おまえなら見当がつくのじゃないけ」  宇佐は息を詰めた。言外に、和尚が匂わせていることを読み取るのは易しかった。 「もしかして ——— いえ、そんな」  毒ですかと、恐る恐る言った。 「そうだ」と、和尚はうなずいた。「誰ぞ、あの家のなかに、憎い誰かに死んでもらって、己の欲をかなえたい者がいたのだよ」 「だってそんな」 「珍しいことではないぞ。お家騒動はどこにもある。浅木家にあっても不思議はない」 「じゃ、跡目争いとか」 「そんなところじゃろうな」  ぽかんと口を開いて、宇佐はしばし呆れ返った。またあのぼろ布を手に取り、危ういところで顔を拭かずに、手のなかにくしゃくしゃにした。掌に汗が浮いている。 「そんなところですか」  気が抜けた。 「和尚さま、どうしてご存知なんです? 浅木家と何かかかわりをお持ちなんですか」 「ないな」和尚は鼻先で返事をした。「なくて幸いよ。わしはあの家を好かん」  また、はっきり言うものだ。 「ただ、十五年前の騒ぎの折に、わしはたまたま、事情を知るところに居合わせたのだ。ちょうど、今度の井上家の不幸におまえが関わったような形でな。それだけのことじゃ」 「だけど、そんな大事に……」 「わしだけではないぞ。知っている者は他にもおる。重臣連中はみんな承知だ。匙家も知っとることだろう」  宇佐の心はひっくり返りそうだ。 「皆さん、知ってて黙ってたんですか?」 「そうさ。ご城代の家を、誰が罰するね」  身内の揉め事だ、さっさと収めろというのが関の山だと笑って言う。 「じゃ、今度の病も?」 「同じだな。しかし、今度は少々たちが悪い。隠《かく》れ蓑《みの》があるからの」  考えるまでもない。宇佐はああ! と大きな声を出した拍子に、手にしたぼろ布で和尚を叩いてしまった。 「加賀さまだ!」 「そうじゃ。そうじゃが何でわしを叩く?」 「すみません、はずみです。ああ、そうなんだ。そういうことなんだ」  十七年しか生きていない宇佐が言うのも生意気だが、たかだか十五年では、お家騒動の火は消えまい。火種はずっと残って、燻《くすぶ》っていたのだ。それがこのたび、加賀さまの丸海入りという絶好の口実を得て燃え上がった。 「今、浅木家で病が再燃して、もしかして十五年前よりひどいことになったとしても、加賀さまのせいにしてしまえばいいんですものね。だけど、そんなことしたら、あたしたち町場の者や、柵屋敷の人たちを怯えさせることになるって ——— 」 「思いやせんよ。鬼のすることじゃ。悪霊のやることだからの」 「どうやったら仮面を剥げます?」  勢い込んで言った。和尚にペしりと額を叩かれた。 「バカを言うな。おまえなどの手出しできることではないわ」 「だって放っておけませんよ!」 「放っておいていいのだよ。また、浅木家の内でどうにかする」 「だけど噂は一人歩きしちゃいます」 「それを鎮めるのは町役所と引手の仕事じゃ。おまえはもう引手の見習いでさえない。だから、何もすることはない」 「渡部さまなら?」 「は!」和尚は笑った。「あの男は腑抜けだ。あてにしても甲斐はないぞ」 「和尚さま、渡部さまのことずいぶん悪くおっしゃいますね」 「腑抜けだから腑抜けだというのだ。だいたい、本人も認めておる」  まあ、確かにそうだ。俺は臆病者だと言っていた。 「しかしあの男は賢いぞ。おまえよりずっと目が利く。鼻もいい。踏み込んではならぬ道を心得ておる」  けなしたかと思えば褒めるのか。 「あたしはバカかもしれないけど、でも、悪いことを黙って見逃すのは嫌です!」 「だからバカだと申すのよ」  愚かなり! 大音声で喝《かつ》を入れられた。宇佐は飛び上がりそうになった。  英心和尚は仁王さまも逃げ出すような険しい顔をしている。今にも小鼻がはちきれそうだ。目じりが吊り上がって裂けそうだ。  と、その表情が緩んで、いつもの顔に戻った。朝に夕にお経を読み、暇を盗んで畑に鋤を入れ、芋を掘り、厠の肥えの代金を一銭でも高く取ろうと汲み取り屋にかけあい、自分で破れ袈裟を繕い、古い経巻を虫干ししながら居眠りをする、貧乏寺の和尚の顔に。 「わしも昔、おまえのように愚かであった」  何か ——— 目の前の宇佐ではなく、和尚の心のなかにあるものを取り出して、愛でるような目をしている。 「この世を統《す》べている決まりごとに腹を立て、筋の通らぬことにはとことん逆らい、すべてを正しく直そうと意気込んでいた。子供であったよ」  宇佐はふと思い当たった。三幅屋の重蔵から聞いた話だ。  子供のころ、英心和尚 —— 当時の三幅屋の跡取り英蔵は、家宝の拝領羽織に袖を通して、家を追われる羽目になった。拝領羽織がどれほど大切なものか、教え込まれ知り抜いているはずの長男が、なぜそんなことをしたのか。  彼の懐《なつ》いていた女中が、島山家から下賜された品物を損ねて責められ、首をくくって死んだ。英蔵は怒った。どれほど大事だろうと、取り替えのきくただの物が、どうして女中の命より大切だったのかと。  和尚は、そのことを言っているのではないだろうか。 「おまえ、重蔵に何か聞いたか」  察し返されて、宇佐は頬が赤くなった。なんであたしが恥ずかしがるんだろう? 「いえ、何のことです?」 「まあ、いいわ。聞かれたとしても、昔話じゃ。今さらどうということもない」  言葉と裏腹に、和尚が少しはにかんでいるように見えるのは、宇佐の気のせいか。 「癪《しゃく》に障るがな、宇佐。この世には、時に、人の命より大切に遇される建前《たてまえ》というものがある。たとえばその —— 三幅屋の拝領羽織のようにな」  知っとるのだろうと問われた。宇佐は素直にはいと応じた。 「やっぱり聞いたか。重蔵のおしゃべりめ」  今度こらしめてやる、と言う。 「和尚さまは、亡くなった子守の女中さんのこと、本当に好きだったんですね」 「わしらは|ね《ヽ》え《ヽ》や《ヽ》と呼んでいたよ。そりゃあ器量よしでな。わしはゆくゆく跡をとったら、ねえやを嫁にもらうつもりでおったのだ」  何を言わせるのだと、急にあわてた。宇佐は笑い出してしまった。すると和尚も照れ笑いの顔になった。人は照れると若く見える。英心和尚は、今この刹那、ねえやを慕う男の子の目の色を取り戻している。  しかし、わずかなあいだに和尚の時は戻った。男の子は消え、宇佐には思いをめぐらすことさえ難しいほどに、長い年月、さまざまな事柄の裏表を見聞きして、そのたび御仏に問いかけて、返事をもらえなくても文句も言わず、ここまでやって来た和尚に戻った。 「宇佐よ。丸海藩にとっての加賀さまお預かりは、三幡屋にとっての拝領羽織と同じだ。わかるかの」  じんわりと染み入るようにわかってきた。 「はい、わかります」 「人の命よりも —— そちらの方が大切ということもある。だからねえやは死んだ。だから嘉介の子供たちは斬られた」 「それは間違ってますよね?」 「では、どう正す? どう直す」  真顔で尋ねられた。宇佐はまたぼろ布をつかんでこねまわす。 「正しいようにするんです」 「何が正しい? 拝領羽織などという仕組みをやめるか。しかしそれでは、本陣の名誉がなくなる。加賀さまを追い出すか。しかしそれでは、丸海藩は潰されるぞ。まあ、潰れてもわしらは痛くも痒くもないが、目と鼻の先で多くの藩士が食い詰めるのを見るのは、どうにも後生が悪くはないか」  藩札も丸損になると、いきなり世知辛いことを言う。 「わしはあの時、ねえやをかばって嘘をついてやればよかった。壊れた品を隠すなり、わしが壊したというなり、何とでもやりようはあった。真っ直ぐに怒るなど、いちばん詮《せん》ないやり方だった」 「それじゃあたしたちも ——— 」 「嘘が要るときは嘘をつこう。隠せることは隠そう。加賀さまは丸海におられる。加賀さまも逃げ隠れできぬが、丸海藩も逃げ隠れはできん。正すより、受けて、受け止めて、やり過ごせるよう、わしらは知恵を働かせるしか道はないのだよ」  易しいことではないぞと、念を押すように言い足した。 「浅木家の病の噂は、これからさらに広まるだろう。わしらが知らぬだけで、涸滝では、加賀さまをめぐる不穏な動きが、今も起こっておるかもしれぬ。どんな形であれ、それが外に伝われば、また騒ぎになる。わしらのこの寺が救わねばならぬ人びとも増えてゆくことだろう」  わしら。和尚はそう言った。わしらの寺。  宇佐はもう、この中円寺の一員だ。 「世の中を直すなどという荒業はな、誰にでもできることではないのだ。また、いつでもできることでもない。時と人と、天運が揃って初めてなし得る。今はその時ではない。お上がどれほど間違っておられようと、加賀さまお預かりがどれほど理不尽な難題であろうと、ふっかけられた以上はやり遂げるしかないわ。その意味では、井上の尻の青い若先生が、おまえなどに頭を下げてまで、こらえてくれろと言ったのは、正しい」 「だけど、加賀さまのことを利用して、浅木家みたいに悪いことをしようとする人まで、放っておいていいんですか?」 「浅木家は放っておいてよろしい。何度も言わせるな」  そうなのか。それしかないのか。 「だって病が —— ああ、本当の病じゃないんだった。だったら何で蜂矢さまは寝込んだんだろう?」 「気の病じゃな。疲れじゃろ。あるいは別の病かな。これから増えるぞ。まだまだ出るぞ。噂が伝われば病も増える。本当はコロリや食あたりや風邪であっても、浅木家の病だと思い込む連中も出てくるからな。だが病なら治せる。防ぐこともできる。そういうふうには考えられぬか」  ちょっと捨て鉢になって、宇佐は思いついたことをすぐ口にした。「加賀さまの悪気封じのお札でも売りましょうか」  和尚は手を打って喜んだ。 「それはわしも考えていたところだ。おまえは聡いところもあるなぁ。見直した」  本気で言ったんじゃありませんと、宇佐は大声で抗弁した。それを打ち消すように、英心和尚の笑い声が、煤《すす》けた本堂の天井にまで響き渡った。        山鳴り     一    顔と手はきれいに洗った。口もすすいだ。襷を外し、着物の襟を整えた。  |ほ《ヽ》う《ヽ》が支度を終えるのを、御牢番御世話役の二見《ふたみ》さまが、厳しい目をして待ち受けている。  涸滝の屋敷にいる御牢番は、皆、そのまま戦《いくさ》か捕物に赴くかのように、鉢巻を締め袖をくくり袴の股立ちをとっている。もちろん、刀も帯びている。だが二見さまは別だ。加賀さまのおそばに近づくこの方だけは、裃を身につけて、無腰だ。 「よいか」と、二見さまがお訊ねになる。何かお話しになるときでも、この方は、口元をほとんど動かさない。歳のころは小寺さまと同じぐらいに見えるけれど、すぐあわてたり大きな声を出したりする小寺さまより、ずっと落ち着いていて静かな方だ。 「はい」と、ほうは頭を下げる。 「では参ろう」  二見さまの後に従い、屋敷の廊下を進み始めると、丸海の町に八ツを報せる鐘の音が聞こえてきた。  毎日八ツになると、ほうは二見さまに連れられて、加賀さまのお部屋にお伺いする。だいたい八ツ半までをそこで過ごす。この日課が始まって今日で五日目だ。裏庭の小屋の屋根にとまったあの怖い黒い烏を目にしたときから、それだけの日数が経ったことになる。  二見さまは足音をたてずにするすると歩く。ほうは、二見さまの一歩分を二歩で歩いてついてゆく。  今のようなことになるまで、ほうは、屋敷の内で二見さまをお見かけしたことがなかった。ほうは涸滝のいちばん底のところで働き、二見さまはてっぺんにおられる加賀さまのおそばにいたのだから、顔を合わせる折があったはずもない。また二見さまは、涸滝に詰めておられるわけではないらしい。このようにして、ほうが毎日、加賀さまのお部屋に呼ばれることになる以前には、日々、決められた刻限に涸滝を訪ね、加賀さまのご機嫌伺いをすることがお役目であったようである。その折は、必ず匙の砥部先生がご一緒だったようだ。つまり、砥部先生が毎日加賀さまのお脈を診る際に、二見さまが付き添いを務めておられたのだ。  しかし、ご機嫌伺いというのは、どのようにするものなのだろう。ほうにはどうにも見当がつかない。お話しをするのかしら。今日は良いお天気だとか、今朝のお食事はいかがでしたかとか。でも加賀さまは、ほうとこうしてお会いするようになる前には、涸滝の誰とも口をきかなかったという。そうすると、黙りこくっている加賀さまのお顔を見ることが、ご機嫌伺いになるのかしら。あたしのしていることも、ご機嫌伺いになるのかしら。  どうしても気にかかるので、つい昨日のことだ、加賀さまのお部屋から下がってきてすぐに、小寺さまにお訊ねしてみた。と、頭ごなしに叱られた。 「おまえのような阿呆が、何をさかしらなことを考えておるのだ。おまえは黙っておとなしくしておればいいのだ」  ほうはもう、小寺さまに叱られるのは慣れている。申し訳ございませんと謝って、もうひとつ気がかりなことがあったから、続いて尋ねた。 「小寺さま、このごろ石野さまをお見かけしません。どこにいらっしゃるのでしょうか」  石野さまの姿が、続けて三日も四日も見えないなど、初めてのことだった。何か他に御用があり、涸滝に詰める時刻や日にちが変わる時には、いつだってちゃんと、事前にそう教えてくださったものだ。あるいは御牢番の任を解かれたのだとしても、それならそれで、ほうに話してくださるだろう。  小寺さまはひどくあわてたようだった。口元がわなわなし、左右の目と眉が、てんでんばらばらな動き方をして、一瞬とても面白い顔になった。 「お、おまえは気にせんでよろしい」 「でも、石野さまは ——— 」 「石野は病気だ。病にかかった。だからもうこの屋敷には来ぬ」  どんな病だろう。御牢番を務められなくなるほどなら、よほど重いのだろう。どなたか、看病する人はあるのだろうか。お住まいは柵屋敷にあるとおっしゃっていた。匙の先生に診ていただけるのだろうか。  小寺さま以外には、尋ねる相手がいない。もともとこの涸滝で、ほうにきちんと口をきいてくれる相手といったら、石野さまと小寺さまの二人だけだった。他の御牢番の方々は、いつ会っても、どんなときでも、石のように黙っている。ほうがそこにいても、いないかのようにふるまっている。とりつくしまがない。  料理番の人たちはどうだろう。石野さまはあの人たちと話す機会も多かったし、何か知っているかもしれない。内緒でこっそり訊いてみようかと思った。今までにも、ほんのちょっとした隙を盗んで、「元気にしてるか」とか、「飯は足りてるか」とか、声をかけてくれることのある人たちだった。  ところが、こちらも様子が違ってしまっていた。ほうが台所へ入ってゆくと、こそこそと鼠のように逃げ出すのだ。台所には台所で、料理番を采配する御牢番の方がいて睨みをきかせているので、長いことぐずぐずしているわけにはいかない。相手に避けられてしまうと、ほうにはもう近づきようがない。  いつからあんなふうに避けられるようになったのだろう。あたしは何かいけないことをしたのだろうか。  そんなあれこれで、今日のほうは、重苦しく胸がふさいでいた。二見さまのぴんと伸びた背中を眺めて、そうだ二見さまなら何かご存知かしらと思った。加賀さまのおそばに寄れるくらいなのだから、御牢番を務める方々のなかでも偉い人なのだ。でも、どんなふうに申し上げればいいんだろう。  入り組んだ廊下の角をひとつ曲がり、ふたつ曲がり、どんどん屋敷の奥へと進む。唐紙を開けて座敷に入ると、次の唐紙の前に御牢番が二人座っている。その唐紙を開けると、また二人座っている。やっと見慣れてはきたものの、このいかめしい守りように、最初のうちは膝ががくがくしてしまったものだ。  思いもかけない椿事《ちん じ》で、ほうはあの夜、加賀さまのお顔を見た。間近に見ればその方は、病み疲れた一人のご老人で、鬼と呼ばれても頭に角があるわけではなし、悪霊と恐れられるべき忌まわしいお姿をしているわけでもなかった。それでもやはり、ほうは怖かった。怖い気持ちを抱えながら、その一方で、舷洲先生のお言葉が心のなかに響いていた。   ——— おまえは加賀殿に命を助けられたのだ。  あのときの舷洲先生の、身体の内から陽に照らされたかのような、明るい嬉しげなお顔。  舷洲先生のおふるまいは、謎だ。お言葉も謎だ。その謎に彩られて、加賀さまもますます、ほうにとっては不思議なお方になる。  ひとつ、ふたつ、みっつの座敷を通り抜けると、そこで二見さまは立ち止まる。袴の膝をさっと払って座る。ほうも敷居の際にまで離れて座り、平伏する。二見さまが低い声で、御牢番とひと言ふた言話をされる。ほうはその間も、ずっと額を畳に近づけていなければならない。 「失礼を仕《つかま》る」  二見さまが声をかけ、奥の唐紙が開く。二見さまの足が畳を踏みしめ、足《た》袋《び》が畳をこするしゅっという音がする。ほうはまだ平伏している。 「入りなさい」  その声があって、やっと動くことを許される。いっぺん身を起こし、もう一度深々とお辞儀をし、それから目を伏せて中腰になったままするすると前に出て敷居をまたぐ。  目の隅に、二見さまが正座して膝の上に両手を置いているのが見えたら、そこで止まる。そしてまた平伏。両手をぴたりと揃えて、顔を伏せたまま、その両手に向かってご挨拶を述べる。 「加賀さま、ほうが参りました」  加賀さまからは何のお返事もない。ほうはそのままじっとしている。と、二見さまがおっしゃる。「加賀さまに顔をお見せしなさい」  身体を起こし、顔を正面に向ける。加賀さまはあの夜と同じ白装束のいでたちで、二見さまと同じように背中を伸ばして端座し、こちらに横顔を向けておられる。  この座敷は一方のみを壁に、残りの三方は唐紙に囲まれている。窓はない。加賀さまはその壁を背にしておられるので、削げた頬の線が、漆喰《しっくい》塗りと板張りの、何の飾りもないところに、くっきりと浮かび上がる。  ほうの挨拶から、ひと呼吸、ふた呼吸間をおいて、加賀さまはこちらにお顔を向ける。  それを待って、ほうは続ける。 「加賀さま、本日のご機嫌はいかがでございましょうか」  この口上を口にするのも、今日で五回目になる。二見さまに「このように言いなさい」と決められた言葉だ。  これが、ほうにはとても難しかった。最初のときは、いざ加賀さまの前に出ると、声が出なかった。ようよう口を開けば、言うべき言葉を忘れてしまって、二見さまに教えていただいた。二日目、三日目のときにはつっかかり、昨日は昨日で、口上を申し上げようとしたそのときを選んで、よりにもよってくしゃみが飛び出した。  どんなときでも、二見さまは表情を変えない。ほうが間違えば正し、忘れれば教え、くしゃみをしたときにも笑いもせず、あわてたほうが大急ぎで口上を言い終えるのを、じっと眺めておられた。  それは加賀さまも同じだ。ほうの間違えも、狼狽《うろたえ》も、なにものも加賀さまを動かすことはない。  真っ直ぐな薄い眉。真っ直ぐで細い目。目じりは刃物で削いだように鋭く切れこんでいる。鼻先は尖り、くちびるは枯れた柳の葉のよう。 「上手に申せた」  そのくちびるが動いて、そうおっしゃった。 「二見殿も安堵されたことだろう」  それが、今の口上への褒め言葉だということがわかるまで、ほうには少し時が要った。わかったのは、二見さまが軽く頭を下げて応じたからだ。 「ありがとうございます。野育ちの下女でございます故に、ご挨拶の口上を覚えるまでにも日がかかりました」  ほうも頭を下げる。加賀さまは顔を戻して、また横を向いてしまう。ほうがお伺いしているときは、いつもこうだ。ほうは加賀さまの横顔に向かい合う。けっして相対はしない。 「ほう。ご機嫌はいかがでございますか、という言葉の意味はわかるか」  加賀さまがお訊ねになった。  ほうは驚いてしまい、思わず二見さまのお顔を盗み見た。 「あの……」 「意味はわかるか」 「加賀さま、あの」 「お訊ねを受けているのだ。お答えしなさい」二見さまも言い添える。  はいと、ほうはうなだれた。胸のあたりが苦しくなる。どうしよう?  五日前、初めてここへ来たほうが、赤くなったり青くなったりしながら最初のご挨拶を終えると、加賀さまは、ほうに名前をお訊ねになった。ほ《ヽ》う《ヽ》でございます、とお答えすると、歳を訊かれた。お答えすると、さらにこうおっしゃった。 「では、ほう。おまえは今日、朝起きてからここへ来るまで、どんなことをしていたか」 「どんなこと……」 「水汲みをしたか。掃除をしたか。飯は何を食べたのか。誰かと何かを話したか。それを尋ねているのだ」  ほうは一生懸命に考えて、お答えした。頭をひねって考えなくてはならなかったのは、自分のしたことは覚えているが、それを言葉に置き換えるのが難しかったからだ。  何とか話し終えると、加賀さまは格別の感想を述べるわけでもなく、おっしゃった。 「よくわかった。明日も同じことを尋ねる」  言葉どおり、翌日も同じことが繰り返された。一昨日も昨日も同じ。ほうが話を終えると、 「よくわかった」。そして下がることを許される。  だから、てっきり今日もそうだろうと思っていた。なのに ——— 「もう一度尋ねよう。ご機嫌はいかがでございますかという言葉の意味はわかるか」  へどもどしながら、ほうはすがるように二見さまを見た。二見さまは、顔のどの部分も動かさないいつもの様子で、 「お答えしなさい」と促す。 「ご、ご機嫌いかがでございますか」ほうはただ、挨拶を繰り返した。じわっと身体が汗ばむ。  それでなくても、唐紙を締め切りのこの座敷は暑いのだ。これではかえって加賀さまのお身体に障るのではないかと、ほうは思う。 「その意味 —— いや、意味という言葉が難しいのか。ご機嫌いかがでございますかという言葉で、何を尋ねているのかわかるか」  五日目にして初めて加賀さまは、こんなにもまとまった言葉を発しておられる。 「何を、でございますか」 「そうだ」  じっと座っているのも苦しいくらいに、胸がはちきれそうにどきどきする。囲った、困った。何てお答えすればいいんだ?  加賀さまは黙って待っておられる。二見さまはほうを見つめておられる。 「おす、おす —— 」  ほうは切れ切れに言い出すと、さすがに二見さまが片眉を吊り上げた。が、二見さまが口を開きかけると、驚いたことに、加賀さまが軽くそちらに目を向けて止めた。止めたように、ほうには見えた。 「おす、お、おすこや、か」  やっと言えた。ほうは汗みずくになっている。正座して、お尻の下に敷いている足の指先が、ちまちまと落ち着きなく動く。 「おすこやかにおられますか、ということだと、思います」  ほうの頭のなかには、琴江さまの笑顔が浮かんでいた。そうだ、琴江さまに教わったことを思い出せばいいんだ。琴江さまもよく、井上家に来る病の人や、怪我をした人たちに尋ねていた。今日の御具合はいかがですか。ご気分はどうですか。ご機嫌はいかがですか。  それは、気持ちよくしていますかというお訊ねだ。昨日よりは元気になりましたか。元気が出ましたか。それを丁寧に言うと、おすこやか、だ。 「その言葉を、誰に教わったのだね」  気がつくと、加賀さまが、唐紙ではなくほうを見ていた。いつの間にか、身体ごとこちらへ向き直っている。ほうはさらにびっくりして、目をぱっちりと瞠った。 「誰に教わったのだね」  平らな口調を変えることなく、加賀さまは重ねてお訊ねになる。 「琴江さま、です」 「琴江」 「はい。井上のお家《うち》のお嬢さまです」  二見さまがすっと割って入った。「井上は、匙家のひとつでございます」 「医家なのですね」と、加賀さまが問う。 「左様にございます」 「ではほう、おまえはその井上という家にいたことがあるのだね」 「はい、はい」 「はいという返事は、一度でよい」  はいと大きく答えて、ほうは平伏した。 「挨拶が終わったら、もう頭は下げないでよろしい」  加賀さまの言葉に、あわてて跳ね起きた。その拍子に、こめかみから汗が一筋つるりと流れ落ちた。 「暑いか」  暑い。でもそう言ってはいけないのだろう。二見さまを見た。二見さまはまた、今度は反対側の眉を吊り上げている。 「あ、暑くはございません」 「暑いのだろう。私も暑い」  二見さまが両眉を持ち上げた。百面相でもしているみたいだ。ただそれだけで、穏やかなのは有難いけれど色のついた影のように手ごたえのなかった二見さまが、怒ったり笑ったりあわてたりする普通の人、舷洲先生や石野さまと同じように見えてきた。  おかしくて、不用意にほうはふと笑った。笑いがこぼれてしまってから、あわてて顔を引き締めたがもう遅い。二見さまの眉は元の場所に戻り、目が細くなり、くちびるが真一文字になった。 「暑いが、この座敷に風を通すことは許されぬ。私は幽閉の身であるからな」  これまでと同じ口調で淡々と言って、加賀さまはゆっくりまばたきをした。 「ほう」  ほんのわずかに、指の関節ひとつ分ほど顎を前に出すと、おっしゃった。 「おまえはものの道理を知らず、数を数えることができず、己の名前と歳さえも定かには覚えられぬ、哀れで愚かな下女だと、私は聞いた」  ほうは姿勢を正して座り直し、加賀さまに向き合った。またこめかみから汗がひと筋。 「五日前の夜、おまえがここに迷い込んだ折に、そう聞かされたのだ」 「加賀殿 ——— 」  なぜかわからないけれど、急いだ様子で二見さまがお声をかけた。が、加賀さまはほうから目を離さない。 「だから私はおまえに、まず名を尋ねた。おまえは答えた。歳を尋ねた。おまえは答えた。さらに私は、おまえが日々何をしているかを尋ねた。日ごとに尋ねた。おまえは答えた。そうだな?」  声を出さず、ほうはしっかりとうなずく。 「確かにおまえは言葉を知らず、物の言い方を知らず、自分のしていることを、上《う》手《ま》く言葉に置き換える術《すべ》も知らぬように見えた。しかしおまえは、一日目よりは二日目、二日目よりは三日目と、話す言葉が滑らかになってきた。同じ問いと答えを繰り返すうちに、おまえは要領を覚えていったのだ。わかるか?」 「よう、りょうでございますか」 「そうだ。物事の段取り、手はず、それをしてゆく順番というようなことだ」  ほうは懸命に頭を働かせて考え、口を開いた。そうすると、自然に身体も動いて、身振り手振りになってしまう。 「お座敷を、お掃除、するとき」 「うむ」 「先に、ほうきではきます」 「うむ」 「それから、雑巾をかけます」 「おまえはそうするのだね」 「はい、琴江さまに教わりました。そうしないと、ほこりがうまくとれません。それと、はたきをかけるときは、高いところからかけます。そうしないと、あとからほこりが落ちてきます」  加賀さまは顎をうなずかせた。二見さまは目をぎりぎりまで細めて、じっと二人のやりとりを見ている。 「段取りというのは、そういうことでございますよね?」 「そうだ。それは全てのものにある。掃除ばかりにあるわけではない」 「はい、わかります」 「おまえは、私に話をする時にも、その段取りを覚えてきたということだ」  一日目から四日目までに、と付け加える。 「だから、おまえは哀れで愚かな下女ではない。こうして私と話ができる」  はいと答えていいものか、ほうは二見さまを覗《うかが》った。二見さまは両目を伏せている。  すかさず、加賀さまがおっしゃる。 「おまえが哀れか哀れでないか、愚かであるかそうでないかを決めるのは、二見殿ではない」 「は、はい」  加賀さまは、真っ直ぐにほうを見てお話しになっている。ほうが二見さまの方を見ようとしても、目が離せない。 「ほうというのは、珍しい名だ」 「めずらしい、ですか」 「江戸では聞いたことがない。丸海の土地には、よくある名なのだろうか」 「わたくしも存じません。わたくしは、丸海の者ではございません」  ほう ——— と、加賀さまは口元をすぼめて声を出した。 「はい!」 「今のは、おまえの名を呼んだのではないよ。おまえの言ったことに、私は少し驚いたので、ほう、と感心したのだ」  そうか、おまえは土地の者ではないのかと、小声で呟《つぶや》いた。二見さまが「加賀殿」と、またぞろ割り込みかける。 「この者を下女として召し出しましたのは、我ら加賀殿をお守りする者が ——— 」 「二見殿、私はほうと語らっているのだ」  加賀さまはけっして声を高めたわけではない。なのに、二見さまはさっと畏《おそ》れ入って引き下がった。すると加賀さまは、さらにおかしなことをおっしゃる。 「ほう、二見殿を困らせてはならぬ」  ほうはお二人の顔を見比べた。 「わたくしは、二見さまを困らせているのでしょうか」 「不思議に思っているだろう? 二見さまはどうしていつもああして、お面をかぶった人のように、お顔の表情を変えないのだろうと思っているはずだ」  ほうは二見さまを見た。両の拳を膝の上にあてて、きっちり畏《かしこ》まっておられる。 「この座敷に入る前から、二見殿はこのようであろう? 座敷の外で、二見殿が笑ったり怒ったりされる姿を、おまえは見たことがあるか」  まったくない。が、それは二見さまだけの話ではない。 「加賀さま、この涸滝のお屋敷では、どなたも笑ったり怒ったりなさりません」 「そうか。おまえもかね」 「わたくしも、そういうことは、めったにしてはいけないと思っています」 「何故《なにゆえ》に」 「加賀さまのお邪魔になるからです」 「私の邪魔?」 「はい。加賀さまは病で身体が弱られているので、お静かにおすごしにならなくてはいけないのでございましょう?」  そうだという返事も、そうではないという返事も、どちらを待っていたわけではない。ほうはやっぱりわけがわからないまま、ただその場その場の加賀さまの問いかけに、思いつく限りの言葉を返しているだけだ。  少し間をおいてから、加賀さまはお答えになった。 「そのとおり、私は病《や》んでおる」 「はい」 「しかし、このようにしておまえと語らうくらいのことはできる。毎日私を診ておられる医師の砥部殿も、私がおまえと話をすることを、よもや止めたりはなさるまい」  加賀さまがそうおっしゃるのだから、そうなのだろう。 「それだから、ほうよ。おまえはこの座敷の内へ入っても、笑ったり、怒ったりすることがあれば、そうしてよいのだ。人と語らうとは、そういうことなのだから。しかし、ほうよ。私とおまえが語らっている間に、二見さまがここでこうして、お顔の筋のひとつも変えず、じっと黙っておられることを、不思議に思ってはいけない」  ここに座っているのがほうではなく、たとえば宇佐であったなら、感じ取れたろう。この丁寧な言《 ヽ》い《 ヽ》聞《 ヽ》か《 ヽ》せ《 ヽ》をしながら、加賀さまが、お世話役の二見さまを、少しばかりからかっているのだということを。しかし、ほうは気づかなかった。むろん、加賀さまもほうにはわからぬことは承知の上なのだった。 「これは二見殿のお役目なのだ。お顔を平らに、お気持ちも平らに、こうしてここで控えていることがな。おまえが掃除や水汲みをするのとまったく同じ、お役目だ。わかるか」 「はい」 「だからおまえは、これから先、私が問いかけ、おまえが答えるとき、答えてよろしいかとか、こう言ってはいけないかとか、二見殿のお顔を覗うことはない。二見殿は、ここにおられることで、既にお役目を果たされておる。それに間違いございませんな、二見殿」  二見さまは、畏まった姿勢のまま頭だけを持ち上げた。なるほど、そのお顔はますますお面のように平らかだ。 「それで加賀殿のお心が静まりますならば、いかようにも」 「有難い御沙汰である」  ほうの知っている限りでは、「有難い」という言葉を使うときにはふさわしくない、短く強い調子で、加賀さまはおっしゃった。理由はわからずとも、それを聞いた者がひとしなみに、ぴしりと身を締めるような口調だった。 「では、ほうよ。朝起きてからここへ参るまでに、今日は何か、変わったことや新しいことはあったか」 「新しいこと、でございますか」 「そうだ。四日のあいだ、日ごとに訊いて、おまえの暮らしぶりはだいたいわかった。だから今日からは、何か変わったことや新しいことがあった時だけ、それを聞こう」  ほうは頭のなかで、朝から今までにしてきたことをおさらいしてみた。加賀さまは姿勢正しくお座りになり、両手を膝に、静かに返事を待ってくださっている。 「朝、変わった声で鳴く鳥を見ました」 「どこで見た」 「小屋のところです。小屋の向こうの森から鳴き声が聞こえてきました」 「それを耳にしたのだな。ではおまえは、その烏の姿を見たのではないのだな」 「はい、見ていません」 「では今のお前の言葉は、正しくは、変わった鳥の鳴き声を聞きました、とあるべきだ」 「はい」 「言ってごらん」 「変わった鳥の鳴き声を聞きました」 「どのような声だった。どんなところが変わっていると思ったのだね」  ほうは上手い言葉を探して考え、またちょっともじもじした。一方、二見さまはまったく動かなくなった。面を伏せたまま、もう、眉毛さえ動かさない。 「海鳥の声とも、からすやとんびの声ともちがっていました。子犬の声のようでした」 「子犬とな」 「はい。きゃん、きゃんというような声です」 「それがどんな姿の鳥なのか、見てみたいと思うか」 「はい、見てみたいです」 「では今夕、おまえが夕餉《ゆうげ》を食したら、そこから少しだけ飯粒を残しておいて、その小屋の外の地面にまいておきなさい」 「鳥にえさをあげるのですね」 「そうだ。すぐには、その鳴き声の鳥が来るかどうかわからぬ。だが何日も続けてゆくうちに、いつか来るかもしれぬ。鳥が来たら、よく鳴き声を聞いて、観察するのだ」 「かんさつ」 「物事をよく見て確かめるということだ」  かんさつ。井上の啓一郎先生が、いつか何かの折に、同じ言葉を口にされたのを聞いた覚えがある。 「はい、わかりました」 「他には新しいことや変わったことはなかったか」 「はい、ございません」  加賀さまはうなずかれた。 「それでは、次はおまえの名前の話をしよう」  ゆっくりとした口調で、切り出された。 「わたくしの名前は、|ほ《 ヽ》う《 ヽ》です」 「珍しい名前だ。おまえは自分のほかに、同じ名前の者を知っているか」 「いいえ、知りません。ほかにはいないと思います」  加賀さまは噛んで含めるように問いかける。ほうはそれに、できるだけ早くお答えしようと思いつつも、つい手間取ってもたもたする。加賀さまは急《せ》かさない。 「何ゆえにそう思う」 「それは、あの、良い名前ではないですから」 「悪い名なのか」 「はずかしい名前なのです。阿呆の|ほ《 ヽ》う《 ヽ》でございます」 「阿呆の呆という字を書くのか」 「はい。わたくしは字が書けませんので、ひらがなで書きます。でも、字はそういう字だと教わりました」 「誰に教えられたのか」 「萬屋で教わりました」 「それは店の名か」 「はい。わたくしは江戸で、萬屋におりました」 「おまえのふた親の店か」  ほうはあわててしまった。加賀さまの御前では、大きく身体を動かしたり、ましてや立ち上がるなど、けっしてしてはいけないと、二見さまからはきつく言い聞かされている。それを忘れて、とっさに中腰になり、しゃにむに手を振りかぶりを振る。 「ちがいます。めっそうもないです。わたくしにはおとっつぁんもおっかさんもおりません。いいえ、ええと、あの、おりますが、もうおりません。おとっつぁんのことは、言ってはいけないと言われました」  加賀さまは静かに二度ほどまばたきをした。ほうは我に返ってまた正座をした。二見さまの横顔をちらりと覗う。  叱られはしなかった。でも、今にも叱りたそうなお顔の色に見える。  加賀さまの表情には、まるで変わったご様子がない。 「おまえはこの屋敷に来る前に、匙の井上家にいたと言ったな」 「はい、女中奉公をしておりました」 「今と同じようにして働いていたのだな」 「はい」 「そこでも、おまえのほうという名は、阿呆のほうと書くのだと言われたか。そこの琴江という娘にもそう言われたか」  ほうは強く首を振った。「いいえ。琴江さまはそんなふうにはおっしゃいませんでした。ほうのほうは、もっとべつの、ちがう字だと言ってくださいました」 「おまえはそれを信じないのかね」 「それは、でも、わたくしは頭が鈍《のろ》いですから」 「どのように鈍いのだ」  びっくりした。こんなこと、初めて訊かれた。自分で考えてみたこともなかった。 「字が、書けません」 「ひらがなは書けると言った」 「やっとです。あの、井上のおうちではもっといろいろ教わりました。でも忘れてしまいました。すぐ忘れてしまうのは、阿呆だからです。わたくしはもう暦もよく読めません。啓一郎先生が教えてくださったのに」  言い出したら、はずみがついた。 「算盤《そろばん》も、琴江さまが教えてくださいました。少しずつでも長く続ければ、いつか覚えていかれるって、とても優しく教えてくださいました。でもわたくしは忘れてしまいました。ですから、数も上手く数えられないというのは本当です」  どうしてか、一度はおさまっていた胸のどきどきが、また始まった。悲しいわけではないはずなのに、目の底が熱くなる。ううん、本当は悲しいのか。啓一郎先生や琴江さまのことを思い出しているからだ。ああそうだ、思い出せば思い出すほどに悲しみと心細さが湧き出してくる。 「おあんさんも、ほうは阿呆じゃないって言ってくれました。針仕事ができるって。でも今はどうかわかりません。もうずっと、おあんさんに会っていないから。それに石野さまのお顔も見てません。石野さまも、ほうは阿呆じゃない。よく働くって言ってくだすったけど、でももう三日も四日もお会いしていません」  ひと息に言い終えるころには、本当に目じりが濡れてきた。ほうは手の甲で顔をごしごしとこすった。 「加賀殿」とうとう我慢が切れたという様子で、二見さまが低くお声を出した。「ご覧のとおり、これは物の道理を知らず、身の程も弁えぬ卑しい下女にございます。加賀殿と親しくやりとりを交わすなどの重責を、とうてい果たし得る者ではござらぬ。どうぞ、下女には下女の役目をお申し付けください」  ほうがそうっと覗い見ると、加賀さまは二見さまの言葉を聞いているのかいないのか、ほうの頭の上のあたりをぼんやりと見やっておられる。 「では、ほう」と、そのままおっしゃった。 「今日はこれまでとしよう。続きは明日だ」  続きって、何の続きだ? 「二見殿、明日もこの時刻に、ほうをお連れいただきたい」 「しかし、加賀殿 ——— 」  二見さまの割り込みを気にもせず、悠々として、では下がりなさいとほうにおっしゃった。 「鳥に餌をやることを忘れるでないぞ」 「はい」  深々と一礼して、引っ立てられるようにして座敷を出た。行きにそわそわしていたのとはまた違い、帰りはもやもやと、きっとひどく叱られるような気がして、そのくせ何かちょっぴり大きなものを飛び越えたような楽しい気分もした。見慣れたはずの涸滝の薄暗い屋内が、新しい場所になったような気もした。    二  翌日、同じ刻限に加賀さまにお会いすると、まず烏のことを訊かれた。それらしい烏は来なかったとお答えすると、では新しいこと変わったことはあったかとお訊ねになる。何もなかったのでそのとおりにお答えした。 「それでは、今日はおまえのことを訊こう」 「わたくしのことでございますか?」 「そうだ。おまえは江戸のどこで生まれたのだね」  そうして、八ツ半までのあいだに、加賀さまは、萬屋で生まれ育ち、丸海に遣わされてきて置き去りにされるまでのほうの身の上話を、すっかり聞き出してしまわれた。  むろん、ただほうに語らせただけでは、こうはいかなかったろう。ほうの話はふらふらと頼りなく、言葉の選び方も適切ではない。人の名前を出すとき、この人がどんな人かと説明を添えるなどという知恵もないので、話はいたずらにこんがらがり、順番を違えて判りにくいこと甚だしい。  しかし、加賀さまは上手に問いかけを挟み、ほうを導いて、話を引き出した。たとえば、ほうが新しい人の名を言えば、 「それは男か、女か」「歳はどのくらいだ」「おまえはその者を何と呼んでいたか」などと尋ねて確かめる。おかげで、話しているうちにだんだんと、ほう自身にも、次に話そうとする事柄がはっきりと見えてくるようになった。これを話すためにはこれを話しておかないといけない。これを話しておけば、次はこの話につながる。  話してゆくうちに、ほうは身にしみるようにしてひとつの理解を得て、そしてなおのこと不思議に感じた。加賀さまは、どういうお方なのだろう?  考えてみれば、井上家で身の上を尋ねられたときも、宇佐に身の上語りをしたときも、やっぱりこうしてやりとりを重ねたから、ほうは語ることができたのだった。加賀さまも今、同じことをしてくださっている。同じことをしてくださるということは、加賀さまも、啓一郎先生や琴江さまやおあんさんと同じように、お優しいということではないのか。  加賀さまは、とても悪い人であるはずなのに。  人を殺し、穢れをまとい、生きながら鬼となり悪霊となり、丸海に災いを運んできたと、恐れられているお方であるのに。  だからこそほうも、この涸滝へ来てしまったとき、あんなにも怖かったのに。  その加賀さまがお優しいならば、ほうはこれから何を怖がればいいのだろう?  この日、加賀さまの座敷を下がって小屋へと戻る前に、二見さまに別の座敷に呼ばれた。そこでの二見さまは、急にお顔に血が通ったようになられて、語気も尖り、目には怒りの色を浮かべて、ほうをきつくお叱りになった。  何を叱られているのか、最初のうち、ほうにはわけがわからなかった。が、よく聞いているうちに、わからないのも当然で、なぜならば二見さまは今日のほうのふるまいを怒っておられるのではなく、これから先のことを怒っておられるのだとわかってきた。 「よいか。明日加賀殿が、今日と同じようにおまえに問いかけられて、丸海に来てからおまえがどこでどうしていて、誰に連れられてこの屋敷に来たのかとお訊ねになっても、けっして話してはならぬぞ。また、ここへ来てからどんなことがあったかというお訊ねにも、お答えしてはならぬ。それはけっして、おまえなどが口にしてはならぬことなのだ。匙の井上家で女中奉公をしており、井上家から遣わされてここにいる。毎日殊勝に立ち働いている。おまえが申し上げていいことは、ただそれだけだ。それを、よくよく心に刻んでおくのだぞ」  ああそれからと、さらに声を高めて、 「明日加賀殿が、何か変わったことがあったかとお訊ねになったら、これこれこのように二見さまに言い聞かされましたというようなことも、言ってはならぬ。加賀殿のお耳に入れるべき事柄ではないのだからな」  ちゃんと覚えておかなくては、なかなか難しい。加賀さまにお訊ねを受けたら、できるだけ正直にお答えしようと思うのを、抑えなくてはならないのだ。ほうの頭には余ることかもしれない。不安だった。  ところが翌日になると、ほうはまったく別のことで驚いた。  飾りもなければ家具もない、ただ真っ平であった加賀さまのお部屋に、小さな文机が据えられているのである。机の上には硯と筆がひと揃い。紙もひと束置いてある。  加賀さまは、新しいこと変わったことはなかったかというお訊ねから始めた。何もございませんでしたと、ほうは答えた。と、加賀さまはほうに文机に向かうようにと促される。 「今日から、おまえはここで手習いをする」  あまりに意外なことだったので、ほうはすぐには返事もできず、二見さまのお顔を見た。と、二見さまが何か言われるより先に、加賀さまがおっしゃる。 「これらの道具は、今朝方のうちに二見殿が整えてくださったのだ。ほう、お礼を申し上げなさい」  まだぽかんとしているほうに、重ねて、「お礼を言うのだ。お許しをいただくために、二見殿には大変な労をとっていただいたのだからな」とおっしゃる。  加賀さまのお顔の線 —— 目鼻立ち、口元、額のしわ —— それらが少し、ほんの少しではあるけれど、昨日までよりも柔らかい。そう感じるのはほうの勘違いか。 「ありがとうございます」  向き直り、両手をついて頭を下げる。二見さまはじっと動かない。ほうは加賀さまのお顔を仰いだ。 「加賀さま、わたくしが手習いをするのでございますか」 「そうだ」 「字を、習うのですか」 「そうだ。私がおまえに教える」  もういっぺんびっくりして、今度はぶしつけに二見さまを振り返ってしまった。そのとき、面を伏せた二見さまが、怒り顔になるのをこらえておられるようだと気がついた。 「ほう、まず墨をすりなさい」  ぴしりとお声をかけられた。ほうは机に向かう。手がぶるぶると震えた。 「手習いをするのは初めてか」 「井上のおうちで教わりました」 「では、しっかりと墨をすりなさい。手習いは怖いものではない」  ほうが墨をすり終えると、 「おまえの名前を書いてごらん」  ほうは筆を取る。ひらがななら書けると言ったけれど、紙に書くのは久しぶりだ。筆先がふらついて、墨の雫が紙に落ちた。  ようやく書き終えた「ほう」という名は、歪んで傾いて、紙からはみ出しかけていた。 「私に見せなさい」  紙をめくり取って、両手で差し出す。加賀さまはそれを受け取り、腕を伸ばしてつくづくと見ると、紙を返してほうに向けた。 「これがおまえの名だ」  みっともない字であることは、ほうにもわかる。首を縮めた。 「これが、今のおまえだ」と、加賀さまはおっしゃった。「おまえが阿呆の|ほ《ヽ》う《ヽ》だという、おまえだ」 「はい、そうです」 「阿呆という字は書けるか」 「ひらがなですか」 「書いてごらん」  名前を書くよりもっと苦労した。紙は墨の雫でべたべただ。  またつくづくと見て、それを脇へ置き、加賀さまはつと立ち上がった。 「そこを退《の》いてごらん。私が書いてみせてやろう」  加賀さまは文机に向かい、新しい紙に、大きく「阿呆」とお書きになった。さらに紙をめくり、今度は「呆」と一字を書いた。  わあ、きれいな字だと、ほうは見惚れた。舷洲先生がお手紙を書くのを見かけたことがある。 啓一郎先生も、よく字を書いておられた。お二人と同じくらい上手だ。 「ごらん」 「呆」の一字を書いた紙をほうに渡して、加賀さまはおっしゃった。 「これがお前だ。今のおまえの名だ」  両手で紙を捧げ持って、ほうはうなずいた。 「しかし、これは本当におまえの名前なのだろうか」  どういうお訊ねなのか、ほうにはわからない。返事に困って、ただうつむいていた。目だけを動かしてそっと仰ぐと、加賀さまはほうではなく、ご自分で書いてほうに持たせた「呆」の字を見つめておられるのだった。 「それでは、次はいろはを書いてごらん」  こうして、一日一度、ほうは加賀さまのもとに、ご機嫌伺いではなく手習いに通うようになってしまった。  最初の数日のうちは、ひどく気が張ったし、こんなことがずっと続くわけはないだろうなぁという気が、何となくしていた。だって二見さまはお怒りのようだったもの。ある日お伺いしたら、文机がなくなっていて、おまえはもう来なくてよろしいと言われて、それで終わりになるのじゃないかしら。  だが、手習いは終わらなかった。それどころか五日目以降は、加賀さまと二人きりになった。二見さまは、加賀さまの座敷までほうを連れてくると、それきり下がってしまわれる。八ツ半になってほうが座敷を出るときに、またおいでになる。二見さまの怒ったようなお顔はずうっとそのままだが、先のように別室に呼ばれてお叱りを受けることはない。そのかわり、二見さまがほうにお声をかけてくださることもなくなった。  通い続けるうちに、涸滝のお屋敷のなかで、前にもまして目に見えて、ほうは御牢番の方々から避けられるようになった。下働きの役目は同じように続いており、お膳を上げ下げしたり、掃除に水汲み、洗い物と、忙しく働いている。これまではそんな折々に、何かの拍子に短く声をかけてくださっていた人たちも、今ではほうに目を向けもしない。そのくせ、何人か集まると、ほうの方をちらちらと目を投げて、何か話している様子はある。  あれだけ怒りんぼうだった小寺さまさえ、ほうに近づいてこなくなってしまった。依然、お顔が見えないままの石野さまのことが気になって、何度かほうがお訊ねしようと思ったときも、ほとんど逃げるようにして遠ざかってしまった。  なぜ、急に嫌われるようになったのかしら。  ほうはほうなりに考えた。やっぱり、鬼のような加賀さまに、手習いを教えていただいたりしているからなんだろう。皆様が怖がっている加賀さまのおそばに毎日上がり、字を習い、言葉をやりとりし、書いていただいたお手本をもらって下がってくる。そんなほうには、鬼がうつってしまったと、皆さん、思っているのだろう。  料理番の人たちが、囁《ささや》き合っているのを聞いてしまったこともある。   ——— かわいそうに、ありゃあ、そのうち取り殺されるよ。  ほうが加賀さまに祟られると思っているのだ。  ほうだって、今でも加賀さまは怖い。手習いを間違うと厳しく直されるし、お顔の表情が変わらないから、今日はどんなご機嫌なのか計りかねる。二見さまと違って加賀さまはほうをお叱りにはならないけれど、黙ってしまって何もおっしゃらない時も多くて、毎度毎度汗をかく。  だけどその怖さは、今までの怖さと違うということも、ほうにはわかってきた。  加賀さまが鬼や悪霊であるならば、ほうは鬼悪霊から字を習っていることになる。鬼悪霊がお手本を書き、時にはほうの手に手を添えて、字を教えてくれる。  加賀さまにそうやって教えていただくと、ほうの手筋は急に良くなる。手の動かし方を、手で覚えるからだ。琴江さまもこうして教えてくださった。だから井上家にいたころのほうは、砂が水を呑むように、どんどん新しい字を覚えることができたのだった。  今も同じだ。加賀さまに習うと、どんどん字が書ける。でも加賀さまは人殺しで、鬼であり悪霊で、みんなが怖がっている。琴江さまと同じことをしてくれる加賀さまが恐ろしいなら、ほうは琴江さまも怖がらなくてはならなかった。でも、ほうには、琴江さまと違って加賀さまが怖いのは、加賀さまがあまりお話しにならず、けっして笑わないからで、だからもしも加賀さまが笑ってくだされば、琴江さまの笑顔と同じようにほっこりとして嬉しいかもしれないなどと思えてしまって、   ——— そのうち取り殺されるよ。  そんな囁きも、身に食い込んではこないのだ。  それに、ほうは舷洲先生のお言葉を聞いている。謎のようなあの言葉。   ——— 加賀殿がおまえの命を助けてくださったのだ。  舷洲先生は、「おまえは、自分ではわからぬだろうけれども」と、ほうを抱き上げ、微笑《ほほえ》みながらそうおっしゃったのだった。  ならばやっぱり、みんなが加賀さまを恐れるのは間違いなのではないのか。何かが掛け違って、みんな間違ったことを思っているのではないのか。  そして、何より肝心なことに、ほうは加賀さまに教わる手習いを楽しんでいた。  忘れていた字を書くことを思い出し、さらに新しい字を習う。嬉しくて心がはずむ。十日も経つと、上手に書けたかまだまだか、自分でも少しは見分けられるようになってきた。  字を習うと、言葉も習うことになる。ほうがひととおりのひらがなをさらい終えると、加賀さまは、暦の字を書くことを教えてくださった。子《ね》とか末《ひつじ》とか、甲《きのえ》とか庚《かのえ》とか。お手本には暦も加わって、書きながら暦の読み方も教わり直した。  すると、加賀さまのお部屋に伺い、最初に交わす、「何か変わったこと、新しいことがあったか」というやりとりに加えて、「ほう、今日は何の日であるか」という問いが足されるようになった。  ほうは毎日お答えし、それを手習いの最初に書く。手習いのしまいには、「ほう」と自分の名を書いて終わる。  また暦が読めるようになったから、はっきりわかる。加賀さまのもとに伺うようになって、きっちり十五日目のことだ。手習いの終わりに「ほう」と書いてお見せしていたら、加賀さまがふいとおっしゃった。 「忘れていたがほう、鳥はどうした」と、お訊ねになった。「子犬のような声で鳴くという鳥だ。餌をまき続けているのだろう。姿を見ることはできたか」  ほうは嬉しくて、抑えようもなくばっと顔が明るくなった。確かに、その鳥を見た。つい数日前のことだ。飯粒をまいておくといろいろな鳥が来るが、そのなかに混じっていて、鳴き声を聞いたのだ。  が、ほうの方からそんなお話、無駄話をすることはできないと思っていたのだ。お訊ねがない限り、手習いのときに余計なおしゃべりはできない。  だから、勇んでお話しをした。その鳥の尾が長く、紅色の羽根が生えていること。キャンキャンという鳴き声は、どうやら仲間を呼ぶときの声らしく思われること。 「おまえはよく物を見ることができるのだな」と、加賀さまはおっしゃった。「その鳥の名はわかるか」  名前は知らない。誰かに訊いて教えてもらおうとは思うのだけれど、なにしろ、このごろでは誰もがほうを避けている。 「名前は……あの」  つい、言ってしまった。 「石野さまがいらっしゃれば、すぐにも教えてくださると思うのです。石野さまは作事方で、山の鳥や獣のことは、とてもよくご存知なんです」 「 ——— 石野」 「はい、御牢番の方です。いつもわたくしに親切にしてくださいました。でももう半月もお顔を見ていません。ご病気なのかもしれないです」  ほうがそう申し上げると、なぜかしら一瞬、加賀さまの平らなお顔が、さらにのっぺりとしたように見えた。いつも真っ直ぐな口元、いつもまぶたに隠れて動きのない瞳。でもその一時は、いつもに輪をかけて、お顔が止まってしまったように見えたのだ。  話はそこで半端に終わってしまい、ほうは下がった。  翌日、手習いに伺うと、加賀さまのお顔はやっぱり止まったようになったままだった。他の御牢番の方なら見逃したろう。でも、ほうにはちゃんとわかった。  心配になった。 「加賀さま、本日のご機嫌はいかがでございますか」  お決まりの口上を述べる。加賀さまも、いつもの問いかけをされる。 「ほう、今日は何か新しいこと、変わったことはあったか」  ほうを連れてきて、既に二見さまは隣の座敷へと下がっておられる。もしも二見さまがいらしたら、違ったろう。いや、口に出す寸前まで、ほう自身もこんなことを言うつもりはなかった。言葉が口から滑り出て、自分でも「あれれ」と思った。 「ございます」と、お答えした。心の臓がとくりと打った。 「ほう」と、加賀さまはわずかに眉を動かされた。呼ばれたのではない。今のは、加賀さまが驚かれたのだ。 「どういうことがあったのか」  とくり、とくりと胸の奥がはねる。一礼して、ほうは答えた。「加賀さまのお顔の色が、昨日と違ってございます。ほうにはそのように思われます」  加賀さまはほうの顔を見ておられる。 「私の顔色が違う」 「はい」 「どのように違うかな」 「昨日、鳥のお話をいたしました。鳥の名前のお話です」 「うむ、そうであったな」 「あのときから、加賀さまのお顔の色が沈まれたように、ほうは思います」  これはたいそう、不躾なもの言いなのだろう。叱られるかしら。掌に汗を感じる。 「ほうに手習いを教えてくだすった後ですから、お疲れになったのだと思いました。でも今日、こうしてご機嫌を申し上げると、やっぱり加賀さまのお顔の色が沈んでございます」  ああ、いよいよ叱られるかしら。唐紙が開いて、二見さまが飛んでこられて、あたしを引きずり出しておしまいになるかしら。 「ほうは、心配になっております」  加賀さまは何もおっしゃらない。それが怖くて、ほうはどんどんと続けた。 「ほうが何か、ぶ、無作法なことをいたしましたのでしょうか。それとも加賀さまは、お加減が悪いのでしょうか。もう先、料理番の人たちから、加賀さまはご飯を召し上がらないのだと聞いたこともあります。それはとても、お身体によくないことです。病のときにはなおさら、滋養のあるものを召し上がらないといけません。ほうはそう思います。琴江さまにそう教わりました」 言い募っても言い募っても、加賀さまからお言葉は返ってこない。ほうの声は裏返り、しかしだんだん小さくなっていく。 「ほうが良くないことをいたしまして、もしも加賀さまがお怒りで、お顔の色がすぐれないのでございましたなら、いくえにもおわび申し上げます。加賀さま、ほうは加賀さまのお身体が心配でございます ——— 」  言葉の最後は、かすれて消えてしまった。ほうは今にも泣きたくなってきた。ああ、こんなことはやっぱり口にしてはいけなかったのだ。  硬くかしこまり、額を畳に押しつけていると、加賀さまのお声が聞こえてきた。 「ほう」  今度は呼ばれたのだ。ほうはそのままの姿勢ではいと答えた。 「面《おもて》を上げなさい」  ほうは身体を起こした。顔を上げると、目尻から涙がこぼれかかりそうになるのがわかった。  さしでがましいことを申しました! 叫びそうになったそのとき、およそほうの小さな頭が想像し得なかったことを、加賀さまがなさった。  微笑んだのだ。  まばたきするほどの間のことだ。儚《はかな》い微笑みだ。見えたと思ったらもう消えていた。でも確かに間違いない。紅筆でさっとはいたように、加賀さまの真っ直ぐな口元が緩み、すぐに戻り、後には、微笑む前にはなかった温かな線が残った。 「この屋敷に来る前に」 「はい」 「おまえは、ここにおるこの加賀は、たいそう恐ろしい者だという噂を聞いていたであろう」  急なお訊ねで、ほうは思わずまばたきをした。その拍子に涙が一粒転げ出た。鼻の脇を伝って流れ、小鼻のところで止まった。 「人ではない、あれは鬼だと聞いてはおらなかったか」  はいと言ったら、失礼になる。きっと二見さまにも叱られる。この場からは下がっても、お隣で耳をそばだてておられるのだから。  加賀さまは返事を急かさなかった。かわりに、ご自分でうなずいて続けた。 「なるほど私は鬼だ。人の姿をしてはおるが、人ではない」  ほうは大きく目を見開いて、あらためて加賀さまのお姿を見つめた。と、また刹那、加賀さまの目元と口元に、笑みの微風がかすめて消えた。 「人ではない身である故に、私は身体を損ねることはない。加減が悪いということもない」 「でも、加賀さまは病にかかっておられるのでございましょう?」 「そうさな」と応じて、軽く息を吐く。「私は″鬼 ″という病にかかっておるのだ」  鬼という病と、ほうは小さく呟いた。加賀さまはもう一度、今度は深くうなずいた。 「だから、おまえが私の身を案じることはない」 「それでも、ご飯は召し上がってください。鬼もおなかが空きます。だから鬼もいろいろなものを食べるのでしょう? 昔話のなかに出てきます」 「そうだな。そうしよう」  机について、墨をすりなさいとおっしゃった。ほうは進み出て墨を取り上げた。  墨をする音が、ほうは好きだ。手を動かしているうちに、心の臓も落ち着いてきた。小鼻に直まっていた涙は、吸い込まれて消えてしまったようだ。 「昨日から、私は少し考え事をしていたのだよ」と、加賀さまはおっしゃった。ほうが手を止めそうになると、 「そのまま続けなさい」 「はい」 「何を考えていたかというと、鳥や獣の名をよく知っているという、石野という者のことだ」 「石野さまですか」 「おまえは親しくしていたのだね」 「親しく —— 」手が止まった。「石野さまは、わたくしがわからないことを、何でも教えてくださったのです」  するすると墨をする。濃くなってゆく。香りも強くなる。 「おまえと、よく話をしたのだね」 「はい」 「山の鳥や、獣や、花や木や、いろいろな話をしたのだね」 「はい、たくさん」思い出したから、言った。 「石野さまには、わたくしと同じくらいの歳の、妹がおられるのだそうです」 「そうか」 「いつもいつも、ほうに、とても親切にしてくださいました。ないしょで、お菓子をくださることもありました」  いけない、言い過ぎた。あとで石野さまが、二見さまに叱られる。 「ほう」 「はい」 「おまえにはわからぬであろうし、教えられたこともないであろう。だが世の中には様々な決まりごとがある。それはこの丸海藩にもある」 「はい」 「何か変わったことが起こると、それが起こったがために、決まりが破れて、誰かがその破れたところを直さねばならぬことがある。わかるか」 「はい」  繕いもののことをおっしゃっているのだろうと、ほうは思った。 「おまえに親切だったその石野という者は、おそらく、この屋敷の破れ目を直すために、他所へ出向いているのだろう。だからこの屋敷からいなくなった」  墨はもう充分に濃くなった。でもほうは手を休めずにすり続けた。そうしていないと、加賀さまがお話をやめてしまうような気がしたのだ。 「石野はもう、戻っては来ぬ」  そうなのか。加賀さまはどうしてご存知なのだろう。こんなにきっぱりおっしゃるなんて。 「 —— はい」 「おまえに知らされていないだけで、既に代わりの者が来ているのやもしれぬ。石野だけでなく、この屋敷に詰めている人びとは、時々入れ替わっておるのではないか」  加賀さまのおっしゃるとおりだった。とりわけこの半月ほどは、人の出入りが頻繁になっている。皆がほうを避けるので、真っ直ぐな話は聞けず、ただ聞き囓るばかりだが、誰かしらが具合が悪くなったとか、もう涸滝には来られないとか、そんな話が耳に入る。 「小寺さまが」 「小寺」 「はい。石野さまとご一緒に、わたくしにいろいろ教えてくださる御牢番の方です」 「うむ」 「石野さまのことは、もう訊くなとおっしゃいます」 「うむ」 「わたくしが何かお訊ねしようとすると、すぐどこかへ行ってしまわれます」  もうこれ以上はすっても仕方がない。ほうは墨を置き、懐紙で指を拭いて、顔を上げた。  加賀さまは、最初のころのように、唐紙の方を向いておられた。 「わたくしは阿呆のほうですので、小寺さまにはよくお叱りを受けました。でもこのごろは、叱りもせずに行ってしまわれます」 「他の者どもはどうだ」 「他の方々、ですか」 「やはり、おまえから遠ざかるか」  正直にお答えした。「はい」 「寂しいか」 「石野さまがおられないのは寂しいです」 「皆、鬼が怖いのだろう」  ほうは首をかしげた。鬼が怖いのはわかる。加賀さまは鬼だとおっしゃる。でもほうは鬼ではないけれど ——— 「鬼を病んでいる私に手習いを習っているおまえにも、鬼が感《う》染《つ》るのではないかと怖がっておるのだ」  加賀さまはおっしゃって、ようやくほうの方に向き直った。 「おまえは怖いか」 「加賀さまがですか」  目を閉じて、うなずかれた。 「先《せん》には恐ろしゅうございました」 「そうか」 「今は ——— あの」 この気持ちを、上手く言えない。 「手習いが楽しゅうございます」 「そうか」  加賀さまのお顔の色は、依然、沈んだままだった。このやりとりを始める前よりも、さらに暗くなったようだった。ほうは胸がちくりと痛んだ。 「申し訳ございません」  机から離れてぺたりと平伏した。 「暦の字は書けるようになったな」 「はい」 「今日からは、新しい字をさらおう」 「はい。どんな字でございましょう」 「おまえはどの字を習いたい」  考えてみたこともなかった。が、ほうの心はすぐ決まった。 「うみ、でございます」  琴江さまと並んで、井上家の小高いお庭から眺めた海。おあんさんと一緒に日高山神社の境内から見おろした海。丸海の海だ。 「では、海と山にしよう。まず、ひらがなで書きなさい」 「はい」  ほうは筆を取った。ひらがなで書く。加賀さまに見ていただいて、二度書き直した。それから加賀さまが筆を取り、お手本を書いてくださった。 「これが海という字だ。これが山という字だ」  静かなお稽古の時が流れた。  ほうが下がる時刻が来た。二見さまがお顔をのぞかせる。ほうは、今日書いたものをきれいに畳《たた》んで帯のあいだに入れる。 「ほう」 「はい」  二見さまには目をやらず、ただほうだけを見て、加賀さまはおっしゃった。 「″鬼 ″は私の身の内にある病だ。おまえには感染らぬ。鬼はどこへも行かぬ。だからおまえは怖がらずともよい」 「はい」 「おまえは、鬼もものを食べると言った。昔話のなかの鬼は、何を食べているか知っておるか」  ほうが返事をする前に、加賀さまはおっしゃった。 「人だ。人をとって喰らう」  ほうの下がるのを待っておられる二見さまの横顔が、ぐっと硬い線を描いた。  加賀さまの表情は動かない。でも、今のお顔は平らなのではない。止まっているのでもない。ほうは一心に加賀さまを見つめて、「凪《な》いでいる」という言葉に思い至った。波もなくうねりも静まり、一面に青々と広がる朝の静かな海を指して、いつかおあんさんが言っていた言葉だ。  そして加賀さまは、手習いのときと同じ静かな口調で、こう続けた。 「しかしほう、鬼はおまえを取って喰らうことはない。おまえは阿呆の|ほ《 ヽ》う《 ヽ》で、人となるには未だ足りぬ者であるが故に」 はい ——— と、ほうは手をついた。 「明日、またこの続きを教えよう。下がりなさい」  ほうは退出し、唐紙が閉じた。二見さまについて廊下を戻りながら、加賀さまがおっしゃったことを、ほうは懸命に考えていた。  二見さまは何もおっしゃらなかった。  強い夕立は毎日のこと、それに混じって雷鳴も、遠く近く轟くのが丸海の夏だ。山林に雷が落ちることも珍しくはない。  が、この日の雷は格別だった。  まだ七ツにならぬというのに、出し抜けに夏の日差しが雲に覆われ、明るかった空が蓋をされたように暗くなり、雨の気配はしても雨粒はなく、頭の真上のあたりでごろごろと鳴り始めた。見上げれば、雲の輪郭をくっきりと浮かび上がらせて、白金色《しろがねいろ》の稲妻が走り抜ける。  おあんさんに教えてもらった。こういう雷は近くて怖い。空雷《からかみなり》というのだ。ほうは大急ぎで干し物をしまいにかかった。  御牢番の方たちが足音を立てて歩き回り、お屋敷の雨戸を閉ててゆく。空を見上げて不安げな眼差しを投げる、その顔その目を、ぴかりと走る稲妻が鋭く射る。  空が破けたかと思うような轟《とどろ》き。思わず、ほうは両手で耳を覆った。 「雨が来るぞ。その前に早く片付けんか」  奥から小寺さまが走り出てきて、裏庭に降りる縁側のところでほうに大きな声を出した。 「はい、ただいま!」  走り出したところにまた轟音。天から叱責されているかのようだ。ついで、温い感触の雨粒が、ぽたりとほうの頬を打った。  辛くも干し物をしまい終えたところで、投げ槍のような雨がどっと降り注ぎ始めた。ほうは屋敷の内まで駆け戻ることができず、頭から小屋へと飛び込んだ。  どすん、と地面が揺れた。その揺れはさざなみのようにしばらくのあいだ残っていた。ほうは粗末な小屋の、貧弱な柱につかまった。  ばりばりばり。耳の奥まで揺さぶられるような、胃の腑の底まで震えるような轟き。  板戸の隙間から、おそるおそる空を見上げる。激しい雨が降りかかり、たちまちのうちにほうの小さな顔を濡らす。生暖かい雨は、身体に触れると冷えてゆく。  眩しいほどの稲妻が走った。  ほうは息を呑んだ。大空の真ん中に、白金の光の筋が浮かび上がる。雲を引き裂いて三角の、何とおかしな形だろう。あれは、あれはまるで ———  獣《 ヽ》の《 ヽ》口《 ヽ》だ《 ヽ》。獣が牙を剥いて吠え立てている。丸海の海に、山に、お城に、町に向かって。 「こりゃあまた、何ということだ」  気がつくと、小寺さまがまた縁側にいて、空を仰いで口を開けていた。お顔ばかりか胸のあたりまでも雨に濡れている。  再び稲妻。ほうはとっさに目をつぶった。目の底が白くなり、そこに小寺さまが黒い影の形になって残った。  耳を砕かんばかりの雷の轟きに、思わず身を縮めしゃがんでしまう。雨は地を打ち、跳ね返った雨足に、地は沸き立つように見える。早くも幾筋かの流れができて、裏庭を早瀬が駆け巡る。  小寺さまは中腰になり、雨戸にしがみつくような格好をしている。おろおろと泳ぐ目が、ふとほうの目をとらえた。 「おまえ……」  続いて、何かおっしゃった。その口の動きは見えたけれど、言葉は聞こえなかった。雨の音さえかき消してしまう雷の鳴り轟き。  廊下をこちらへ、どなたかが急ぎ足でやって来る。見張りの御牢番だ。小寺さまに何かを囁き、小寺さまも何かを言い返す。ほうの方を指さした。 「おい、おまえ! 早く屋敷の内へ入れ」  ほうは小屋の戸口にうずくまっていた。見張りの御牢番が、口元に手をあてて呼びかけてくる。「そんな小屋など、もしも雷が落ちたら木っ端微塵だ。早くこっちへ来んか!」  ばりばりばりと続けざまの雷に、呼びかけは切れ切れにしか聞こえない。雨足の強さに、ほうは踏み出すことができない。  小寺さまが手を振り足を踏み、見張りの御牢番にまた何か言っている。見張りの御牢番が何度も首を横に振る。小寺さまが言い張る。 「嫌だ、ごめんこうむる!」  そこだけ聞き取れた。と、視界が真っ白な光で満たされる。またぞろ地面が揺れて、ざわつく感覚が膝まで駆けのぼってくる。  えいとばかりに、見張りの御牢番が庭に飛び降りた。くくった袴の裾に、泥水が跳ね上がる。 「早く、こっちへ来い!」  片手を額にかざして雨を遮り、走って庭を横切ってくる。ほうはそちらへ行こうとする。雨の槍、礫がほうを追い返す。  白い稲妻が天から降ってくる。  白光のなかに、ほうは見た。ほうを手招きし、差し伸べられた腕を。光る雨の矢をかいくぐり、指の爪の形まではっきりと目に焼きついた。  次の瞬間、その景色がはじけた。ひとかたまりの、硬く大きな轟きに、天がふさがり地が埋め尽くされ、耳が打たれて遠くなった。きいんと金気《かなけ》の響きがした。  足がぴいんと痺れた。地べたが揺れる。  誰かに手ひどく突き飛ばされたように、ほうは後ろにすっ飛んだ。小屋のなかほどまで飛ばされて、畳んで積み上げておいた夜具に、背中からぶつかった。  何かが焦げている。おかしな匂いがする。雨が焦げるなんて、どこにどうして、どんな火があるというのだ?  つい先ほど、ほうに向かって差し伸べていた腕をそのまま宙に突き上げて、あの御牢番が倒れていた。うつ伏せに倒れた背中に雨が降り注ぐ。月代の上を雨が走る。  御牢番の着物も、袴も、袖をくくった棒までもが、真っ黒に焼けていた。ぷすりぷすりと燻っている。  魂消《たまげ》るような叫び声があがった。ほうは自分の声だと思った。でも違った。ほうの声は縮み上がり、硬く握って口元を押さえた拳の奥に引っ込んでいる。  叫んでいるのは小寺さまだった。繰り返し、繰り返し、意味の聞き取れない喚き声。叫ぶそばから、雷と雨の咆哮《ほうこう》に呑みこまれる。  ぎしり、ぎしり、と音がする。そのときやっと、小屋が傾いてしまっていることに、ほうは気がついた。屋根のこけら板が一枚はずれて、倒れ伏した御牢番とほうのあいだに、雨粒を撒き散らしながら落ちてきた。         探流      一  井上啓一郎は、口元までのぼってきたあくびを噛み殺しながら、今しがた井上家に着いたばかりの木箱をしみじみと眺めた。  一尺四方ほどの小さな木箱だが、厳重に梱包してある。縄の結び目や箱の横腹に潮のかかったらしい跡があるが、この分なら中身の書物に大事はないだろう。  荷解きをするには小刀と、釘抜きも要りそうだ。立ち上がりかけて、つい、ふらりとした。あくびもまたこみあげてくる。  啓一郎は疲れていた。昨夜は一睡もしていない。そもそもそれ以前から、柵屋敷への往診と、ここを訪れる城下の者たちの診察に追われて、もう十日ほど、まともに着替えて床に入っていない状態が続いていた。  木箱の中身は、長崎から取り寄せた蘭学と医術の書物である。伝手を頼り、大枚の金を払ってようやく手に入れたものだ。はるばると海を渡り、これらの書物はやって来た。啓一郎は待ちかねていた。  だからこそ、先ほど金居には、少しでも横になって休むようきつく説かれたばかりだが、その前に、ざっとでもよいから中身を検めたいと思った。が、いざ木箱を前に、この静かな診察室に座ると、急にぐったりと身体の力が抜けてきた。  広縁からさしかける夏の陽を簾でさえぎり、診察室のなかは薄暗い。ほのかな風が頬をなでる。昼寝はきっと心地よいだろう。  つい二日も前の午《ひる》ごろまでは、ここは患者たちでごった返していた。先《せん》からずっと啓一郎が診ている患者たちはごくわずかで、残りは、この半月ほどでにわかに病みついた藩士たちやその家族、そして町場の者たちばかりであった。  丸海の匙七家の医師たちは、筆頭の杉田家を除いては、藩士たちだけでなく、城下の者たちの診察もする。とりわけ、ゆくゆくそれぞれの家の当主となるが、今は部屋住みの身の啓一郎と同じような若い医師たちには、そちらの方こそが大事な役目だ。こうした医療の充実は畠山公の藩政の要でもあり、おろそかにはできない勤めである。  しかし、このところのにわか病の流行に、そうした医師たち皆が忙殺され始めた。日ごとに増えてゆく病人たちを、各匙家のささやかな診察室だけでは受け入れきれなくなってきた。そこでとうとう、町役所の采配で、堀外の宝幸寺《ほうこうじ》内に養生所が設けられ、匙家の医師たちはそこに詰めることになった。やっと一昨日からのことだ。  それにより、匙家の診察室には静けさが戻ってきた。が、それは、喧騒と周章狼狽と恐怖が、匙家からにわかづくりの養生所の方に移されたというだけのことだ。一歩そこに踏み込めば、病症を訴える幾多の怯えた眼差しが待ち受けている。板敷きの病室はたちまち一杯になり、廊下にまで人が寝ている有様だ。病人たちとその身内の者どもは、ひとところに束ね集められたことで安堵するどころか、かえって互いの病状を見比べて不安を募らせているようだった。  啓一郎たち医師は、最初のうちこそ交代で診察にあたる旨申し合わせをしたが、いざ養生所ができてみれば、とてもそんな悠長なことは言っていられないとわかった。新しい病人はひきもきらぬし、治療を受けて快方に向かう者は数えるほどもいない。寝食どころか厠に立つことさえも忘れて治療をしても、まだ手が足らぬ。  病人の多くは、啓一郎の診る限り、ありふれた夏風邪や食あたり、夏負けのように見える。海と山に囲まれた丸海の夏は、明媚だが過酷な季節だ。昼夜の気温差は激しく、日差しは焼け付くようで、そのうえに湿気が多い。夕には瀬戸のべた凪で風がぴたりと止まるので、夕立が来ない日にはじっとしているだけで汗がにじみ出るほどに暑苦しい。  だから必然的に、毎年、夏には多くの病人が出る。単純に、暑さが身に応えるからだ。魚や貝類を大いに食するから、食あたりも増える。だからこそ、丸海の民はそれぞれに、この辛い夏のやり過ごし方を心得ていた。医師に頼らず乗り切る知恵も持ち合わせているはずだった。  しかし、この夏は勝手が違う。  例年のとおり、夏風邪だ、暑気あたりだと診立てても、病人は誰も納得しない。恐ろしい流行《はやり》病《やまい》に違いないと、頭から思い込んでいる。啓一郎が事を分けて細かく言い聞かせても、違います、違いますと頑《かたくな》になる。よくわからない未知の病のことを、誰も彼もが言い立ててやまぬ。身につけているはずの、丸海の夏を乗り切る知恵など、省みもせずどこかに投げ捨ててしまって。  一方で、コロリの噂も飛び交っている。その出所はひとつではないが、発端となったのは西番小屋頭の嘉介という男の死だ。啓一郎はこの男を診ておらず、香坂家の泉《いずみ》が看取ったという噂だけは耳にしていた。しかし泉に聞き合わせてみれば、嘉介が死んだのはもう二月《ふたつき》も前のことだという。その後は、少なくとも匙家がコロリと診立てる患者は出ていないにもかかわらず、噂だけは散発的に起こってやまないのだった。   ——— それもこれも。  今度こそこらえきれず、大きなあくびを漏らしながら、啓一郎はぼんやりと考えた。   ——— 涸滝のあのお方の所《せ》為《い》だと。  藩士であろうと、塔屋の飯炊きだろうと、身分の上下、生業《なりわい》にかかわらず、今の丸海に住まう者たちは、等し並みに恐れてやまぬ。あの加賀殿を。  啓一郎は木箱に手を置く。この中に収められている南蛮渡来の書物には、医術や薬種についての新しい知識が書かれているはずだ。ひもとけば、啓一郎にも新たな知見が生まれ、よりよく病人を癒《いや》すよすがになるはずだ。  しかし、どんな優れた新しい医術でも、ひたすらな妄信を解くすべにはならぬ。  舶来の書物は、翻訳と写本作りに時を要する。啓一郎がこれらを求めたのは、もう二年も前のことだ。あのころの自分を振り返り、啓一郎は苦笑というより冷笑が湧いてくるのを感じた。無論、己に対する冷ややかな揶《や》揄《ゆ》の笑いだ。井上啓一郎よ。二年前には、よもや自分がこのような間《はぎま》に立たされるとは思ってもいなかったではないか。  物事にはすべて理がある。もとより医術もその理に根を持つものだ。人の身体の成り立ち。病の起こる仕組み。それらを知り得れば、病は治せる。病人は癒える。力強い確信が向学心を生み、啓一郎を駆り立ててきた。  しかし今、この身を取り囲む丸海の有様は何だ。知識も理も、医師の信念も確信も、破れ網さながらに成り下がった。  しかもそれは、他でもない、啓一郎たちが自らの手で招いた結果なのである。加賀殿お預かりが決まったときから、啓一郎たち —— 匙家を含む丸海の為政者たちは、城下の者どもが、今のこの情けない有様のように、加賀殿を恐れ憚《はばか》ることを望んできたのだ。  だからこそ、表向きは加賀殿について噂することを厳しく禁じ、咎めてきた。そうやって封殺すればするほど、城下の者たちが好奇と不安の念を募らせるとわかっていたからこそ。  巧妙な煽動である。  それしか道がなかったという言い訳の、何と空しく響くことだろう。  木箱を開け、待望の書物に目を通すだけの気力が湧いてこないのは、疲労のせいではない。私は恥じているのだ。啓一郎は身に泌みて悟った。私にはもう、これらの清新な医の知識に触れ、それを我が物とする資格はない。  ふと、宇佐の顔が目に浮かんだ。  引手見習いの娘だ。|ほ《 ヽ》う《 ヽ》を涸滝の女中へと差し出させたとき以来、顔を見てもいない。しばしばこの家に出入し、啓一郎とも琴江とも親しく交わっていたあの明るく働き者の若い娘は、今どうしているだろう。  己の内に沸き立つ誇りと自信の余りに、啓一郎は何度となく宇佐に語ったものだ。物事の理の何たるかを。これからの医術を。旧き仕来りを置き去り、歩むべき新しい人の道を。啓一郎の語る言葉を、宇佐がひとつひとつ吸い込んでゆくのを目にすることで、啓一郎もまた、己の知見を確認することができた。心浮き立つひと時だった。  いわば啓一郎は、宇佐の目を開いたのである。  自分のために。その目で、この井上啓一郎を仰いでもらいたいという欲のために。  そうしておいて、進んで宇佐を裏切った。  理の一切を忘れて、すべてを呑み込んでくれと。一度開いた目を閉じてくれと。  そうしなければ、あまりにも唐突に過ぎた琴江の横死を、覆い隠すことができなかったから。  琴江の死の以前の啓一郎は、よく宇佐に語ったものだ。畠山公であれ誰であれ、そうさ上様であっても、物事の理を変えることはできないのだと。真理はひとつだ。宇佐、わかるか。今に、すべての民草《たみくさ》にもそれを知らしめる時代が来る。そのとききっと、世の中は変わるだろう、と。  その同じ舌で、いったいどんな顔をして、私は宇佐に頼んだのか。  琴江の死の真相を明らかにすれば、丸海藩が危うくなる。だから、おまえは何も知らなかった、何も考えずともいいと。  ひと握りの為政者が、己の都合のいいように世の中を解釈し、動かす時代は間もなく終わる。いつか、すべての者が世の真理を知るときがやってくる。それを待望し、瞳を輝かせて未来を語るときの啓一郎は、一人の若い医師だった。  しかし、宇佐に頭を下げて頼んだあのときの啓一郎は、丸海藩の匙井上家の跡取り、真理よりも理よりも、藩と家の安泰のみを想う、ただのありふれた生身の男であった。  それでも宇佐はうなずいてくれたのだ。ほうを差し出させたときも、あんなにも辛そうな顔をして、泣き出しそうになりながらも、決して井上家に逆らうことはなかった。  その純情と忠信を、啓一郎はいいように利用した。  父舷洲は、親としても師としても、啓一郎に厳しい人ではなかった。しかし一度だけ、そう、宇佐がしきりと出入りするようになったころ、いつになく険しい顔で諫められたことがある。   ——— 地に根を張らぬ知の言葉は、いずれおまえに仇《あだ》をなすぞ。傷つくのがおまえ自身であるならば、それもまた教訓として生きようが、他の者を巻き込むのはやめなさい。  啓一郎には、父が何を怒っているのかさっぱりわからなかったのだ。今ならわかる。嫌というほどに。  いかにも、啓一郎の知は地に根をおろしていなかった。ひとたび浮世の風に吹かれれば、何処《いずこ》ともなく飛び去ってしまうほどに、それはか弱いものだった。  啓一郎は頭を下げ、深くうなだれた。木箱に額をつけて、目を閉じた。考えれば考えるほどにいたたまれず、身が焦げるような思いがした。  そのまま、つい、闇に呑まれるようにして眠ったらしい。ほんの一時《いっとき》のことだ。廊下の向こうから、父と金居の声が聞こえてきて、はっと我に返った。  父は今朝早々に登城した。藩主のお脈診は筆頭杉田家の役割である。が、井上家は匙のなかでも古株であることと、先代藩主側隠公の治政の折には、筆頭をさしおいて典医を務めていた実績のあること、代々側用人を務めている菊池家と縁戚にあること、かてて加えて、町場の者たちにさえ「叱られ舷洲」とあだ名され親しまれる舷洲のおおらかな人柄を見込まれたらしく、本来の立場を超えて、父の登城の機会は多い。それが、加賀殿お預かりが決まってからは、さらに頻繁になった。啓一郎の知らないところで、密かにお召しがある場合もあるようだ。  今では啓一郎も悟っている。父舷洲は、実は加賀殿お預かりの大事に深く関わり、殿の命を受けて、水面下でひっそりと立ち働いているのだ。父の背負っている役割は、匙七家のうちのひとつという立場のそれを超えて、重く大切なものなのだと。  お帰りになったのか。啓一郎は眠気にふさがれた頭でしばらく呆《ぼう》と座っていたが、養生所の様子を報告せねばならぬと思い立ち、身体を起こした。日暮れにはまたあちらに戻らねばならぬから、父と話をするなら今のうちしかない。  舷洲の居室では、金居の声がしていた。啓一郎は訪《おと》ないの声をかけ、許しを得て顔をのぞかせた。父は金居の手伝いで着替えをしていた。  啓一郎の顔を見て、金居があわてたように言った。「おお若先生、少しはお休みになられましたか」 「うん。だいぶ持ち直したよ」 「それでもお顔の色が冴えません。何かお召し上がりください。何がよろしゅうございますか」  ああ、それならと、こざっぱりと着流し姿になった舷洲が言った。「私も一緒に食事をしよう。湯漬けでかまわぬ」  金居は気色ばんで、もっと滋養のあるものを召し上がらねばいけませんと言い張り、急ぎ足で奥へと戻っていった。  父子は二人になった。父の部屋には書物が溢れている。琴江がよく、お父さまは、お母さま亡き後、書物とばかり添い寝をしておられますねと笑っていたものだ。兄妹の母である妻を失って以来、舷洲は、何度か持ちかけられた後添えの話をすべて断ってきた。 「父上、お疲れのご様子ですが」 「私より、おまえの方がやつれていると思うがな」舷洲は労《いた》わるように微笑んだ。「養生所は、かなり大変な様子になっていると聞いた。城内でもその話で持ちきりだ」  啓一郎はうなずいた。「我々が思い描いていた以上の惨状です」  啓一郎はとつとつと話した。そのあいだに、金居としずが来て手早く膳をしつらえた。湯漬けの他に、卵焼きや焙《あぶ》った干魚、酢の物など、疲れた者の胃の腑に優しい食べ物が並んでいる。  父子はしずの給仕で食事をした。啓一郎は、食べ始めると、ようやく自分がどれほど空腹であったか思い出した。同時に、彼らの好みを知り尽くしているしずがつくってくれた食べ物が、少しも美味しくないことにも気がついた。腹は満ちても、その分、胸の内の空漠とした思いはかえって膨らんでゆくようだ。  二人が箸を置き、しずが熱い煎茶をいれると、舷洲は言った。 「少しばかり啓一郎と話がある。しばらく、来客があっても断ってくれ」  かしこまりましたと手をついて、しずは下がった。  舷洲が尋ねた。「養生所の賄《まかな》いはどのようにしている?」 「おおむね、食あたりやコロリの際と同じように計らっております。重篤《じゅうとく》の者には重湯を、愁訴の軽い者には五分粥や三分粥を。泊り込んでいる付き添いの者たちは、助け合って炊き出しをしております」  舷洲はうなずく。「下肥《しもごえ》の処理も分けておるな」 「はい。土中に埋め、払い下げにせぬよう、固く言いつけております。病人に与える帷子《かたびら》も、重篤の者の汗をとった物は、洗わずに焼き捨てております」  答えつつ、自分の顔に隠しようもなく皮肉の色が浮かぶのを感じた。舷洲もそれを見逃さなかった。 「厳重な処置をすることは、けっして無駄ではないぞ。病人たちが流行病だと思い込んでいる以上、流行病を押さえ込む手当てをして見せてやることも治療のうちだ」  啓一郎は黙って目を伏せた。 「病人には塔屋の者も多いと聞いたが」 「はい。塔屋は、寝起きを共にしている大きなひと家族のようなものですから、感《う》染《つ》り易いのでしょう。それは柵屋敷も同じです」 「このまま病が広がるようならば、柵屋敷のなかにも病者のための家を設けねばならぬだろう。今、梶原殿が奔走しておられる」  梶原の姓を聞いて、啓一郎はちくりと胸が痛むのを感じた。それを抑えて言った。 「本来、この病の出所は柵屋敷です。もっと早く、そちらの手を打つべきでした」 「それはどうかな」舷洲は軽く首を振った。「堀内と堀外と、どちらが先とも言い難い。人の口に戸を立てられぬのは、藩士も領民も同じことだ」 「大本《おおもと》は一緒ですからね。涸滝です」  覚えず、乱暴な言い捨てになった。 「腹を立てているようだな」 「そうではありません」 「いや、怒っている。誰を怒っているのだ。自分自身か」  啓一郎はまた沈黙した。 「すべて、あらかじめ覚悟の上のことであったはずだ、啓一郎」  父の言葉にも答えられなかった。  舷洲は、ほとんど唸るような重いため息を吐いた。下を向いている息子の顔を見つめながら言葉を続けた。 「今がいちばんのこらえどころだ。ここを乗り切れば、城下も落ち着く。どんな病にも終わりはあるものだ」  啓一郎はきっと顔を上げた。「しかし、だからといって、終わるまでの苦しみが軽くなるわけではありません」  父と目が合った。舷洲はまた、啓一郎を労わるような表情を浮かべている。しかし啓一郎は父の眼差しを受け、その顔をまっこうに見て、ああ、老《ふ》けられたと思った。父上も疲れているのだ。その思いが胸に刺さった。 「本当に、これしか道はなかったのでしょうか」  すがるような問いかけが口から出た。 「加賀殿お預かりが避けようのない課役となったとき、父上は私におっしゃいました。いかに丸海が江戸から遠い鄙《ひな》の地であるとしても、あれだけの大罪を犯して流されてくる加賀殿が、その御身と共に、まつわりつく悪い風聞をも運んでこられるのを、止めることはできぬと」  舷洲は深くうなずく。 「そしてこうもおっしゃった。江戸で鬼悪霊と恐れられた加賀殿は、この丸海でも同じように恐れられるだろう。丸海の土地は狭く、領民たちは純朴であるが故に、その恐れ騒ぐ様は、あるいは、江戸の市民たちのそれをも上回ることになるだろう、と」 「それは私一人の考えではなく、殿のお考えでもあった」  今さら言われるまでもなく、啓一郎も承知している。 「江戸市中では、加賀殿を恐れはしても、一方では落書《らくしょ》をするなり歌を作るなり草紙《そうし》を出すなりして、その恐ろしさを、民事が自ら薄めてやり過ごす方便を持っていました。それが丸海では勝手が違う。現に、加賀殿の悪気のせいで病が起こるなどという噂は、江戸ではまったく流布しなかったそうではありませんか。これは丸海だけの騒動です」 「それは何故《なにゆえ》だと思う? 丸海の民が、江戸の民よりも無知であるからだろうか」 「おそらくは」 「いや、違う」舷洲は素早く応じた。「風土と季節に所以《ゆえん》するところだ。丸海の夏は、もともと流行病の多い夏なのだから」 「では江戸では ——— 」 「加賀殿が江戸に留まり、ご沙汰を待っている間、市中では加賀殿の悪気による火事が起こるという風聞が飛んだ。加賀殿が江戸の町を呪い、焼き払おうと念じておられるのだと、市民たちはたいそう恐れたそうだ」  啓一郎は驚いた。「それは ——— そんな噂が? 父上はどうしてご存知なのです?」 「森元《もりもと》殿に伺った」  江戸留守居役の森元|総右衛門《そうえもん》と舷洲は、青年時代から昵懇《じっこん》の間柄である。また啓一郎の亡き母、舷洲の妻は、この森元家の分家筋の出であった。  丸海藩は小藩であるから、藩士たちの家々の元をたどってゆくと、ほとんどの場合どこかで繋がりあってしまう。縁戚姻戚養子分家と入り乱れ、そこに家格や役職による上下関係が絡みついて、藩内の勢力地図をいたずらに複雑にしている。軽輩の藩士が思いがけず重臣の家系に繋がっていたり、重臣の家に商家や潮見の血が濃く流れていたりして、面倒の種になることもある。  とはいえ、井上と森元の家の付き合いは円滑で親しく、加賀殿お預かりの件が起こる以前からも舷洲と森元総右衛門は頻繁に音信し、森元は江戸の、舷洲は丸海の消息を報せあっていた。啓一郎もそれはよく知っている。 「江戸の町にはもともと火事が多いそうだ。大火の災いも、何度も被っている。それだけにこの噂には幕閣の諸氏も気を尖らせ、風聞をまいたものを厳罰に処するなどして、初手からきつく取り締まった。それだから、丸海にまで届くほどには広がらぬうちに消滅したのだろう」  つまり、同じことの繰り返しだよと、舷洲は言った。 「江戸の最大の災厄は火事だ。だから加賀殿の悪気が火事を起こすと噂された。丸海の夏には流行病が多い。だから、加賀殿の悪気は病を呼ぶと噂される。もともとその地の災いであるものが、加賀殿がおられることによって、加賀殿の所為にされるのだ。人の心の働きは、何処でも変わらぬということだ」  ああ、それと — と、思いついたように言い足した。「丸海の場合は、加賀殿の幽閉された場所が、涸滝の屋敷であったという理由も大きいだろう。あの屋敷には、先《せん》から病がまとわりついていたからな」  啓一郎は重く考えに沈んだ。なるほど父の言うとおりだ。例年と変わらぬ食あたりや夏負けが、今年に限って未知の流行病と恐れられる。きっと江戸でも、例年と同じ頻度で火事が起こるのに、そして調べてみればそれは何ら不可解なところのないただの火事であるのに、加賀殿がおられたことで、加賀殿の祟り、悪気の招いたことだと噂されたに違いない。 「今度のことで、江戸とこの丸海で違っているのは、先ほどおまえも言っていたとおり、素朴な丸海の民には、落書や歌で加賀殿の恐ろしさを酒《 ヽ》落《 ヽ》の《 ヽ》め《 ヽ》す《 ヽ》だけの余裕がないということだろう。だからまともに風を受け、我々は皆厳しい思いを強いられている」  しかし、それはとうにわかっていたことだと、言い聞かせるように言う。啓一郎は激しくうなずく。 「わかってました。父上と話し合い、私も心得ていたはずでした。しかしいざこの惨状を目の当たりにして、私は ——— 」 「おまえの心が乱れるのはわかる」舷洲は穏やかに宥める。「しかし他に術《すべ》はない」 「本当にそうだったのでしょうか。他の手立てがなかったのでしょうか。加賀殿をお迎えする前に、我ら匙家の医師が先に立ち、加賀殿の悪気や祟りなどはただの風聞、生身の人にそのような力はない、病は我ら匙が癒し、丸海の治安は畠山家が守るのだから、何ひとつ恐れることなどないと、教え諭すこともできたのではありますまいか」  不意に、舷洲の目に強い非難の光が宿った。 「では私が問おう。啓一郎、おまえはこの期に及んでもまだそんなことができ得ると本気で思っているのか。あの宇佐という娘一人に対してさえ、その立派な志を通すことのできなかったおまえが」  啓一郎は水をかけられたように頭が冷えて、言葉を失った。 「今さら問いかけなくとも、おまえはわかっている。重々、身に沁みているのだろう。それは私にもよく見える」と、舷洲は続けた。「ただ、大勢の怯え恐れる病人たちを目の当たりにして、頭ではわかっていたはずのことが見えなくなり、苦しんでいるのだ。おまえは同じところでぐるぐると足踏みをしている。そうではないか」  啓一郎は呻いた。「宇佐のことは ——— 琴江の死が ——— なければ」  非情なほどにきっぱりと、舷洲はその苦しい呟きを退けた。 「琴江のことは不幸だった。だが啓一郎、琴江の身に起こったようなことは、必ず起きたろう。それが琴江であり、梶原の美祢殿であったのは、偶《たま》々《たま》だ。梶原の美祢があのようなことを思い立たなくとも、他の誰かが思い立ち、悪事を成したろう。加賀殿という格好の言い訳に隠れることのできる、千載一遇の好機をとらえて」  そしてそれも、琴江の死と同じように覆い隠されねばならなかったろう。 「おまえの不幸は、それが琴江の身に起こり、宇佐というあの引手の娘を巻き込んでしまったことだ。ただそれだけだ」  ひとしきり、沈黙が流れた。この静けさは重苦しく悲痛だったが、そのなかにはもう、先ほどまでの啓一郎の苦しい堂々巡りの足音は聞こえない。彼は足を止めたのだ。 「あのとき父上は、そうした丸海の民の加賀殿へのやみくもな恐れと嫌悪を、周章狼狽によって起こるであろう騒動を、避けることができない以上は、それを逆手に取って上《う》手《ま》く利用するしか手立てがないとおっしゃいました。また利用することによって、加賀殿お預かりの大役を果たし易くなるのだと。そのお考えに、今も変わりはないのでしょうか」  まったくないと、舷洲は答えた。  啓一郎は再び父の眼を見た。そこには、自信ではなく決意の色が浮かんでいた。 「現に、その動きは始まっている。いくつかの寺で、法話や念仏講が始まっているのを知らんか? 加賀殿の悪気を払い、災厄を寄せ付けぬために御仏にすがり、守り札を身につける。町場の者たちも柵屋敷の者たちも、こぞって集まっているそうだ。日高山神社へ日参する者たちも増えているのだぞ」  丸海の町を雷害から護り給う神だ。 「加賀殿の来訪で、丸海には真実、災厄が訪れた。皆、それを身をもって知った。加賀殿はまこと一介の罪人ではない。江戸での噂に嘘はなかった。上様が恐れ、死を賜ることを憚られたのも無理はないと納得をする」  力強く説くように、舷洲は語る。 「いかにも加賀殿は人外《じんがい》のモノだ。しかし、鬼に通じ悪気を自在に操ることができるというならば、裏返せば加賀殿は、その鬼神の力を以ってして、災いを抑えることもできるということではないか。ならば我らが加賀殿を丁重に崇《あが》め奉《たてまつ》り、少しの粗相もなければ、加賀殿は我らの守護となってくださることであろう ——— 」  そのようにして加賀殿は、遠からず、生きながら、迂閥《う かつ》に触れてはならぬ強大な神として、丸海の者たちに畏れ祀られるようになるだろう。そうなればもう、丸海藩にとって、加賀殿お預かりは少しも難しいものではなくなる。我らが幕府からお預かりを命じられたのは罪人の姿をした悪鬼だが、今や、その悪鬼は荒ぶる神へと変じられた。神なら、いかようにも尊く祀ることができる。  啓一郎はぽつりと言った。「今は加賀殿の悪気封じの札やお守りを売っている寺社が、やがては加賀殿の神通力による加護を招く札を売るようになる ——— 」 「そのとおりだ。我らがその道へと、丸海の民を導いていくのだよ」  そう ——— そのように、丸海の為政者たちは企ててきた。匙家もそれに力を貸してきた。そして事は企てたとおりに進んできている。  だからこそ、今がこらえ時なのだ。途中で払う犠牲、差し出す代償があっても目をつぶらねばならぬ。丸海の民すべてに身に応えてもらうためには、それが必要なのだから。 「啓一郎」  呼びかけられて、啓一郎はびくりとまばたきをした。父、舷洲がそっと手招きをしている。啓一郎は膝を動かして前に出た。 「これから私が語ることは」と、声を殺して舷洲は言った。「本来、おまえの耳には入れてはならぬことだ。しかし私は、おまえには不服かもしれぬがおまえの親であり、やがてこの井上家を背負って立つ身であるおまえには、親として当主として教えておかねばならぬこともある」 「父上」  啓一郎の声を遮って、さらに声を落とす。 「だから話そう。一度だけだ。固く胸に秘めて、けっして誰にも打ち明けてはならぬ。約束できるか?」  啓一郎は無言のまま深くうなずいた。 「丸海の無《む》辜《こ》の領民たちは、我らが企み願ったとおりに、加賀殿を恐れている。私には、その心根の清さが眩しいほどだ。しかし、領民たちほど心が澄んでおらぬ藩の上層部には、我らの思惑とはまったく別の形で、加賀殿への恐れを利用しようとする動きがある」  啓一郎はわずかに目を細め、問い返した。「梶原の美祢殿のようにですか」 「そうだ。しかし、事はもっと大きい」  畠山家の転覆だと、言った。 「我らの間隙を縫って、加賀殿お預かりを失敗させることで、お家を乗っ取ろうと企む者どもがいるのだよ」  事の重大さに、啓一郎は喉のあたりが潰れるような気がした。 「乗っ取るということは ——— この丸海に、殿の膝下にありながら、反逆の意図を持つ者共がうごめいているということですか」 「言うまでもない」 「ほんの軽口めいた噂として、幕閣のなかに、加賀殿に生きておられては困る人びとがいるということならば、私も耳にしたことがございます。また、加賀殿お預かりを畠山家に強いて、それを仕損じさせることで、丸海藩お取り潰しを狙う勢力があるということも、聞き及んでおります。もちろん、町場の噂話ではありますが」  舷洲は薄く微笑んだ。「ああ、私も知っているよ」 「ですから、重く考えてはおりませんでした。しかし父上、今、おっしゃった島山家の転覆を狙う獅子身中の虫がいるのならば、もしや、それらの江戸にいる勢力と結んでいるということは」  舷洲は少し考えて、うなずいた。「ただ、勘定奉行職にあった加賀殿に、あれこれしゃべられては困るという人びとではない。そういう人びとは、今はもう、加賀殿のことなど少しも恐れておらぬ。悪しきモノに憑かれて我を失った挙句、妻子と部下を殺して流された男の言うことなど、誰が真《ま》に受けるものかとたかをくくっておるからな」  啓一郎は拳を握った。「では、後の方ですか」 「厄介でうっとおしい蝿どもだ」  舷洲は笑顔で言った。それがかえって、啓一郎にはぞっとするほど恐ろしかった。 「その蝿どもが、これまでに二度、加賀殿に刺客を放った。一度は大坂の宿で、二度目は涸滝の屋敷に」  二度とも失敗に終わったという。 「こちらの首魁《しゅかい》は誰なのです」啓一郎は呆然と問うた。 「ご城代」 と、舷洲は短く答えた。 「あ ——— 浅木さまですか」 「浅木家は畠山家よりも、はるかに丸海との地縁が濃い。驕《おご》りも高い。日高山神社を奉じる神官の家系ということで、重臣として篤く召し抱えられたが、素《もと》は一介の郷士だ。さりながら、鼻山家の風下《かざしも》に立つことをよしとしない気風は、あの家のなかに脈々と流れていた」  気がついたら、口が半開きになっていた。啓一郎はあわてて口を閉じた。 「では浅木さまが江戸の勢力と手を結んで」 「何度か仕掛けてきておる」  啓一郎は、父がどうしてこんなに落ち着いた顔をしていられるのか当惑した。これはとんでもない難事ではないか。 「危険です。臣下のなかには、浅木さまに心を傾けて、従う向きもあることでしょう」 「そうだな。現に、最《は》初《な》から、御牢番拝命の一件で、倉持と船橋が角突き合わせた。倉持は浅木家の一味だ。あの二家は二重三重に姻戚で結ばれておるからな。御牢番を拝命した船橋の足を引っ張ろうと、倉持はあれやこれやと手を出しておるようだ」 「殿はそれをご存知なのでしょうか」 「無論のこと」  事もなげに舷洲は言い切った。 「そもそも浅木家のそうした企みが始まったのは、昨日今日のことではないからな」  江戸留守居役の森元総右衛門も、浅木家が江戸でおかしな動きをしていることを、はるか以前からつかんでいたという。 「浅木家は、ああ、そうですね、紅貝染めの振興策の旗頭だった。それゆえに、江戸にも大坂にも伝手を持っている」  その伝手を、そんな目的のために手繰り寄せているのか。 「江戸にいる黒幕に、いずれ畠山家失墜の折には浅木家を丸海の当主に据えてやるなどという甘言に踊らされているのだろう。哀れなものだ」  幕閣が丸海藩を潰したいのは、この地を天領としたいからなのだから、と言った。 「しかも浅木家には、浅木家の内紛もある。それもまた獅子身中の虫だ」 「どういうことです?」 「そも涸滝の屋敷ができたのは、十五年前の、浅木家の病のせいだ。だがあれは病などではない。毒だ。誰かが家のなかで毒を使い、病人や死人が出た。おまえはまだ幼かったから知るはずもないが、匙家は皆知っていた」  啓一郎は二の句が継げなかった。しばらくしてやっと言った。「今度の・・・流行病の最初の出所のひとつは浅木家です……」  啓一郎はそれを、患者たちから教えられたのだった。 「左様、十五年前に仕損じた誰かが、今度こそと仕掛けているのだよ。しかも今回は、涸滝の加賀殿という格好の隠れ蓑がある」 「その″誰か ″とは」  勢い込んで尋ねる啓一郎を、舷洲は軽く制した。「おまえはそこまで知ることはない。どのみち、捕らえられることも、獄につながれることもない誰かだ。これはあくまでも浅木家の内紛であり、それだけならば、丸海藩を揺るがす出来事ではない」 「しかし父上、やめさせなければ」 「啓一郎よ、内紛ということは、対抗する勢力もあるということだ。我らがやめさせなくとも、今この時にも、浅木家のなかで、お家の大事なお方の毒殺を防ごうと、必死に働いておる者がいるだろう。放っておいても大丈夫だよ」  ずいぶんと気楽だが ——— でも、冷静に考えればそうなるか。だいいち、誰がご城代のお身内を罰することができるだろう。 「浅木家は旧家であるだけに、血縁姻戚が入り乱れ、おまけに先代も現当主の彰文《あきふみ》さまも子福者《こ ぶくしゃ》でな。正室側室合わせてお子が十二人おられる。まだ三十過ぎのお若さだというのに、ご立派なことよ」  皮肉な口つきで、舷洲は言った。子供が十二人。これはつまり、跡目争いなのだ。  啓一郎は考えた。跡目争いとは、いかなる状況において起こるものか。ただ跡継ぎ候補が大勢いるというだけでは足りない。彼らの相互に反目する要素がなければならぬ。さらに彼らの年齢という条件もある。  十五年前と、今日と。歳月の数をかぞえて、啓一郎は腹のなかで唸った。十五年とは、赤子が元服するまでの年月ではないか。つまり十五年前には、跡目を争う立場に置かれた複数の赤子の誕生があり、十五年後の今、彼らが元服したことによって、また同じ争いが再燃したのだと考えることはできないか。  それを言ってみると、舷洲は深くうなずいた。「まことに|き《 ヽ》り《 ヽ》の良いことではあるな。正直と言えば正直だ」 「それに、これはうがち過ぎかもしれませんが」啓一郎は続けた。「ご城代の丸海藩乗っ取りの企みが、浅木家での内紛の火種にもなっているということも考えられませんか。ご城代が腹心を動かし、暗い策謀をめぐらせているならば、その動きが足元の家のなかに漏れることもあるでしょう。漏れ聞いた者はどう思うでしょうか。城代の座も争い甲斐のある地位ではありますが、上手く運べば藩主になる目が出てきたとなれば、それ以上です」  舷洲は軽く手を打った。「なるほど、あり得る話だ」 「父上、呑気に感心している場合ではありません」  啓一郎は諫めたが、父は一向に気にしない風だ。 「己が家で跡目争いの誅《ころ》し合いが起こっておるというのに、当主のご城代は藩の乗っ取りに目を爛々としておられる。とんだ策士だ。まったく笑止千万だ」  舷洲は、今まででいちばん明るい笑い声を立てた。 「あるいはもしも、この内紛で浅木家が立ち行かなくなれば、殿にとってはもっけの幸いというところではないかな」  口ぶりまで砕けてきた。啓一郎も、つられて少しだけ微笑んだ。その笑みを見届けて安心したように、舷洲はふうと両肩をおろした。 「しかしな、啓一郎」  口調を戻して切り出したときには、真顔になっていた。不意に、つと立ち上がり、居室の唐紙や障子を開けて、近くに金居やしず、下男の盛助《もりすけ》のいないことを確かめると、元通りにきっちりと閉めてから戻ってきた。  啓一郎は固唾《かた ず》を呑んだ。 「ご城代が具体的にどのような手づるを使い、次には何を仕掛けてくるつもりであるのか、我らが詳しく知ることができたのは、つい十日ほど前のことなのだ。ご城代にとっては不運、我らには幸運なことに、江戸の勢力と浅木家をつなぐ密使が密書を携えて、夜陰にまざれて大坂へ渡ろうと試みて難破し、御船奉行の廻船に拾われたのだ」  そんなことがあったのか。啓一郎自身はもちろんだが、城下の者たちは何も知るまい。 「丸海の海の潮の流れを知らぬ他国者ゆえの不覚だろう」 「その密書には」 「詳細に、次なる加賀殿暗殺の企てが記されていた」と、舷洲は言った。ぎりぎりまで潜めた声だが、その内容の重さゆえに、父の語りは啓一郎の耳を圧した。 「密書の常で、関わりのない者が目を通しただけでは意味がわからぬように書いてあった。解読には手がかかったそうだよ」 「でも、読み解けたからには防ぐことができますね?」 「此度はな」念を押すように、舷洲はゆっくりと言った。「しかし、仕損じてもまた仕掛けてくる。浅木家も必死だ。なにしろ加賀殿という大きな的がある。こんな機会は二度とあるまい。逃すものかと全力を傾けてくるに違いない」  万にひとつ、我らにぬかりがあり、ご城代の一派に加賀殿を暗殺されることでもあろうものなら ———  すべては台無しだ。 「だから我らは ——— いや殿は、ご決断をくだされた」  また声が低くなる。啓一郎はさらに父に顔を寄せる。 「加賀殿に、生きながら荒ぶる神になっていただくという悠長な企てを捨てる。加賀殿には、死して丸海の御霊《ごりょう》となっていただく」  さすがに啓一郎は身が強張《こわば》るのを感じた。「死して、御霊に」 「そうだ。そのためには、ふさわしい死の形をこしらえあげねばならぬ」 「し、しかし、加賀殿に死なれては、加賀殿の悪しき神通力を恐れるが故に流罪にした将軍家が」 「だから、上様もお心安らかになられるよう、丸海藩が加賀殿お預かりを正しくまっとうしたと認めていただけるような形で、加賀殿に死んでいただくのだ」  何という離れ業だ。 「そんなことができるものでしょうか」 「やらねばならぬ。方策がないわけではない。そもそも上様は、加賀殿を恐れているのであって、加賀殿の生きていることを恐れているのではない。この二つの違いを、おまえならわかるであろう?」 「しかしご自身では死を賜らず、流罪にしたではありませんか」 「幕閣には、その知恵と方便がなかったのだろう。あったとしても、企てが難しかった」と、舷洲は微笑した。「これもやはり、江戸の町が広く、民の数多く、その目が鋭いということが障りになったかもしれぬな」  混乱に、食事を済ませたばかりの胃の腑が踊り、喉元まで持ち上がってくるようだ。啓一郎は必死に自分を建て直し、もっとも訊かねばならぬことを尋ねた。 「その企てに、父上は加わるのですか。進んで加賀殿暗殺をはかるのですか」 「暗殺」噛み締めるように舷洲は復唱し、そしてかぶりを振った。「これは暗殺ではない。ただ加賀殿に、現身《うつせみ》のお姿を捨てていただくというだけだ」  冷汗が出てきた。 「それに啓一郎、これは言い訳のように聞こえることだろうが、他でもない加賀殿ご自身が、死による安息を求めておられる」 「か、加賀殿が」  舷洲はうなずき、手をあげてつるりと額を拭った。めっきり白髪の濃くなった総髪を、そのまま撫でる。 「丸海に流されてくるあいだ、加賀殿は食事を摂らなかったそうだ。江戸より見届け役として付き添ってきた医師が、道中で加賀殿が死ねば、加賀殿を護送する者たち、受け取り役の丸海の者たちが罪を受けると、懇々と説きつけて、ようやく召し上がってくださるようになったが、それもぎりぎり命を保つ程度の量であったそうだ。涸滝に入ってからもそれは同じで、どう勧めても懇願しても、三日も何も召し上がらず、水も飲まず、床に入って横になることもなく、さながら即身仏になろうと志しておられるかのようなご様子が続いたそうだ」 「砥部先生は、さぞかしご苦労を」  舷洲は何度かうなずいた。 「匙筆頭とそっくり返ってはおるが、いざというときには、やれ穢れの何のと理屈を並べて加賀殿を診ようとせなんだ杉田に比べて、砥部殿はご立派だ。四苦八苦しながらここまで加賀殿の命を保ち、なおかつ、その閉じたお心も、少しずつではあるが溶かしてきた」  言ってから、舷洲はにわかに目を明るくした。 「そうだ啓一郎、その砥部先生の尽力に、ほうが助勢をしているぞ」  意外な名前が飛び出して、啓一郎はのけぞるほど驚いた。 「ほう? あの幼い子がですか?」 「そうだ。ほうは今、加賀殿の幽閉部屋に日参して、手習いをしておる」  ますます面食らう。 「まさか、加賀殿に教えていただいているのですか」 「そうだよ。他に誰がおる?」  字を学び、書を習い、日々加賀殿と親しく言葉を交わしているというのだ。あのほうが。 「ほうを涸滝に遣ったのは私と砥部先生であるし、それには思惑もあったが、今のほうの働きは我らの思料を超えてしまった。私も驚いている」  まったくだ。しかし、啓一郎は深い安堵に包まれた。ほうは無事なのだ。立派に務め、期待された以上の働きをしている。 「それなら、どんな形であれ加賀殿が死んだら、ほうは悲しむでしょうね」  頭に浮かんだことを、そのまま呟いた。舷洲は、眩しそうな目をして息子を見た。 「そういうおまえの優しさは、母親に似たのだな」 「は? 父上、何をおっしゃるのですか」  舷洲はにっこりと頬を緩めた。 「まあ、いい。しかし加賀殿の死を願うお気持ちに変わりはないようだ。ほうとの語らいは、その前のわずかな置き土産 ——— それと同時に、ほうの命を救うための方便に過ぎぬ」  舷洲は手短に、刺客に怯えたほうが加賀殿の幽閉部屋に迷い込んだ経緯を語った。啓一郎はまばたきも忘れて聞き入った。 「加賀殿は鬼ではない。悪霊でもない」  思わず、そんな言葉が口をついた。 「ほうを助けてくださった」 「私もそう思う。思えば思うほど、あの方の所業が悲しく思える」  そうだ。忘れてはならない。加賀殿は我が妻と二人の子を手にかけているのだ。 「妻子を殺し、部下を斬り捨てたのであるならば、たとえどのような事情があったにしろ、武士として、その場で切腹して果てるべきでした。どれほど高い地位にあろうと、武家の心得は変わりません。違いますか」 「おまえの言うとおりだ」 「しかし加賀殿は切腹せず、惨事を引き起こした理由を問われてもお答えにならなかった。申し開きのお言葉もない。故に乱心と思われてきた。人外の悪しきモノに心を取られて狂乱したのだと」  自身の頭に浮かぶ事柄を整理しながら、困惑の波に逆らい、啓一郎はゆっくりと言った。 「しかし今、加賀殿は死を願っておられる。一方で、加賀殿の目から見れば、塵芥《ちりあくた》のような存在であるほうの命を助けてくだすった。ならば、加賀殿は乱心になど陥ってはおられない。理性もあり温情もお持ちです」 「加賀殿は間違いなく正気だ」と、舷洲は言い切る。 「ならばなぜ、あのような恐ろしい所業をなされたのでしょう。なぜ腹を召されずおめおめと生き延びたのでしょう。私には、まったくわからなくなってしまいました」  つと視線を膝のあたりに下げ、舷洲はしばらく間を置いた。ここにはおられない加賀殿を憚っているような躊躇《ためら》いを、啓一郎は感じ取る。  顔を上げ、舷洲は、啓一郎の問いに答える代わりにこう尋ねた。 「加賀殿のお血筋を知っているか」 「は?」 「あの方の祖父御は商人であったそうだ。財を成し、御家人株を買って士分となられた」  初耳だった。 「ではそのような無役の家柄から、加賀殿は勘定奉行職にまで栄達なさったのですね」  舷洲はかぶりを振る。「勘定職、とりわけ勝手方の役人は、家柄血筋よりも当人の能力が重んじられるそうだが、さすがにそれはない。加賀殿は、江戸の昌平學で学んでおられる折から聡明で名高く、その才を買われて、船井の家に養子として迎えられたのだ」  船井家は勘定組頭や大坂蔵奉行を務めた家柄であるという。 「跡取りが早世し、娘しか残っておらなんだ船井家では、ふさわしい婿を求めていた。加賀殿はうってつけの人材だったろう」  啓一郎は深く納得した。舷洲は続ける。 「もっとも、そこから先の目覚しい出世は、本人の努力と才覚によるものだ。また、時も良かった。幕府の金繰りは苦しい。しかし家斉公は奢侈《しゃ し》を好まれるお方だ。怜悧な知恵で工夫をこらし、綱渡りのようなやりくりを重ねて将軍家の台所を見事に支えてみせるならば、上様の覚えが目出度くなるのは当然のことだ」  それが登龍のような栄達を招いた。 「時に加賀殿は、″千代田の大熊手 � と陰口を叩かれることがあったそうだ」 「大熊手?」 「上様の望まれるままに金をかき集める、大きく、目の細かい熊手だな」  啓一郎は苦い面白みに笑みを浮かべた。 「なるほど、上手い喩《たと》えですね」  舷洲も微笑して、弱いため息を漏らした。「加賀殿がお腹を召さず、乱心と受け取られるような振る舞いに及んだのは、偏《ひとえ》に、養家の船井家を想ったからではないかと、私は思う」  どれほどの才があろうとも、生家の家柄のままでは出世道の行き止まりは早々に見えていた。そんな自分を、拾い上げ迎え入れ、さらなる高みにまで続く道へと導いてくれた船井の家である。妻子を殺し部下を誅し、自らの非を認める形で腹を切れば、その咎は養家にまで及んでしまう。  しかし、乱心した挙句の仕儀とあれば、幕府の裁可も違ってくるだろう。加賀殿はそこに望みを託したのだろう。 「実際に、船井家は無事存続しておる」  だが、啓一郎はさらに戸惑った。 「加賀殿が手にかけた奥方は、その船井家の娘ではありませんか」 「いや、違うのだ」  船井家の娘は、加賀殿の妻となって間もなく没した。二人の間には子もなかった。以後、婿として養子として船井家に留まり精勤を尽くした加賀殿は、勘定組頭の座に着くまで独り身を通していたのだと、舷洲は言った。  ただただ、養家の格式を守るために。 「加賀殿が手にかけた奥方は、平たく言うならば後添いだ。お歳の割に、お子達が幼かったのもそのせいだ」  舷洲は呟いて、何度かまばたきをした。 「奥方は加賀殿に嫁す以前、大奥におられた」  現将軍家斉公は、漁色の激しいことでもつとに知られている。もともと、奢侈の根もそこにあるのだ。お手つきとなり局《つぼね》を賜る女たちの数があまりに多く、大奥が狭くなったという軽口を、啓一郎も耳にしたことがあった。井上家出入りの大坂の薬種商が、さても羨ましいお話ですと笑いながら言っていた。 「では、お手つきの女性《にょしょう》をお下がりに」 「賜ったのか、願い出たのか。どちらにしても不思議はない。前者であるならば、それは上様の加賀殿重用の証《あかし》だ。後者であれば、出世の方便として、別段珍しくもない手管であろう」  啓一郎は、胃の腑のあたりがつかえて苦しくなってきた。父の話を聞けば聞くほど、かえって困惑の雲が重く立ち込めてくる。 「そのような大切な奥方を、なぜ加賀殿は手にかけたのでしょう。正気でできることではありません」  まったく筋が通らないではないか。 「加賓殿は奥方を、下にも置かぬ扱いをしておられたようだよ」  当然だ。妻というより、大事な拝領品なのだから。 「おまえにはまだ、夫婦の機《き》微《び》はわかるまい」舷洲は優しい眼差しで息子を見やり、穏やかな口調のままで言った。「しかし、考えてごらん。そのような夫婦が、果たして幸せなものだろうか」  啓一郎はぐっと詰まったが、気丈に答えた。「それは夫と妻双方の、心の持ちようにかかっていることでしょう」 「それでは尋ねよう。どれほどの身分を保証されようと、心を持たぬ物のようにやりとりされ、己を空しゅうして夫に仕えねばならぬ妻は幸せだろうか」  今度こそ、啓一郎はすぐ返事ができない。とっさに、琴江の顔が頭に浮かんだ。琴江の縁談も、格こそ違え、同じようなものだったのではないか。  いや違う。父も私も、琴江を匙家の安泰のための道具と思ってはいなかった。大切な娘、愛《いと》しい妹、だからこそふさわしい良縁を望んだのだ。  しかし、琴江の気持ちはどこにあったろう。  思わず嗄れた声で、呟いた。「奥方は、加賀殿とのあいだにお子を二人なしておられます……」 「武家の妻は、子を産むことが大事の役割だ。心がなくとも役割は務まる」  父上は、わざと冷たい言い方をしているのだと思った。 「務まるが、それは不幸だ。不幸の行く先に、人が見出せるのは絶望のみ」  じっと身を硬くして、啓一郎は父の言葉を噛み締めた。そのうちに、ある洞察の光が射してきた。目に痛いほど眩しく、はっきり照らし出されるものがある。 「父上」と、懸命に声を抑えて問いかける。「加賀殿は、奥方とお子達を手にかけておられない のではありませんか」  舷洲は答えない。無言の肯定を、啓一郎は見て取った。  困惑の霧が晴れてきた。そうか ——— 「加賀殿の奥方は、幼いお子達を道連れに、服毒し自死されたのですね」  ゆっくりと、舷洲はうなずいた。 「それが真相であるらしい。あるいは、子供もろともその身を滅してしまおうと思いつめてしまった奥方こそが、ある種の乱心にとらわれていたのかもしれぬ」 「では、加賀殿が斬って捨てた部下たちはどうなりましょう。彼らには関わりがなかったはずです」 「口封じだろうよ」 「奥方の自死を隠すために?」 「そうだ。事は加賀殿の役宅で起こった。彼らにその場を見られれば、放置してはおけぬ。そうでなくとも、そのような仕儀に至る以前から、もろもろを察知していた家人《け にん》はいたことだろうから」  もう冷汗さえ浮いてこない。ただただ寒くうら寂しく、恐ろしいばかりだ。 「しかし……加賀殿は″千代田の大熊手 � だったのでしょう? 大事な賜りものの奥方を死なせてしまったことは、確かに失策です。失策ですが、だからといって、必ずしも地位を失うとは限らない。これまでの働きがあるのです。上様のご勘気を被らぬよう、上手に真相を隠すことができれば、大過はなかったかもしれないではありませんか」  どうかなと、舷洲は首をかしげた。 「賜りものは、奥方だけではなかったようだから」  ほかに何があるというのだ。 「加賀殿と奥方には一男一女がおられた。女の子の方が年長でな。奥方が加賀殿に嫁して、十月十日を待たず誕生された」  未だ妻を迎えていないとはいえ、啓一郎は医師だ。そこまで言われればわからないわけがない。 「将軍家の ——— お子ですか」  舷洲は苦笑した。「なにしろ多くの女性を愛《め》で、お子に恵まれた方であるから」  加賀殿の奥方は、あるいは次代の将軍になるかもしれない子を腹に宿しながら、大奥を出されて加賀殿に嫁した。  父の言うとおり、家斉公には子が多い。そのうちの誰が次期将軍になるか、子が大勢いれば、確率はどんどん低くなる。それでも望みはある。大奥の局なら、|孕《はら》めばその子が生れ落ちるぎりぎりまで、男子であることを願うだろう。その男子が、かの女を将軍家の生母に押し上げてくれることを望むだろう。  だが加賀殿の奥方は、赤子の顔を見ぬうちから、その望みを絶たれた。  物のように、家臣のもとへと下された。  そこに恨みと悲しみが積もり、かの女を夫として迎え取った、加賀殿の心とすれ違う。大切にされればされるほどに、一介の下賜の品である己の寂しさが身に痛い。  富でも身分でも埋められぬ、心の穴がそこにはある。  ようやく、啓一郎は得心した。奥方の心にも、加賀殿の心にも入り込めるような気がしてきた。  己の妻であって己の妻でない。己の子であって己の子でない。ひたすらに奉り、大切に守るしかない存在。  加賀殿はその存在に否定され、死の国へと駆け込まれてしまった。  上様の怒りを恐れたろう。それと同じほどに、我が身の空しさも感じたのではないか。この失態に、常々と築いてきた栄達は打ち砕かれた。長い年月の努力と精勤は、かくも呆気なく無に帰った。その根はどこにある? ほかでもない、我と我が心だ。  すべては終わりだ。  あるいは、それでも家斉公は許すかもしれない。己が子を孕んだ女性を家臣に遣るような男だ。上手く立ち回れば、その心を宥めることはできるかもしれない。  だが、幕府を動かしているのは将軍家だけではない。頂点に君臨しているのは一人でも、その下には無数の思惑を抱いた幕僚たちがいる。世人を驚かす出世を遂げ、重用された加賀殿には、また敵も多かったはずだ。彼らの動きまで、言い訳と言い繕いで封じることは、とうていできない。  これで終わりだ。  そして啓一郎は思う。願いに近いほどに強く思わずにはいられない。加賀殿の絶望は、けっして、けっして、身の破滅を悟ったことのみによるものではなかったはずだと。  加賀殿の内には、ほうを助けた温かい心が息づいている。妻と子を、このような形で失ったことで、その心は、癒《いや》しようのない深い傷を受けたことだろう。これまでの人生が無に帰り、後には何ひとつ残すものがなくなった。私は今まで何をしてきたのか。虚空に放り出されたような寂しさと悲しみに、必ず棒立ちになったはずだ。  それでも、ここで死ぬわけにはいかぬ。  上様が私をどう裁くか、この目で見届けねばならぬ。私を養い、引き立ててくれた養家に累が及ぶことのないよう、最後の、ぎりぎりの恩返しに務めねばならぬ。  自分で得たものを失っただけでなく、元から在ったものまで打ち壊す仕儀に至るならば、私の生など、最初から存在しない方がよかったということではないか。  それだけは認めたくない。  故に加賀殿は黙し、乱心よ錯乱よ、鬼よ悪霊よと恐れられる道を選んだ。 「 ——— 父上」  己の内に広がる加賀殿の心の光景に目を奪われながら、啓一郎は問いかけた。 「これらのことをすべて、砥部先生が聞き出されのですか」  まさかと、舷洲は素早く否定した。  それは無理だ。何より、牢番の監視の目が厳しい。砥部先生がなされたことは、加賀殿の御身は我ら丸海の者が確かにお預かり申したと、お伝えすることだけだ。この後のことは、我らにゆだねてくだされと」  それも言葉を以ってではなく、日々の診療という行為を以って。まどろこしくも、辛抱強く。 「では、なぜ父上は事情を知っておられるのです?」  久しぶりにやわらかく頬を緩めて、舷洲は息子の顔を見た。 「啓一郎よ。私はこの歳まで生きて、ようやくわかったことがある。この世には、本当に真実の知れぬ事柄などひとつもないということだ」  啓一郎には、つかめぬ真実ばかりがごろごろしているように見えるのに。 「どんなに固く伏せられている事どもでも、誰かそれを見ている者がいる。何処かには、知っている者がいる。正しく道をたどって探り出すならば、それをつかむことができるのだ」 「では、これらの事も江戸の森元殿から」 「加賀殿をお迎えするためには、何よりも先に知っておかねばならぬ事柄だったからな」  丸海のためにと、言い切った。  加賀殿は死を願っておられる。最初に聞いたその言葉が、啓一郎のなかで、ほとんど体感に近いほどの説得力を以って蘇った。それに間違いない。加賀殿には、最早この世に成すべきことはないのだから。鬼、悪霊と恐れられなければならぬ時期も、もう過ぎた。  そして丸海藩の意思は、その思いに応える形を作ろうとしている。  御《 ヽ》霊《 ヽ》に《 ヽ》な《 ヽ》っ《 ヽ》て《 ヽ》い《 ヽ》た《 ヽ》だ《 ヽ》く。《 ヽ》 「どのような手段を取るのです」  わざと父の顔を見ずに、啓一郎は尋ねた。 「涸滝の牢番には、父上の —— いえ、殿の御意思によるこの企みを成し遂げるための駒が、どの程度入り込んでいるのですか。それで足りているのですか。私にもできることがあるならば、お手伝いさせてください」迷いを見せず、即座に舷洲は答えた。 「駒は足りている。おまえに用はない」 「しかし!」 「私はおまえの親だ。おまえに手を汚させたくはない。私の意志を知っておいてくれれば、それでよいのだ」  あまりにも優しい声音だった。刹那《せつな》、啓一郎は子供に戻り、父にすがりつきたくなった。 「首尾よくすべてが終わったときに、私が私のしたことを覚えていたら、その時は語ろう。今はそれで勘弁してくれ」  私が私のしたことを覚えていたら。覚えていたくない、という意味の裏返しだ。  それほどの事ならば、なおさら私を遠ざけないでください。父上お一人で背負い込まず、私にも分け与えてください。訴えようと、啓一郎は父を仰いだ。  ちょうどその時である。にわかに雨が降り出した。それまでにも風や雲の流れや、何らかの気配があったのだろうか、座敷の二人は話に夢中でまったく気づかなかったのだ。  早くも土砂降りだ。啓一郎は素早く立って、庭に面した雨戸を閉め始めた。空を仰ぐと、黒雲の隙間に青空が見える。が、見る見るうちにふさがれてしまった。  金居が飛んできた。啓一郎は「ここはよい」と下がらせ、すると金居は廊下を駆けて、しず、盛助と大声で呼び立てる。はい、はーいと返答、足音、あちこちでごとごとと雨戸を引く音がにぎやかだ。  明り取りに、ほんの一尺ほど閉め残した雨戸の隙間から、稲光が差しかけた。と思う間に、天地を打ち壊すようなすさまじい雷の音が轟いた。 「これは……凄まじい」  舷洲は険しく目を細めている。 「今年の雷は事のほか酷い。先日の雷で、日高山神社のご神木が倒れたそうです。これも加賀殿の悪気で神威が弱っている印だと、町場の者たちは恐れています」 「本当にそうなのかもしれ」  ぬ、と言いかけて、舷洲は急に黙った。啓一郎は父を振り返り、その顔の凍ったような強張《こわば》りに、一瞬だがぞっとした。 「父上?」  何度か呼びかけても返答がない。近づいて顔をのぞきこむと、ようやく父の目が晴れた。 「ああ、済まぬ。少し疲れたようだ」 「そうですね。覚えず長いお話になりました」  父子は肩を並べて雨脚を眺めた。丸海の町を覆う雷雲を眺めた。稲妻が走り、雷鳴が激しい雨を凌駕《りようが》して轟く。  雷雨は小半時続いた。激しい稲妻と稲光に天の底が破れ、そこから雨が降り注いでいるかのようだった。いくつもいくつも落雷の音を聞いた。  そしてようやく雨脚が弱り、黒雲の切れ間が見えたかと思ったころに、留めのような一撃が襲った。  診察室に戻っていた啓一郎は、ようやく木箱を開けて中身を検分していたのだが、落雷の驚くほどの数に、多くの怪我人が目に見えるようで、急いで養生所へ行く支度を整えていた。真昼の雷の怖さは知っている。  そのとき、座っている膝のあたりに、地震いに似た振動が駆け登るのを感じて顔を上げると、それまで目にした幾多の稲妻を束ねてひとつにしたような光の槍が、空を西へと駆け抜けるのを見た。  続く轟音と振動に、立ち上がりかけて膝をついた。  啓一郎は雨戸に駆け寄り、雨に濡れるのもかまわず戸を押し開いた。  堀外の蹴上がり、小高い丘の上にある井上家からは、丸海の城下を見おろすことができる。その町の眺め越しに、遠く日高山神社のある山が見える。  その山の頂上に煙が昇っていた。  瘧《おこり》に襲われたかのように、啓一郎は身震いをした。立ちすくんでいるうちに、雨煙の向こうから、泥水を跳ね上げながらこちらに駆け登ってくる紅半纏の色が目に入った。 「先生、井上の若先生!」  引手の男だ。泣き叫ぶように大声で呼ばわっている。 「大変だ、大変です! そこらじゅうが雷でめちゃめちゃだ! 今度はとうとう御日高さまにも落ちた!本殿が燃えてます!」  怪我人の手当てをお願いします ——      二  ちょうど八朔《はっさく》の日であったために、後に「八朔の大雷害」と呼ばれることとなるこの雷雨で、丸海城下では十五人が死んだ。  その翌日の昼過ぎ、宇佐は中円寺で働いていた。寺の内には怪我人と病人が溢れていた。  養生所ができたのは有難いことだが、すでにして病人はそこに入りきれないほどに増え、さらに増え続けている。もともとお救い駆け込み寺であった中円寺には、最初から養生所を諦めてこちらにすがる者たちも多く、住職も宇佐を含めた手伝いの者たちも、寝る間もないほどの忙しさだった。  そこへ持ってきて、雷害の怪我人も加わったのだ。本堂まで開けて人びとを入れたが、それでも間に合わない。宇佐たちの手には余る重症の怪我人もいるので、住職は使いを走らせ、養生所から匙の医師に来ていただくよう願いを出した。が、あちらも手一杯とのことで、切り傷や火件の薬を分けてもらうだけで辛抱しなければならなかった。  堀外・堀内の被害のほどは、引手たちの奔走により、昨夜のうちにあらかた知れた。柵屋敷で一軒、町場では八軒の家が落雷の直撃を受けて倒壊した。塔屋では煙出しが倒れたところもある。そのために死者と怪我人が出たのである。幸い、雷の直撃を受けて死んだり傷を負ったりした者はいなかったのだ。  一方、落雷の直撃を受けた日高山神社は、直後に発した火災で全焼した。山奉行配下の火消したちと引手たち、潮見率いる漁師町の男たちが必死の消火作業にあたったにもかかわらず、火勢は一向に衰えず、本殿が焼け神楽《かぐら》殿が焼け、神官の住いが焼け鳥居が焼けた。境内の松の老木、永年雷を逃がれてきたあの神木も倒れた。  たまたま参拝の途中で石段を登っており、落雷の瞬間をその目で見た漁師の男は、震えながら皆に語った。天から雷が落ちてきて本殿の瓦屋根に当たり、屋根が真っ二つに裂けた。瓦が割れ柱が揺らぎ、建物の破れ目から龍の舌のような炎がべろりとのぞいたかと思うと、見る見るうちに燃え広がったのだと。 「それと不思議なんだ。おいらは目を疑った。雷が落ちて屋根が割れたそのときに、神官さまがお使いになる御幣《ごへい》とかお札とかが、ぱぁっと舞い上がるように、割れたところから吹き出したんだ。そンで、吹き出すそばから燃えて灰になっていくんだよ」  火消しにあたった男たちも、口々に語った。神社を守ろうと、彼らが命がけで火の手の先へ先へと回って、燃えるものを打ち壊し、取り去るのを尻目に、あたかも生き物のように火はあちらへ飛びこちらへ戻り、彼らを嘲笑《あぎわら》うが如く燃え盛ったと。 「あの最後の大きな雷が落ちるまでは降ってた雨が、あれを最後にぴったり止んじまったのも、薄気味悪いことだった」  確かに、柵屋敷や町場の落雷で火が出なかったのは、そのときは豪雨が降っていたからなのだ。  日高山神社は灰燼に帰した。かろうじてご神体の山犬の皮は、ほんの掌ほどの大きさが焼け残ったが、煤にまみれ焦げに汚れて見る影もない。  日高山神社は丸海の神様で、土地の者たちは皆拝んでいるが、とりわけ信心が篤いのは山で働く樵や猟師と漁師たちである。山で遭う雷、海で遭う雷は、町場の数倍も恐ろしいものだから、彼らの雷避けの信心には命がかかっている。それぞれに山奉行、船奉行の治める者たちだから、早速に潮見や頭が寄り合いを開き、各奉行に、大急ぎでご神体を安置する仮本殿の建設を願い出た。ご沙汰はすぐに下ったが、しかし、まずは見るも無惨に焼け落ちた神社の後を片付ける作業がある。  そして、そこでまた怪我人が出た。焼け跡には執念深く熟が残り、取り片付ける人の足を踏み入れることを阻むのだ。焼け残ったご神体を運び出したのは潮見の一人だが、両足が焼けて腫れあがり、歩くどころか這うことすらできなくなってしまった。  あるときは大声で、あるときは畷り泣きをまじえて、あるときは怯えたささやきで交わされるそれらの話を、宇佐はあちらの怪我人、こちらの病人と飛び回って世話をしながら耳にした。そのうちに、聞き捨てならない噂を拾った。 「今度の雪害は酷かったけども、柵屋敷や町場じゃ、雷に直に打たれて死んだもんはいなかったろ? けど、一人だけいるそうだぜ」  涸滝の御牢番だという。  宇佐は一瞬びくりとし、語り手の男のところに、そこらに横になったり座り込んだりしている病人たちを、またぐようにして飛んでいった。 「ね、その話は本当なの? どうして知ってるのよ?」  宇佐の剣幕に男は恐れをなしたようだが、間違いないと請けあった。彼は旅寵町の料理屋の雇い人で、その料理屋からは涸滝に料理番を出しているのだという。 「涸滝に入った連中は、ときどき交代で帰ってくるんだけども、何かしゃべったら命はないってンで、みんな貝みたいに黙ってるんだ。だけども今度の今度は命が縮まったって」  このことを打ち明け、町場で手に入る限りの「加賀さま悪気避け」お札を買ってきてくれと頼まれたのだという。 「だって死んだ牢番のお侍は、お日高さまの雷避けのお札を身に付けてたっていうんだよ。それなのに雷に打たれてあの世行きだ。お日高さまじゃ、加賀さまには勝てねえんだ」 「じゃ、この夏のえらい雷は、やっぱり加賀さまが招いていなさるんだね?」  男のそばにいた、しわだらけの老婆が口を挟む。 「そうさ、決まってるじゃねぇか。とうとう今度は、狙いをすましてお日高さまをやっつけておしまいになった。これからはもう、おいらたちを守ってくださる神様はござらっしやらねえ」  おお怖い、どうしよう。泣き出す者もいる。  宇佐は手足が萎えるような心地がした。自分でもどうやって動いているのかわからないまま、男の胸倉をつかんで揺さぶった。 「ね、涸滝にも雷が落ちたんなら、他にも怪我人がいるんじゃないの? その料理番に聞いてみてよ。小さい女の子が怪我しなかったかって」 「わ、わかったよ。わかったから揺さぶらないでくれろ」  宇佐の頭のなかには、怯えて泣くほう、火傷して苦しむほう、暗い狭い場所に一人で寝かされて、手当てもしてもらえず放ったらかしにされているほうの姿が、順番に浮かんでは消えた。手を動かし口では返事をし、働いてはいても、心は割れて砕けて、宇佐の身体の内側で、カサコソとぶつかり合っている。 「宇佐、朝から何も喰っておらんだろう。少し休んで飯を食え」  夕暮れ近くなって、和尚に声をかけられた。何度も呼ばれていたらしい。後ろから着物の襟首をつかまれるまで気づかなかった。 「いいです、あたしは大丈夫です」 「ちっとも大丈夫ではないわ。足取りがふらついておる」 「でも休んでられません」 「やっと匙の先生が一人来てくださった。だからおまえは今のうちに休め」  言われてはっと見回した。ほんの刹那、もしや井上の若先生かと思ったのだ。が、違った。怪我人たちのあいだに、香坂の泉先生の姿がある。宇佐がじっと見つめていると、気がついのかこちらを見た。目が合うと、軽くうなずいてくださった。  宇佐はふらりふらりと厨《くりや》に入り、土間に腰をおろして水を飲み、炊き出しの握り飯を頬張った。じっと座っているうちに、こうしてはいられないという気持ちがもくもくと立ち込めてきて、尻をはたいて立ち上がった。  厨を出て井戸のそばにさしかかると、 「宇佐」と呼ばれた。泉先生だった。 「お久しぶりね。元気でしたか。お役目ご苦労なことです」  本当にしばらくお顔を見ていなかった。でも泉先生にお変わりはない。優しい笑みはそのままだった。 「養生所の方では花吉に会いました。引手の人たちは皆、寝る間も惜しんで働いているようですね」  ああ、と宇佐は気づいた。泉先生はご存知ないんだ。 「先生、あたしはもう引手見習いではないんです」 「まあ」泉先生の目が大きくなる。 「あたしはここの手伝いです。もう一月半ぐらいは住み込んでいます」 「そうだったの」  泉先生は急に、小娘のようにもじもじと足を動かした。 「それは……嘉介があのような悲しいことになったからですか。だからあなたもやめたのですね」  宇佐は泉先生をじっと見つめた。先生は宇佐の顔から目を逸らしている。 「親分のことは残念でした」宇佐は平らな口調で言った。「けど、もう仕方がありません。子供たちのことも、おかみさんのことも」  泉先生の眉がかすかに動いた。 「先生はおかみさんをお預かりくださったんですよね」 「ええ……」 「でも、せっかく手当てしていただいたのに、おかみさんは亡くなった。あたしはそのように聞いています。親分と同じコロリで」  泉先生は顔を上げ、ほとんどわからない程度にかすかに顎をうなずかせた。 「先生、厨に何かご入り用なものが?」 「え、ええ、水を一杯いただこうと」  宇佐は水瓶から茶碗に水を汲み、泉先生に渡した。先生は受け取ったが、飲もうとはしない。 「あたし、出かけなくちゃなりません。失礼いたします」  駆け出そうとした宇佐を、泉先生は呼び止めた。「宇佐」  宇佐は立ち止まって振り向いた。 「許してくださいね」  そして泉先生は、ゆっくりと腰を折り、宇佐に頭を下げた。  宇佐は何も言えなかった。黙ってくちびるを噛み締め、駆け出した。  嘉介親分はコロリなんかじゃなかった。おかみさんだってコロリじゃない。でもそういうことにされて、殺されたんだ。  泉先生はそれに加担した。おかみさんの身柄を預かって、おかみさんが口封じに殺されるのを知っていて、でも何もしなかった。  責めることなんかできない。だってあたしも同じことをしたもの。琴江さまが殺されたのを、口を拭って黙っていたもの。だから先生はあたしに謝ることなんかないんだ。  匙の香坂家の跡取り、泉先生の弟は、身体が弱くていらっしゃる。泉先生は嫁にもいかず、弟に代わって香坂の家を支えておられる。それだもの、なおさら、家を危なくするようなことができるわけない。偉い人にこうしろと言われたら、黙って呑み込むしかないんだ。  空回りするようにそう考えながら、走って寺を出ようとしたら、誰かにむんずと腕をつかまれた。まったく、あたしは確かに宇佐だけど、野うさぎじゃないのに、何でこんなに捕まえられるんだ? 「何処へ行く」  渡部一馬だった。紅羽織を着ている。 「御見廻りですか。ご苦労さまです」  振り切っていこうとするのに、離してくれない。 「確かに俺は見廻り中だ。だから聞いておるんだ。何処へ行こうとしている?そんな熱に浮かされたような目をしやがって」  宇佐にはそんなつもりはなかった。ただ急いでいるだけだ。 「涸滝に行くんです」 「何だと?」 「ほうを連れ戻しに行くんです」  渡部の濃い眉毛が大きく持ち上がる。 「おまえ、正気か?」 「正気ですよ。急がなくちゃ」 「そんなことができるわけなかろうが」 「できなくたって連れて来なくちゃ」  しゃにむに行こうとする宇佐から、渡部はばっと手を離した。そして宇佐がまた駆け出す前に、素早く前に回ってその頬をぴしゃりと打った。  強く打たれたわけではない。宇佐は目をぱちくりした。 「何をなさるんです」 「目が覚めたけ」 「あたしは ——— 」  言いさして、宇佐は急にめまいに襲われた。ふらふらと倒れかけるのを、渡部が支えてくれた。 「まあ、座れ」  彼が宇佐を引っ張っていって座らせたのは、恐れ多くも元はこの寺の山門の、柱を切り落とした跡である。今では寺を訪れる人びとが、切り株だとばかり思っているものだ。 「ほうに何かあったのか?」  問いかけられて、宇佐は雷で死んだ御牢番のことを話した。うわ言のような呟きを、しかし渡部はちゃんと聞いてくれた。 「おまえが出向いて行ったところで、ほうを連れ出せるわけがない。門番に斬り捨てられるのがおちだ」 「だけど」 「まあ聞け。確かに運の悪い牢番は死んだ。が、涸滝の屋敷は無事だ。城下がこれだけ酷い有様になり、日高山神社さえ焼け落ちたというのに、あの屋敷はびくともしていない。だったらいっそあそこにいた方が、ほうは安心だろうよ」  この寺もよいな、山門も鐘楼もないからと、笑うように付け足した。  言い聞かされているうちに、宇佐の内側に何かこう、落ち着いたものが満ちてきた。それまでは空っぽのふわふわで、足が宙を踏んでいた。 「あの子は無事だ。大丈夫だよ」  渡部は言う。どこにそんな根拠があるのだ。宇佐は言い返したいが、それをせず、うなずいて承知してしまいたい。心はそちらに寄ってゆく。 「渡部さま、何しに来たんです?」  渡部は失笑した。今度は宇佐の背中をぽんと打った。 「正気に戻ったかと思えば、ご挨拶だな」 「すみません」 「俺はこれでも、おまえが昨日の雷で怪我でもしていやせんかと心配して来たのだ。少しは有難いと思え」  ありがとうございますと、宇佐はぺこりとした。頭を大きく動かすと、またちょっとふらっとした。これはたぶん、握り飯一個ぐらいでは空腹が満たされていないからだろう。 「もうしばらく休んでろ。何か食え。おまえ、ひと回り痩せたぞ。せっかくいい顔になったのに、働きすぎで死んだら元も子もない」  おお、そうだと、急に顔を明るくする。 「この寺でも、加賀様悪気封じの札を出しているか? どこへ行っても売り切れなのだ」  宇佐はあわてて渡部の袖を引っ張った。 「出してますけど、あんまり大きな声で言わないでくださいよ」  町役所でも番小屋でも、今のところは見て見ぬふりをしてくれてはいるが、本来、城下の者が加賀さまの放つ悪気がどうのこうのと言い立てるなど、許されることではない。あまり目立つようになれば、お咎めを受ける。 「和尚から一枚せしめるとするかな」  渡部はさばさばと歩き出す。振り向きもせずに、おまえもせいぜい雷には用心しろよと付け足した。 「俺もおまえも、何とか生き延びねばならんのだからな」  宇佐は小さく、渡部には聞こえないように、「はい」と答えた。  渡部は堀外へと坂道を降りてゆく。紅半纏の裾が風に翻《ひるがえ》る。その姿が木立の合間に消えたころになって、宇佐はふと思いついた。  和尚さまから聞いた浅木家の″病 ″ の話、渡部さまにも伝えればよかったか。  きっと驚くだろう。そしてまたあわてることだろう。あたしが、真相を聞いたからには放っておけないといきり立ち、和尚さまに馬鹿者めと叱られたと話せば、そうだそうだもっともだとうなずくことだろう。俺たちには手出しできぬ事柄だ。離れていろ。顔色を変え口を尖らせてそう言うだろう。目に浮かぶ。  だったら、やっぱり話さなくていいんだ   ——— あの和尚が、なぜそんな深い事情を知っているのだ? 坊主というのは油断ならんな。それとも、三幅屋からのつながりか。  驚く様子を見てみたい気もするけれど。  あの夜の和尚とのやりとりの後、宇佐も宇佐なりにいろいろ考えたものだった。世の中には秘められた事柄がたくさんある。丸海のような小さな藩にも、他人や他家に知られたくない事情を抱えた人や家がある。そしてそれらの大方は、上手に隠されたまま時をやり過ごす。  でも、何かを本当に覆い隠してしまうなんて、けっしてできることではない。たった一人の秘め事だって、悟られて知られてしまう。たとえば宇佐の、井上の若先生に対する気持ちとか。  二人、三人、四人と、関わる目と耳が増えれば増えるほど、ますます秘密は洩れ易くなってゆく。本人にそんな気がないままに、秘密の生まれる場に居合わせてしまう者もいる。和尚さまのように。宇佐のように。  そして、それらの洩れた秘密の大方は、今度は、|知《 ヽ》っ《 ヽ》て《 ヽ》知《 ヽ》ら《 ヽ》ぬ《 ヽ》ふ《 ヽ》り《 ヽ》の人びとのなかで隠されてゆくのだ。  浅木家の暗い秘密を聞いて、宇佐の心は大いに乱れた。しかし今は、別のことを考えている。琴江さまのことだ。  固く伏せられた琴江さまの死の真相も、知っている者は知っている。知って知らぬふりを強いられている。けれどもいつか時が来れば ——— 加賀さまお預かりが、どんな形であれ無事に終わり、事を明らかにしても良くなったならば、知っている者が知っていることを、知っているままにしゃべれるようになるかもしれない。  いや、かもしれないじゃなくて、そうしなくちゃいけないんだ。  それこそが、以前若先生のおっしゃっていた、時代が変わるということじゃないのか。  そのために、宇佐は覚えていなくてはいけない。すべてのことを。今の気持ちまで。覚えて、抱えて、しっかり生きていかなくては。  宇佐は思う。浅木家にだってきっと、あたしと同じように感じている人がいるはずだ。そうすると、雲の上の存在である浅木家の人びとが、急に親《ちか》しくも思えてくる。  いつかはきっと、みんなみんな明らかにしよう。もう誰も、秘密に苦しみ、苦しめられることのない世の中にしよう。秘密のなかで、人の命が失われることのない世の中に。  そんなふうに誓っている″誰か ″が、そこにも、ここにも、そこらじゅうにいるはずなんだ。     三  町役所に戻ると、井崎《い ざき》殿がおぬしを探しておられたぞと声をかけられた。 「書物倉で調べ物をしているから、戻ったら顔を出してくれということだった」  渡部は紅羽織を脱ぎ、刀を置いて書物倉に向かった。蔵の錠前は開いていたが、観音開きの戸は閉じていた。ひと声かけてから、その戸を引き開けて、渡部は内部に足を踏み入れた。  書物倉のなかは薄暗い。天井に近い明り取りの窓から差し込むひと筋の日差しがあるだけだ。書架に葛寵に書物棚。迷路のように入り組んでいる。古い墨と黴の匂いがする。 「井崎さん、おられますか」  かすかに板敷きを踏む音がして、奥の書物棚の陰から井崎が顔をのぞかせた。渡部はそちらに向かって進み、 「昨日の大電害で、城下はまだまだひどい有様です。片づけを終えるだけでも、あと数日は ——— 」  かかるでしょうと言いかけ、口をつぐんだ。井崎は床に座っていた。膝のそばに、いくつかの綴りが散らばっている。それらに読み耽っていたという様子ではない。  どうも生気がないように見える。 「どうかなさったんですか」  渡部は傍らに膝をついた。井崎は渡部の顔を見やり、つと間を置いてから、いきなり尋ねた。 「飯炊き長屋の茂三郎のことは、おぬし、もう調べてはおらぬよな。あの件は終わったことであるよな」  念を押す口調である。 「はい。井崎さんのお考えを聞きましたから。井戸水につき、夏場はよく注意するようにと回状を出し、ひととおりの手を打ちました。水のことなら柵屋敷だけでなく、町場の問題でもありますから、念入りにしたつもりです」  答えながら、渡部は、それが妙にとんちんかんな返答のように感じた。 「そうか、それならよかった」  気抜けしたように井崎は呟く。 「片付いていたのなら、それでいい」 「それを確かめるために、私を探しておられたのですか」 「ああ、そうだ」  井崎は黒色に艶光りする床板を睨んでそう応じた。渡部は胸騒ぎを感じた。井戸水に注意を呼びかける手配ならとっくにしていたし、その報告も済んでいたはずだ。  井崎は他の何か、もっと大切な何かを抱えている。それを言いたくて言い出せず、いや、言っていいものかどうか迷っている。そんな風情だ。  渡部の内に吹く臆病風が囁きかけていた。ああそうですか、ならばよろしいですねと言い捨てて、立ち去れ。気にするな。  一方で、頭のなかにはぐるぐると思案が回る。このところ、井崎と顔を合わせる機会がなかった。渡部の知らぬ間に、井崎は何をしていたのか。そういえば大雷害の折にも、井崎の所在がなかなかつかめず、彼がひょっこり町役所に戻ってくるまで、皆で案じたものだった ——— 「井崎さん、どうしたのです」  なぜ俺はそんなことを尋ねるのだ。尋ねて、引き出した答を背負う気迫もないくせに。なぜ知らぬ顔をしないのだ。 「どうもせぬ。用はそれだけだ」  胆力はなくとも、頭は回る。勇気はなくとも、知恵は走る。俺はそういう男だ。  些事だが不吉なことを思い出してしまった。  井崎殿は、茂三郎の顔に見覚えがあるようだと言っていた。昔、見かけたような気がする。しかし思い出せぬと。手がかりを求めて、二人でここにこもり、昔の記録をひっくり返してもみた。  が、記憶が蘇ることはなかった。  ごくりと、渡部は空唾を呑んだ。 「井崎さん、もしや思い出されたのですか」  必要なときには戻らず、忘れたころにやって来る、厄介な記憶。 「茂三郎とどこで会ったことがあるか、思い出されたのではないですか」  井崎はそろりそろりと顔を上げた。まるで、動作をすることで音がたつのを恐れているかのように。  誰の耳を憚っているのか。渡部の心の臓がどくりと打った。 「浅木家でも流行病が出ている」  呼《い》気《き》に近いほどにひそめた声。 「柵屋敷で流行っているのと似た病だ。そして、十五年前にあの家で起こった病とも同じ種類のものだ」  言われなくても知っている。堀外でも堀内でも、もっぱらの噂だ。渡部は聞いて聞き流していた。それがどうして茂三郎につながるのだ? 「ご城代からのご指示があり、公事方にも請われて、私は浅木家に伺った。つい昨日の午前《ひるまえ》のことだった」  十五年前にも同じようにしたと、ぼそりと付け加える。 「堀外では、涸滝に入った加賀殿が、十五年前に封じ込められた病を起こして城下にばらまいているのだと噂していますよ」  わざと大げさに手振りをつけて、渡部は言った。 「浅木家の病もそれと同じ、すべて加賀殿の所《せ》為《い》です。人外の化け物の悪気が起こす病だ。まったく手に負えない代物です」  聞いているのかいないのか、井崎は依然、床板に目を落としたままだ。 「浅木家では元服したばかりのご嫡男が病んでおられる。家守が死んだ。その亡骸の検屍に、私は呼ばれた」  災難ですな。混ぜ返すつもりで口にした言葉が、渡部の喉につかえた。 「十五年前と同じことの繰り返しだ。あの折はご次男が病み、一時は命も危ぶまれた。女中が病みついて死んだ」 「浅木家の係医は、匙の杉田でしょう。何をしておるんですかな」  さらに気楽を装って、渡部は頑張る。 「とっとと治してしまえばいいものを」  ようやく井崎は顔を上げた。明り取りの窓を背にして、かえって顔が陰になる。 「同じ場所、同じ用件、同じ景色だ」  呪文のように、低く唱える。 「それだからだろう、あれほど思い出せなかったものが、ひょっこりと出てきた。私は思い出してしまった。茂三郎とどこで会った覚えがあるのか」  先を聞くまでもない。浅木家だ。 「勘違いということもあります」 「いや、間違いない。茂三郎は、十五年前には浅木家の下男をしていた」  もう押し留めることはできない。聞きかじったものを断ち切り、ここから出てゆくことはできない。 「今般の病で命を落とした家守の口元からも、茂三郎と同じ、苦いようなすっぱいような臭いがしたよ……」  |あ《 ヽ》れ《 ヽ》は《 ヽ》毒《 ヽ》だ《 ヽ》。渡部のもっとも聞きたくない言葉が、井崎の口からすべり出る。 「病ではない。毒だ。浅木家の内に毒使いがいる」  はっはぁ、それは大胆な説だと、渡部は笑ってごまかそうと試みた。下手な芝居だ。声が上擦る。作り笑いを裏切って、額に浮いてきた冷汗が本心を語る。 「流行病ですよ、井崎さん。加賀殿の所為です」 「此度は、それが格好の隠れ蓑になっているようだな。十五年前とは、そこだけが違う」  吐き出し始めると、いっそ諦めがついてほっとしたように、井崎は肩の力を抜いた。 「浅木家の毒使いは、何をしようとしてるんです? 私にはわかりませんな」  尚も事態をいなそうと、渡部は試みる。井崎はそれを、痛ましいものを見るように仰いだ。 「恐らくは跡目争いだろう。浅木家には、奥方にも側室にも男の子がいる」 「だったら、狙われるのはそのお子たちだけのはずだ。家守や女中が毒を盛られる筋合いはあり ません」 「病に見せかけるためさ。わかっているだろう、おぬしも」 「わかりません」渡部は突っ張る。「井崎さん、作り話で私をかつぐのはほどほどにしてください」  笑う声がひび割れる。とうとう自分でも耐え切れなくなり、渡部はがくりと嘆息した。  二人とも黙った。書物倉の外で小鳥がさえずっている。小さな明り取りを通して、楽しげに聞こえてくる。  渡部の身の内に、諦めが染み渡ってきた。毒食らわば皿までだ。なんともこの場にふさわしい譬《たと》えではないか。 「わかりました。わかりましたよ」  呟いて、二度三度とうなずいた。井崎の顔に、安堵と不安がない交ぜになって浮かび上がる。 「済まぬ」と言った。 「今さら謝らないでください。で、茂三郎はどう関わっていたのでしょう」 「いわば使い魔だろう」と、井崎は答えた。「毒使いに操られているのだ。自ら手を下さず、女中や下男に毒を盛らせる。その方が事を成し易い。武家では、ご家族が手ずから茶を入れたり飯を炊いたりなさらないからな」 「しかしそれなら、十五年前の企てが失敗に終わった後、なぜあの爺は浅木家を出されたのです? 毒使いの側から見れば、茂三郎は大変な秘密を握っている存在だ。生かしておくのは危険に過ぎます」 「またの機会がある。手駒として取っておこうということだったのではないか。一度しっかり使い魔として仕込んだ者だ。あてになる」  丸海の武家の下男下女は、渡り奉公と掛け持ちが当たり前だ。卑しい下働きの彼らの出入りに、誰もいちいち気を尖らせたりしない。 「いったん外に出してほとぼりを冷まし、必要な時期が来れば呼び返す。もしも事が露見したなら、おまえがいの一番に首を落とされると脅しつけておけば、知恵のない一介の下男だ、簡単に操ることができたろう」  渡部は考えていた。茂三郎の請け人となった磯屋の背後には、浅木家がいたのだ。失火で潰れてしまったが、磯屋は大商人だった。ご城代の家とつながりがあっても不思議はない。  ふと、寒気と共に思い至った。磯屋の失火も、本当に失火だったのだろうか。茂三郎を通して何かまずいことを察知し、それ故に潰されたということではなかったのか。  自分の疑念に自分で首を振り、大急ぎで打ち消した。そこまで深読みすることはない。余計なことを考えるな。 「仕掛けているのはどちらなのでしょうな。奥方側ですか、側室側ですか」  気弱な笑いを漏らして、井崎はかぶりを振った。「さてな。側室のお子は文武に秀でて英明という評判がある。しかし跡継ぎは正室の子であるのが道理。どちらにも、互いを除いてしまいたい理由がある」  ただ ——— と、いっそう声をひそめる。 「浅木家の奥方は、匙筆頭杉田の家の出だ」  渡部は思わず身を硬くして、井崎の顔を見た。井崎はかすかに眉根を寄せている。 「匙家というのはただの医家ではない。丸海の重臣の家系と幾重にも姻戚で結ばれ、利害関係を共にしている。そして、人を癒す薬に通じる者は、人を殺す毒にも通じている」  薬と毒はひとつのものの裏表だと、啓一郎も言っていた。 「匙七家には、それぞれ秘伝の薬がある。そのなかには、病を癒すために使われるばかりではない種類のものも混じっている。今日に始まった話ではない。丸海の匙家は、藩の中枢深く入り込み、代々そういう役割を負ってきた。必要なとき、不必要な者を除く役割を。そのための知恵を守り受け継いできた」 「やめてください」渡部は声を高め、あわてて首を縮めた。「私などには不要の知識です。知りたくない」  身体ごと押し返すようにして抵抗しながら、頭の隅に、ちらりと横切るものを感じた。梶原家の美祢のことだ。宇佐が、琴江を殺した毒をどうやって手に入れたのかと問い詰めたとき、あの女は答えたという。梶原のような家の者ならば、何とでもなると。  あの女も、匙のどれかの家に伝手をつけたのか。梶原の家も、匙家と通じているのか。あるいは、何らかの代償を約束することで、匙の誰かを抱き込んだのか。  小さな藩の、入り組んだ家系と血筋。複雑に絡み合う思惑と利害。  渡部は目をつぶり、断固としてその思考を断ち切った。 「知ってよいことでもありません」  自分に向かって、声に出して言い聞かせた。  そうだな……井崎は気落ちしたように呟いた。もう一度、「済まぬ」と言った。 「井崎さん、どうされるおつもりです」 「どうする? 何をどうするのだ」  探るように、互いの目の裏を読む。 「何もできはしないよ。我らの手には負えぬこともある。少なくとも、今は」 「それを伺ってほっとしました」 「毒を盛るというのは案外難しいことだ。盛られる側も、一度、二度と怪しいことがあれば気をつける。浅木家の内の攻防だ。また十五年前のように、家の内で片がつくだろう」  ただ、茂三郎には哀れなことだったと言い足した。 「思うに、あれは自死ではなかったかな。もう使い魔にされるのが嫌だったのだろう」  頭のなかで、渡部はその説を吟味してみた。淋しい独り身の、身寄りのない老人。高齢で身体が弱り、頼るあてもない。飯炊き長屋でひっそりと、隠れるように暮らしていた。  よせばいいのに、閃いた。 「山内家の|食《 ヽ》あ《 ヽ》た《 ヽ》り《 ヽ》には、やはり茂三郎がからんでいたのでは」  十五年前の浅木家の ″病 ″ と似た症状。もっとも早く、加賀殿が丸海人りする以前に起こった ″病 ″だった。 「たとえば、茂三郎が浅木家の毒使いに強いられて、毒の効き目を試してみたとか」  それ故に、あの ″病 ″ があってすぐに、茂三郎は山内家を立ち退いてしまった。飯炊き長屋に逃げ込み、しかし、どうでも逃げ切れぬと悟って自ら死を選んだ ——— 「やめろ」と、井崎が静かにたしなめた。「考えても詮無いことだ。憶測に憶測を重ねても、確かなものにはならぬ」  なったとしても、どうしようもない。 「おっしゃるとおりだ。私は忘れます。何も聞きませんでした。井崎さんも何もご存じない。何も思い出さず、何もしゃべらなかった。そうですね?」 「ああ、そういうことだ」  さばさばと、心に風を通そう。渡部は、仕草だけでも元気に立ち上がった。 「さあ、出ましょう。こんな黴臭い場所に長居するものではない」  井崎は続かなかった。少しここらを片付けてから行くと、後に残った。  渡部は、上手く言葉に表しようのない、気配のようなものに後ろ髪を引かれて振り向いた。井崎はまだ座り込んでいる。丁寧に記録の綴りを拾い上げ、積み重ねる。ゆるゆるとした仕草。うなじのあたりが妙に老けて見えるのは気のせいか。 「井崎さん」  呼びかけに、井崎の手が止まる。 「大丈夫でしょうね」  顔を伏せたまま、何が大丈夫なのかと問い返してきた。 「井崎さんが思い出したことを、思い出されては拙い人物に悟られてはいませんね? 茂三郎のことを、浅木家の耳に入るよう話題にしたりしていませんね?」  井崎は首をよじって渡部を見ると、目元で笑った。 「心配するな。私もそれほど不用意ではない」  渡部はにっと笑い返した。そのまま書物倉を出た。そのとおりだ。井崎さんは手馴れだ。狸だ。俺よりももっと慎重だ。  心のなかでそう繰り返した。しつこいほどに、幾度も幾度も。       騒乱      一  あの大きな落雷で小屋が壊れてしまって以来、|ほ《 ヽ》う《 ヽ》の住いは涸滝の屋敷内に移った。西詰所の隣の窓もない小座敷で、もとは布団部屋であったところだ。しかし、毎日の仕事と、加賀さまへのご機嫌伺いの手順に変わることはない。  落雷の翌日、加賀さまのお部屋に上がったときには、真っ先にこうお尋ねを受けた。 「昨日の雷で、ここに詰めている藩士が一人死んだと聞いた。雷は裏庭に落ちたとも聞いた。おまえはその時、どこにいたのか」  ほうはお返事することができなかった。すぐ手の届きそうな場所で丸焦げになって死んだあの御牢番の姿が、頭のなかいっぱいに広がる。その光景から、どうやっても心の目をそらすことができない。  泣き出してしまった。それまでは泣くと叱られるから、必死になってこらえていたのだ。その堰が切れた。  加賀さまはほうの様子を見て、お察しになったようだ。 「怖い思いをしたのだな」  ほうはただ泣いていた。 「今日は手習いをしなくてよろしい。泣くがいい」  言われたとおりに、ほうは涙が涸れるまで存分に泣いた。やっと泣き止んだころには、もう下がる刻限だった。 「この地には、雷避けの霊験あらたかな神がおわすと聞いたことがある。おまえは知っておるか」  下がる前に、加賀さまがほうを呼び止めてお尋ねになった。 「はい、日高山神社です。わたくしもお守りを持っています」  でもその神社の本殿も、昨日の雷で焼けてしまったと、ほうは台所で聞きかじっていた。  それを申し上げると、 「焼けたのか」と繰り返して、加賀さまはとても険しいお顔をした。ほうの目には、日高山神社を怒っておられるかのように見えた。 「ですから、丸海にはもう、雷からわたくしたちを守ってくださる神様はいらっしゃらないと、料理番の人たちが話していました」  加賀さまは顔を上げた。 「おまえも怖いか」 「はい、怖いです。加賀さま、神社が焼けてしまったら、もうお守りにも効き目がなくなってしまうのでしょうか」  料理番たちはそのことでも盛んに言い合いをしていたのだ。そして何だかわけのわからないことも話していた。加賀さまのお札がどうだのこうだの。 「おまえにそのお守りを買い与えたのは誰だ。先《せん》に話していた琴江という娘か」 「いいえ、おあんさんです」 「では引手の娘の方だな」 「はい。わたくしを神社に連れて行って、買ってくれました」 「ならばそのお守りには立派に効き目がある。おまえを守るのは神ではなく、おまえを案じてくれたその娘だ。だから怖がることはない。よく覚えておきなさい」  はい、と平伏して座敷を出るとき、ほうは不思議に心が安らかになっていることに気がついた。  自分の小座敷で、襟元に縫い込んだあの雷避けのお守りを取り出してみた。赤くて小さな網袋だ。   ——— このお守りがあんたを守ってくれるからね。大事にするんだよ。  おあんさん、ありがとう。もういっぺん丁寧に襟のなかに縫い戻した。  翌日からは、手習いが再開した。ほうは立派に「海」と「山」の字が書けるようになった。次に加貿さまは、「天」と「地」を覚えるようにおっしゃった。さらに、ほうが算盤を習えるよう、二見さまにお願いしているとおっしゃった。  落雷以来、ますます涸滝のお屋敷の雰囲気は重くなり、御牢番の人びとは足音も声も潜めている。それなのにどことなく騒がしい。  大人たちの浮き足立った様子は、ほうの心も乱した。落ち着かなくて、小寺さまに会っていないことに気づくまで、時がかかった。違うお顔の方が、ほうにあれこれ指図をなさる。石野さまに続いて小寺さまも、別のところに行ってしまわれたのだろうか。  気になるから、新しい御牢番の世話役の方にお尋ねしてみた。と、その方は(とてものっぽで、うんと見上げないと目が合わない)、にわかに顔色を悪くして、 「病だ。病で休まれている」と答えた。逃げるような早口だった。  その後、南詰所を掃除しているときに、 「小寺さまも石野と同じように、詰め腹を切らされることになるんだろうか」 「いや、そこまでは行くまい。役柄が違うからな」 「だとしたら、上手く逃れたものだ」  そんな立ち話を耳にした。詰め腹を切らされるって、どういう意味だろう。でも腹を切るというのは ———  その日、加賀さまに「変わったことがあったか」とお尋ねを受けたとき、ほうはその疑問を口にした。加賀さまは眉をひそめて、一時《いっとき》、ひたとほうの顔を見た。 「私は、石野というおまえの世話役は、もうここには戻らぬと言った」 「はい、お伺いいたしました」 「おまえは、それだけを心に畳んでおけばよろしい」  畏れ入って承らねばならないお言葉だ。が、ほうはどうしても、今度ばかりは我慢ができなかった。胸に浮かんだひとつの考えがあまりに怖くて淋しくて、しまい込んでおかれなかった。思い切って続けた。 「加賀さま、石野さまは亡くなったのでしょうか」  加賀さまの、それでなくても動きの見えない瞳が、いっそう細くなった。 「なぜそう思う」 「お武家の方が腹を切るというのは、そういうことだと思います。ほうはまちがっておりますでしょうか」  こう問い質すことの不躾《ぶしつけ》さ、弁《わきま》えのなさに怯えて、座ったまま、ほうはがたがた震えていた。加賀さまにはそれが見えているはずだ。 「間違ってはおらぬ」と、おっしゃった。「石野という者の姿が見えなくなったのは、おまえがこの座敷に逃げ込んできた、あの曲者《くせもの》の一件があってから後のことだったな」 「は、はい」 「それならば、曲者の侵入を許してしまったことで、何らかの咎を受けて腹を切ったのだろう。石野に罪があったわけではないが、誰かが罪を受けねばならぬ故に、石野が追い込まれたのだろうよ。おまえの世話をするほどに、軽輩の者だったのだろうから」  後ろの方は難しくて意味がわからなかった。ほうの頭は、石野さまは死んでしまったんだということだけに満たされた。  ほうがこの問いを投げたのが、加賀さまではなく、たとえばあの不機嫌な小寺さまであったのならば、もっと直裁な答を与えられたことだろう。そこには強い非難も混じっていたことだろう。   ——— 石野はおまえの世話役だった。いちばん熱心に、おまえの世話を焼いていた。だからこそ、そのおまえが、あろうことか加賀殿のお部屋に入り込むような間違いをしでかしたが故に、厳しい咎めを受けて腹を切る羽目になったのだ。石野が死んだのはおまえのせいなのだ。あおりをくって、相役のこの私の首も危ない。それがわからんのか、この阿呆めが。  そうだ。ほうにはわからない。ただ石野さまの赤いほっべたが懐かしい。もうお会いできないことが悲しい。  また涙が出てきた。 「泣くな」  鞭《むち》で打つように、加賀さまはおっしゃった。「今度は泣くな。泣いても詮のないことだ。おまえのためにもならぬ。泣くくらいなら、朝晩、石野に親切にしてもらったことを思い出し、感謝をすることだ。その方が石野も喜ぶ。だから泣いてはいけない」  涙を止めるのは難しい。しゃっくりをしたり咳をしたり、頭を振ったり目をつぶったり、ほうはできる限りのことをした。はあはあと息が荒くなる。 「今日は、おまえの名を教える」  ほうの努力を冷たく無視して、加賀さまはどんどんと言葉を続けた。筆を取り、するすると書き付ける。そしてそれを掲げてほうに見せた。 「これが今日からおまえの名を表す文字だ」  そこには「方」と書いてあった。 「易《やさ》しい字だから、すぐ覚えられるだろう。書いてみなさい」  洟《はなみず》をすすりながら、まだ震える手で、ほうは何とかその文字をなぞって書いた。 「この字は ″ほう ″ と読む。方向、方角を意味する文字だ。おまえは阿呆のほうではなく、今日からは方角のほうだ」 「どうしてで、ございますか」 「これまでのおまえは、己が何処にいるのか、何処へ行こうとしているのか、何処へ行くべきなのか、まったく知らぬ者であった。なるほどそれは阿呆のほうだ。が、今のおまえは、己が何処にいるか、何処へ行くのか知っている。だから、この ″方 ″ の字をあてる」  ほうは、ほっべたに残った涙のあとを手の甲で拭い、顔を上げた。 「加賀さま、わたくしは、わたくしがどこへ行こうとしているのかわかりません」 「いや、わかっている」  ぴしゃりと、厳しいお声だ。 「おまえは日々働き、手習いをしている。それは何のためだ? この加賀の機嫌をとるためか。それは違う。おまえはおまえのためにそれをしている」 「そしたら、わたくしはいつ、どこへ行くのでしょう。どこに着きますか」 「 ″ひと ″ のいるべき場所に着く」  判じ物のようだ。ひと? ちゃんとした大人のことだろうか。 「琴江さまや、おあんさんのようになれるのでしょうか」 「そうだ。それを心に刻んで、この字をよくさらいなさい」  ほうが「方」と書けるようになると、さらに、二見さまからお許しが出たということで、算盤の稽古も加わった。  涸滝の内の牢番たちの動揺は、城下の不穏な空気をそのまま持ち込んだものだった。そこで醸《かも》された彼らの狼狽がまた城下へ波及して、乱れを増幅してゆく。皮肉なその回流を、誰がこしらえたわけでもないのに、しかしそれは出来上がってしまった。  丸海を囲む潮の流れよりも強く、逆らうことのできないその回流を、ほうが感じ取ることは、未だなかった。日々習い覚えることについてゆくために駆け足をしているほうの頭と身体は、涸滝の屋敷の外側で起こりつつあることを察知するにはあまりに小さく、幼くあり過ぎた。     二  流行病の病人の手当てに、落雷の怪我人や、家を失った人びとの世話も加わり、宇佐は日々追われるように働いていた。それでも、用足しのついでに足を伸ばし、漁師町の磯番小屋に、潮見の宇野吉を訪ねた。無事を確かめたかったからである。  宇野吉は出かけていた。居合わせた磯番が、寄り合いに出かけていると教えてくれた。 「昨日の夕、また雷が落ちたからな」  まったく知らなかったから、宇佐は仰天した。「どこに? 何も聞こえなかったよ」  昨日は夕立さえなかったはずだ。 「海だもの。舟がやられたんだ」  あの雷害で日高山神社が焼けた後、漁師町ではかなりの騒動が起こった。漁師たちが恐慌状態に陥り、このままでは漁に出られないと、船奉行所に訴えたのだ。  海で遭う雷の怖さは、陸のそれの比ではない。だからこそ、漁師たちの日高山神社への信仰は篤い。お日高さまが弱っておられるときに、海に出るなど無謀のきわみだ。どんな形であれ、とにかく神社が建て直されるまでは誰が海に出るもんかと、漁師たちは怯え騒いだ。さすがの潮見たちも、それを押さえ込むのに手こずった。  休めば収穫がまったくなくなるわけだから、当然、船役人からは許しが出ない。だいいち、神社を建て直すには相当の月日がかかる。そのあいだずっと漁を休めば、みんなで干上がってしまうだけだ。  漁師たちも重々わかっているのである。でも騒がずにいられないほど、土台から浮き足立ってしまったのだ。老練な潮見たちもそれは承知している。ではせめて三日の漁止めをということで、船奉行の許しを得た。いずれにしろ、雷害の後は魚が逃げ散っている。船を出しても同じことだ。潮見としてはその三日で、漁師たちの不安も鎮められると見込んだ。稼がなくては暮らしが詰まるという実感も、三日あれば湧いてくるだろう、と。  昨日で、その三日が過ぎたのだ。漁師たちもどうにか落ち着きを取り戻した。  そして船を出したら、途端にやられた。 「何の前触れもなしさ。夕焼けの空からさ、おやちょっと風が出たぞ、妙だぞって思ったら、いきなりだ。ひっくり返って、乗り手はみんな海に投げ出された」  幸い、死者は出なかったという。 「じゃあ、今日は ——— 」  言われて見渡せば、あまりにも多くの漁船が繋がれている。桟橋には人気《ひとけ》もない。網は丸められて片付けられ、削ぎ刃を使う女たちの姿も見えない。 「宇野吉おじさんたちは、何を話し合ってるんだろ」  磯番の男は、濃く日焼けした額に筋を寄せてしかめ面《つら》をした。 「お日高さまの本殿を建てる相談だよ。奉行所に任せっきりじゃ、いつになるかわかったもんじゃねえからな」 「だって、お日高さまが安泰でなくっちゃ漁はできないってことは、お船奉行さまはよくご存知でしょうに」 「そりゃ知ってるだろ。だけど、神社のことはお寺社の縄張りだ。いくらこっちでせっついたって、金がねぇって言われたらしまいだよ。お日高さまがなくちゃ不安なのは、堀外の塔屋や町屋の連中だって同じなんだから、町役所だって困ってるだろうけどさ、もともとこっちとは按配《あんばい》よくねえから ——— 」  そうだ、船奉行と町役所は犬猿の仲。お城の勘定方と寺社奉行を相手に、共闘することができない。 「そういやぁ一昨日だったかな、何の用があったんだか堀外の引手が来て、船が陸《おか》にあがってるのを見て、おまえら怖気づいてるのかとか何とか笑いやがったんで、みんなで海に放り込んでやった」  軽率なバカだ。どこの小屋の引手だろう。 「それじゃ、本殿の建て直しを、漁師町だけで何とかしようっていうの?」 「そうできりや、そうしたいさ」  磯番の男は苦笑いに崩れた。 「だけど、仮にも神社を建てようって算段だぜ? 無理だ無理。だから、旅籠町と塔屋の名主連と話をまとめようとしてる」  お役人同士の角突き合いがおさまるところにおさまるまで、悠長に待ってはいられない。とにかく集められるだけのお足を集めるつもりなのだという。 「たいして目覚しいことでもねえよ。どっちにしろ、本殿を建てるための金は、俺たち領民からの運上金でまかなうしか手がねえんだからな。お城の金蔵はあてにならねえ。ただお沙汰を下すだけよ」 「お城、そんなにお金に困って ——— 」  口に出してから、言うまでもないことだと宇佐は気づいた。磯番の男が、それを見てうなずく。 「例の加賀さまお預かりとやらで、えらく散財したらしいからな。それに来年は殿様、江戸入りだろ? 」  参勤交代の年なのだ。たいへんな物入りである。 「そのための蓄えを使っちまうわけにはいかねえってことよ」  退屈そうに、磯番小屋の蔀窓《しとみまど》から海の方へ目をやって、男は大きな声で呻いた。 「あ〜あ、何で俺たちがこんな目に遭うのかね。もとはと言えば、あの加賀守とかいう奴が悪いんだろう? あいつが来てから、おかしなことばっかりだ。うちの方じゃまだそんなでもないが、堀外じゃ流行病まで出てるってのは本当かい?」 「ただの夏の病だと思うけどね」宇佐は慎重に返答した。「この暑いのが通り過ぎれば、すうっと収まるよ」 「どっちにしたって難儀だよ。海へ出なきゃ干上がる。出りや雷に打たれる。船を捨てて堀外へ行きゃ病にかかる」  なあ、と男は宇佐の方に身を乗り出した。「おまえのこと、宇野吉親父から聞いたことがあるぜ。引手をやってるんだってな。だったら ——— 」 「今は違うよ」宇佐は素早く遮った。 「何だ、そうなのか。ま、女だからな」  見下げたような口ぶりよりも、宇佐は、一瞬見せた男の企み顔の方が気になった。 「だったら、何さ。続きを言ってよ」 「あの涸滝の屋敷のことも、よく知ってるんじゃねえかなって思ったのよ」 「知ってたらどうするの?」  男は斜めに宇佐を見て、口元をゆっくりとほころばせた。そして声を潜める。 「涸滝にいる御仁が元凶なら、すっぱり退治しちまうのがいちばんの手だろ? そう思わねえか」  あまりに軽く、楽しそうに囁《ささや》かれたので、宇佐はとっさにその意味するところの重大さをつかみかねた。退治って ——— 「漁師町じゃ、みんなでそんな話をしてるの?」 「大きな声を出すんじゃねえよ」 「そんなことをしたら、丸海藩は大変なことになるんだよ! わかってるの?」  男は大仰《おおぎょう》に目を剥《む》いてみせた。「いいじゃねえか藩がどうなろうと。俺たちが食っていくことの方が先だ。侍たちゃ勝手にどうでもなればいい」 「あたしはもう引手ではないけれど」宇佐は歯を食いしばって言った。「お城に弓引くようなことを聞き捨てにしてはおかれない」 「おお、怖い怖い」  男は笑う。宇佐をからかっているのだ。からんでいるだけだ。  でも磯番の男の理屈は、ひょっとしたら、今の窮状に怒る丸海の領民たちの多くが共感するものであるかもしれない。畠山の殿様は駄目だ。こんな難儀な、百年に一度の難しい課役をおめおめと引き受けて、上手にこなすこともできず、そのツケをわしらに押しつける。この際、別の領主に代わってもらった方がいい。改易されてしまえ。  しかし宇佐は違う。何よりも先に頭をよぎったのは、井上啓一郎の顔だった。畠山家が潰れたら、代々仕えてきた匙の井上家もその地位を失ってしまう。若先生が路頭に迷う。  が、次の一瞬、(本当にそうか) という囁きが、頭ではなく心の奥の方から聞こえてきた。(宇佐よおまえは、本当にそれを恐ろしい事態だと思うか)  井上家が匙の格式と禄を失っても、舷洲先生も啓一郎先生も医者であることに変わりはない。お二人とも堀外の者たちに慕われている。畠山家に仕える匙家という伽《かせ》を離れて、むしろ今までよりものびのびと丸海の人びとに交わり、新しい領主の新しい治政のもと、一介の町医者として生活することが、充分にできるのではないか。  学問好きの若先生など、そっちの方こそふさわしい人生であるかもしれない。それに、それに ——— (そうなればおまえも、身分の差に苦しむことはなくなるぞ)  その囁きで頭が割れそうになる。無数の海鳥が、そう囁き交わしながら宇佐の頭のなかで飛び回る。 「おう、宇佐じゃねえけ」  野太い声が宇佐を呼んだ。磯番小屋の戸口に宇野吉の倅、勝が立っている。袖なしの刺し子の半纏からにょっきりとのぞく腕が、丸太のように太い。 「ああ、そうか」磯番小屋の男が手を打って、野卑な声をあげた。「この宇佐って娘は、勝さんの女だったっけなぁ」  勝はくしゃくしゃっと顔を崩した。「何言ってんだよ、そんなんじゃねえ」  宇佐は二人の姿を見て声を聞いている。自分だけがそこにいないような気がした。ふらふらと小屋から出かかった。 「なんだ、親父に用があったんじゃねえのけ」  勝の問いかけを背中に、宇佐は歩き出した。一歩進むごとに身体が焼けてゆくようだ。  あたしは何という恥知らずだ。自分の想いをかなえたいがために、一瞬でもあんなことを思うなんて。  若先生は、丸海藩のためだ、こらえてくれと、あたしにまで頭を下げた。その姿を目にしていながら、どうしてあたしは、こんな下劣で浅ましいことを思うのだ。    三 あいつぐ落雷、流行病の跋扈《ばっこ》で人心が荒れているせいだろう、丸海の町ではつまらない喧嘩沙汰や物盗りが増えていた。おかげで渡部一馬も忙しい。  見廻りでは塔屋にも立ち寄る。「離れ屋」も彼の見廻りの内だ。八朔の大雷害で、ここは無事だったが、隣の塔屋の煙抜きが倒れて、怪我人が出た。  おさんとはすっかり顔なじみになった。いろいろ話すうち、渡部は、以前宇佐に託したほうのための古着を仕立て直したのはおさんであると知った。 「宇佐のやつめ、女子《おなご》の手仕事はまるで駄目なのだな」 「昔からお針は苦手なんですよ」と、おさんはとりなすように笑った。「でもね渡部さま、仕上がった古着をどうやってほうに差し入れようかって、あれこれ考えたんですよ。だって、あたしらじゃ涸滝に近づくことさえできなくて」  匙の先生に口をきいてもらった、という。 「なんだ、結局は啓一郎に頼んだのか」 「いえ、井上の若先生じゃありませんよ。香坂の泉先生です」  おさんのぷっくりとしもぶくれの顔が、思案でもっとふくれた。 「そういえば宇佐ちゃん、一時は寄るとさわると井上の若先生の話ばっかりしてたけど、このごろはとんと何も言わないですね」 「今も宇佐はここに顔を出すのけ」 「たまにね、お使いの行き帰りに」 ほうが涸滝から帰ってきたら、今度こそ塔屋の仕事を覚えさせたいから、よろしく頼むと話すという。  離れ屋でも、例の流行病で寝込む者が多い。おかげで手不足だとおさんはこぼした。 「あんたは元気なようだな」 「あたしは今までの夏だって、ぴんしゃんしてましたからね。今年はみんなおかしいんですよ。あれは気の病だよね、渡部さま」  冷静なことを言う。ただ、言ったそばから顔を曇らせ、 「でも、お日高さまが焼けちまったのは剣呑ですよ。本殿だけでもいいから、早く建て直してくださらないかしら。今、ご神体はどこにあるんです?」 「浅木家のお預かりになっている」  もともとあの家が禰《ね》宜《ぎ》なのだ。 「あたしら塔屋でも、建て直しのために寄り合ってお金を出すんです。ちょっとでも早い方がいいですもんね」  渡部も堀外や漁師町で金を集めていることは聞き知っていたが、同時に、本殿再建をめぐる町役所と船奉行所の諍《いさか》いについても、連日耳にタコができるほど見聞きしているので、おさんほど楽観的にはなれなかった。 「おまえたちの殊勝な気持ちは立派だが、そう易々と本殿が建つとは思わん方がいい」 「あら、そうなんですか」 「俺たち町役所は、それだけの金が集まるなら、町場のために使った方がいいと考えている。まず養生所が増やせるしな。それに、今年の雷害のひどいことは、大坂湊にも知れ渡ってしまったから、放っておけば金比羅詣での船便が他所へ回ってしまうだろう。そっちの手当てもせにゃならん」  要するに、大坂の船宿に金を握らせて因果を含めるのである。 「本来なら、それは船奉行が真っ先に考えてしかるべきことだ。なのに、漁師たちが騒ぐのに振り回されて、肝心なことを忘れている。丸海は漁で保っているわけじゃない、金比羅詣での客に食わしてもらっているのだ」  おさんが下を向いて笑う。 「何だよ」 「いえね、渡部さまはいつも、役人などつまらんというお顔をなすってますけど、やっぱり町役所の方ですねぇ」  冷やかされているようである。 「でも本殿が建たないんじゃ、あたしらこれからどこへお参りしたらいいんでしょう。浅木さまのお座敷は堀内にあるんだもの、あたしらじゃ立ち入れませんよ」 「心配するな。とりあえず、ご神体を祀るお堂だけは建てることが決まった。地蔵堂のような小さなものだ。それならば、ずっと安く済むからな」 「安上がりですか」 「しかし粗末なものにはなるまい。そのために、浅木さまが大坂から宮大工を呼び寄せられるそうだから」  その費用も浅木家が持つという話だ。 「まあ、ありがたいことですよ。いつ始まるんです? 」 「建てる前に、なにやら儀式を執り行わねばならん。四、五日後のことだろう。それには殿も御成りになるぞ」  そのために、渡部たちは輪をかけて忙しくなるのである。藩主を始め藩の重臣たちと、各奉行職が儀式に列席するとなれば、警備だけでもひと騒動だ。別段、彼らを何かから守らねばならぬわけではないが、形は必要だ。 「あたしらは見られないんですか」 「そりゃ無理だ。ここから拝んでおけよ。儀式をやっていることは、遠くから見たってわかる。筆火《かがりび》を焚くからな」  ご神体に戻っていただくための大切な儀式だから、浅木家では念入りに、ふさわしい日和と時刻を調べた。その結果、どうやら儀式は深夜に行われることになりそうなのだ。陽のあるうちでは星の巡りが良くないとかいう話だが、渡部にはよくわからない。星など、どのみち昼には見えないのだからどうでもよさそうなものだが。  離れ屋を出ると、西番小屋に寄る。型どおりに様子を聞いていたら、よく宇佐にからんでいた花吉という小僧のような引手が、盛んにくしゃみをしてうるさい。 「あいすみません。こいつ風邪を引き込みまして」  頭見習いの孝太が言い訳をした。 「漁師町の連中にやられたんですよ。まったく情けねぇ」  決めつけられて、花吉はにわかに口を尖らせた。 「だって多勢に無勢だったんですよ。あんな大勢に寄ってたかって殴られたんじゃ、ひとたまりもねえよ」  何でいざこざになったんだと尋ねると、花吉はしばらく渋っていたが、しゃべらないうちは勘弁してもらえないようだとわかったのか、口元をひん曲げるようにして白状した。大雷害の後、連中が漁に出ていないのをからかって、海に投げ込まれたのだ、と。 「バカなことをしたものだ」渡部は叱った。「漁師町の者どもは、日高山神社を仰ぐ気持ちが俺たちとは違うのだ。同じ氏子でも、こればっかりは信心の度合いが違う」  花吉の減《へ》らず口は止まらない。 「神頼みしなくちゃ海に出られないのは、へなちょこでしょうが」 「そういう話ではない。おまえも堀外の引手なら、少しは弁《わきま》えんか。引手が喧嘩の元になってどうするんだ」  花吉は、何かというと「女のくせに」と宇佐を見下げていたらしい。が、この様子では、宇佐の方がよっぽどものがわかっている。渡部は腹立ちを抑えながら番小屋を出た。  養生所に立ち寄ると、ちょうど啓一郎が治療にあたっている最中だった。 大雷害が起こる前よりは、ここに泊まっている病人たちの数は、少しばかり減ったように見える。流行病の方は山を越したか、あるいは、皆の気持ちが雷害へと向いたので、おさんの言葉を借りるなら「気の病」の方は鎮まってきたのかもしれない。 「何だ、こんなところで油を売っていていいのかね、紅羽織の旦那」  啓一郎は渡部の顔を見ると、そんな軽口を叩いた。一時は寝る間もないほどの多忙さで、だいぶ頬がこけたようだ。 「こんなところとはご挨拶だ。このやりくりが厳しいなかで、町役所のありがたいご沙汰があったからこそ、養生所はできたのだ。そうでなければ、これらの病人たちは、未だに匙家の診察室に溢れていたに違いないのだぞ」 「まるで、おまえの懐が傷んだかのような言いようだ」と、啓一郎は笑った。「何か急ぎの用向きか?」 「いや、ただ様子を見に寄っただけだ。大事がなければ、それでいい」  立ち去ろうとすると、呼び止められた。 「一馬、井崎殿というのは、おまえの上役だったな」  検屍役の方だと念を押す。渡部はうなずいた。「おお、そうだ。井崎さんがどうかしたか」  啓一郎は、病室を出て広縁に立っている。ちょっと周りを気にした。庭先にいた渡部は、彼の足元へ近寄った。啓一郎は一段声を落として問いかけてきた。 「あの人は今、何か調べ事をしているか」  渡部は驚きを顔に出さぬよう務めた。呑気に切り返す。 「お役目があれば調べ事もするだろう。あの人は働き者だ」 「おまえは何か聞いていないか。親しいのだろう?」  渡部は啓一郎の端正な顔を見た。何を言おうとしているのだ、こやつは。 「何かというのは、この病のことかな」 「さあ、それは私にもわからない」  笑顔を作って、渡部は言った。「啓一郎、寝ぼけてでもいるんじゃないか」  啓一郎は笑わない。あたりを憚るような口調もそのままだ。 「匙家を回って、いろいろ聞いておられるようだった」  今度は抑えがきかなかった。飛びつくように、渡部は訊いた。「それはいつの話だ? おまえも何か訊かれたのか? 」 「いや、私はお会いしていないのだ。父上を訪ねてこられたが、父も留守中でな。だから詳しいことはわからない。ただ、井崎さんが何か調べ事を抱えていて、匙家を聞き歩いているらしいと、あとで金居から聞いただけなんだ」 「いつのことだ」 「一昨日だよ」   ——— 何もできはしないよ。  そう言っていたのに、なぜ俺に隠れてこっそり動き回る? 何を調べているのだ。   ——— 憶測に憶測を重ねても、確かなものにはならぬ。  だから、確かなものにするために動いているのか。何もできはしないと言ったのは、俺を巻き込まぬための方便だったか。  危険だ。渡部は胸騒ぎを覚えた。 「たぶん、この病の記録を残すための聞き書きをしておられるのだろう。それも俺たち小役人の仕事だ」  顔を上げて、啓一郎に言った。彼の面《おもて》に、渡部自身の懸念の色が映っている。不審に思われてはいけない。そうだ、啓一郎が何か知っているはずはないのだから。  |は《 ヽ》ず《 ヽ》は《 ヽ》な《 ヽ》い《 ヽ》。何を根拠に、俺はそう思う?  こいつだって匙の一族だ。 「どうかしたのか」  問われて、渡部は問い返した。 「啓一郎、おまえは本当に何も知らないのか」  ひと呼吸、ふた呼吸するあいだ、沈黙が来た。なぜ黙るのだ啓一郎。なぜそんな目をして俺を見る? 「一馬、何のことを訊いているのだ」  口元をふと緩ませて、困惑したように啓一郎は尋ねた。渡部はかぶりを振った。 「いいんだ、忘れてくれ」  踵《きびす》を返して歩き出した。背中に啓一郎の視線を感じる。一歩踏み出し、二歩進むごとに、渡部の内なる声が、それに合わせて呟く。  井上啓一郎は嘘をついている。今の言葉は嘘だ。何か知って、察しているからこそ、わざわざ井崎さんを案じ、俺に謎をかけたのだ。  だんだん早足になった。  その夕は雨も降らず、雷もなく、息が詰まるようなどんよりとした凪の暑さに包まれた。しかし渡部が眠つかれないのは、そのせいばかりではなかった。  昨夜、柵屋敷内の井崎の家を訪ねたが留守だった。彼は早くに妻を失い、子もない一人住いだ。留守役は家政をしている老婆で、ずっとお出かけですという。数日戻れないかもしれないが、役所には断ってある、心配するなと言い置いて出ていったという。  以来、早船を知らせる港の太鼓の響きのように、渡部の心の臓は不吉な間隔で鳴り続けていた。何があった、何が起こっている。  翌早朝、寝汗で冷え、強張った身体を寝床から引き剥がすようにして起き出し、また井崎を訪ねた。やはり帰っていなかった。  探すとしたら何処だろう。何をとっかかりにするか。井崎さんは、昔の磯屋の者たちにも会ったろうか。上滑りに考えながら、午《ひる》まで堀外と役所を行ったり来たりした。井崎がひょっこり戻ってはいないか。  後から思えば、半《なか》ばは覚悟ができていた。だからこそ、その報せを聞いたとき、渡部は驚かなかった。ただ時が止まり、心の臓が止まり、血の流れも止まった。  井崎の亡骸《なきがら》が、涸滝の屋敷から港へと通じる水路に浮かんでいるのが見つかった、と。  そのとき渡部はまた書物倉にいた。先日、井崎がここで取り出していた記録をさらっていたのだ。何か印をつけていたり、書き込んだりしてはいないか。どれか持ち出してはいないかと。 「井崎さんは何で死んだんだ」  突っ立ったまま、手にした資料をわしつかみに、渡部は問い返した。凶報を持ってきた朋輩の同心は、もちろん最初から暗い顔をしていたが、渡部の言葉の激しさに、たじたじとした。 「まだよくわからないそうだ。どうも溺れたのではないかと言っている」  それも二日ばかり経っているようだ、という。 「夏場は、あの水路は底の方から水草が茂っているから、亡骸がなかなか浮かばない。しかも井崎さんはもう身体が傷み始めているらしい」  渡部の手から、資料がばさりと落ちた。眩しいはずもないのに目がちかちかする。 「誰が検屍をしている」 「さあ……」朋輩は首をひねる。「もう井崎さんをあてにするわけにはいかないんだからなぁ」  不謹慎にもちょっと苦笑した。 「誰がするんだろう。とにかく亡骸は今は西番小屋にあって、これから役所に運ばれてくるそうだ」  匙の先生に頼むのかなぁと呟いてから、朋輩は「ああ」と目を見開いた。「そういえば、井崎さんはおまえを見込んでいたというじゃないか。ならば、おまえが検屍をするか」  棒のように突っ立ったきり、渡部は答えなかった。朋輩はまだ何か言っているが、耳に入らない。井崎と最後に会った時に交わした言葉だけが聞こえてくる。さまざまな亡骸を検め、結果としてその亡骸を生じさせる元となった出来事を検分することで培われた、一種諦めにも似た井崎の諦観が、あの言葉にはよく現れていた。   ——— 我らの手には負えぬこともある。少なくとも、今は。  その ″手に負えぬ ″ ものに、井崎は口をふさがれてしまった。    四  宇佐のいる中円寺にも、お日高さまにお堂が建つという噂は聞こえてきた。その前に清めの儀式をするという。領民たちは、家持ちや商人のみならず長屋暮らしの者まで勧進に加わり、金を集めている。中円寺に身を寄せている人びとも、少しでも足しにと銭を出そうとすることに、宇佐は心を打たれた。  英心和尚は、うちからは出せんが重蔵に出させると、自らお神輿《みこし》を上げて三幅屋に出かけて行き、べろんべろんに酔って帰ってきた。挙句、夜中に本堂でお経をあげ始め、寺の者たちはみんな起こされてしまった。 「和尚さま、和尚さま」  宇佐も寝ぼけ眼で起き出して、和尚をぺしぺし叩いたり、引っ張ったりして諫めた。 「何時《なんどき》だと思ってるんです? やめてくださいよ。仏さまだって寝てるんだから」 「なんの、御仏《みほとけ》はお眠りにはならんぞ。いつだってお経を聞いてござる」 「もう、なんでこんな酔っ払っちゃったんですかね」 「わしは酔っておらんぞ。重蔵は酔いつぶれたが、わしは酔わなんだ」 「酔っ払いはみんなそう言うんです!」  結局、和尚は木魚を枕に寝てしまい、宇佐は逆に目が覚めてしまった。本当に今、何時なんだろう? まだ真っ暗だ。手燭を掲げて外をのぞいてみる。おや、雨が顔にあたるようだ。  いつの間に降り出したのだろう。まったく気づかなかった。静かで冷たい雨だ。本堂から外へ降りる木の段々に立ち、手をかざして蝋燭《ろうそく》の炎を守りながら、宇佐は額と頬で雨を受け、目を細めた。  これは、秋の先駆けの雨だ。昼間は蒸し暑かったけれど、夜のあいだにぐっと冷えた。季節は確かに動いている。  夏が終われば、流行病も急速におさまることだろう。雷も峠を越す。二百十日の前後は野分けで海山が荒れるが、避けようもない雷よりは、こちらの方がまだしのぎ易い。  それとも、もしかして今年はまた特段に大きな野分けが来たりして、それもまた加賀さまの怒気のせいだと、あたしたちは恐れるんだろうか。また死人や怪我人が出て、この寺も傷つき悲しむ人たちで一杯になる。  でも、そんなことを繰り返してゆくうちに、少しは慣れることだってあるんじゃないか。やみくもに怖がっているうちは見えないことも、見えてくるのじゃないか。何だ、これは丸海の土地にとっちゃ珍しいことじゃない。加賀さまが来る前だって、大きな野分けはあったものだ。みんな忘れていただけなのだ。振り返ってみたら、夏の病だって雷害だって、わたしらが勘違いをしていただけで、あれは丸海の土地の付き物だ。加賀さまが運んできたわけじゃない ———  誰かに名を呼ばれた気がした。  宇佐はまばたきして雨を払い、まわりを見回した。夜の底を、淡々と雨が打つ。  もう一度、今度はさっきよりはっきりと、 「宇佐」  呼ばれた。宇佐は目をこらした。  水音がした。すぐ近くだ。誰かが水溜りを踏んだのだ。 「誰?」  手燭を目の高さに上げてみる。雨が蝋燭にあたってじゅっと音を立てる。頼りない明かりが、それでも宇佐の手の届くぐらいの範囲を黄色く照らした。  光の輪の端っこに、泥だらけの足が見えた。裸足で履物をつっかけている。 「そこにいるのは誰だよ! 」  声を強くして、宇佐は問いかけた。自然と足を踏ん張り、身構える。  水が跳ねて、声が聞こえた。雨の音にまざれてしまいそうなほど低い声音。 「宇佐、俺だ」  あまりにも驚いたので、宇佐は段々から落ちそうになった。手燭の明かりがぐらりと揺れた。 「渡部さま!」 「し、大声を出すな」  制しておいて、渡部は泥水を跳ね上げ素早く寄ってくると、宇佐の立っている段々の脇に隠れてしゃがんだ。頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れだ。どっぷりと水を吸って、着物の柄さえ見分けられない。 「こんなところで何してるんです?」  宇佐は膝を折り、彼をのぞきこんだ。近くで見ると、渡部はぶるぶる震えていた。 「おまえこそ、こんな時刻に本堂で何をやってるんだ」  まさか起きておるとは思わなんだぞと、文句でも垂れるような言い草だ。 「和尚さんが酔っ払って本堂で寝ちゃったんですよ」宇佐は鼻先に皺を寄せた。酒臭い。「嫌だ、渡部さまもお酒を飲んでますね」 「ああ、飲んでるとも。素面《しら ふ》でいられるか」  少し呂律が怪しいのは、寒さで顎が震えているせいだけではない。  宇佐が手燭を近づけると、蝋燭の炎が渡部の瞳に映った。血の気の失せた顔に、目ばかりぎらぎら光って見える。 「渡部さま ——— 」  宇佐は怖くなってきた。こんな様子の渡部は、今まで見たことがない。琴江が殺され、それに蓋をしなくてはならないと狼狽し苦しんでいたときでも、これほど度を失ってはいなかった。 「どうなすったんです? 何かあったんですか」  渡部は雨のなかにうずくまったまま、ひたと一点を見つめている。彼の目の先にあるのは本堂の段々と地面と雨。しかし、見ているのはそれではない。 「井崎さんが死んだ」  くぐもった、呻くような声だった。 「え? 井崎さんて、あの」 「俺の上役だ。検屍役のあの人だよ。死んだんだ」  どうしてまた急にと問いかけて、宇佐は口をつぐんだ。ぞうっと背中が寒くなった。 「夜、一人で堀外を歩いていて、足を滑らせて水路に落ちたそうだ。それで溺れた。あの人は水練が達者だったはずだが、落ちたときに頭を打ったので、泳げなかったのじゃないかとさ」  自分の言葉そのものを嘲笑《あざわら》うように、渡部の口元は歪んでいた。 「いつのことです」 「一昨日だ。今日葬った。もう井崎さんはいない。何も調べられんし、誰を追及することもできない」  雨の音が立ち込める。 「死んだのじゃないさ、フン」  鼻を鳴らして、渡部は笑う。人はこんなふうに笑うこともできるのだと、宇佐は震え上がって思った。壊れた顔をつなぎ合わせて、その縫い目が見えているのに、でっちあげられる笑い。 「殺されたんだ。口をふさがれた。奴らにしてやられたよ」 「奴ら? 奴らって誰のことです」  宇佐の髪からも、雨粒がしたたり始めた。 「俺は願い出て、検屍をした」  宇佐の問いかけを置き去りに、渡部は早口で言い募る。 「せいぜい気張って検めたつもりだが、怪しいところは見つからなかった。そうさ、俺のような知恵足らずの役人に、それと見極められるような殺し方はせん」 「何をおっしゃっているのか、あたしはさっぱりわかりません。しっかりしてくださいよ、渡部さま!」  渡部はまったく動じなかった。鈍く、分厚く、重たい壁を相手に怒鳴ったようなものだ。壁なら跳ね返るはずの反響さえない。宇佐の大声は雨に吸い込まれる。 「井崎さんは思い出したんだ」  呂律《ろれつ》がまわっていないので、寝言のように聞こえる。 「何を思い出したんです」 「飯炊き長屋の茂三郎さ。あの爺さんは、十五年前、浅木家の下男だったんだ」  渡部は呟き、また壊れたような笑みを顔に貼りつけて、宇佐の目をのぞきこんだ。 「驚いたか? それとも忘れていたか。おまえはもう引手ではない。あんな爺の死んだことを、いつまでも覚えておらねばならぬ義理はない。ましてやその謎を解こうという気持ちなど、とっくに失せていて当然だ」  宇佐に対する皮肉と己への自嘲とで、渡部の声は、二重三重に嫌らしく割れていた。  それが、胸が詰まるほどに痛ましい。 「渡部さま……」 「そうさ、そういうつながりだったんだよ」  言葉を垂れ流しに、渡部は語り始めた。井崎の思い出したことと、彼の推測を。宇佐は、とうとう苦しくなってあえいでしまうまで、自分が息を止めていることさえ忘れて聞き入った。 「そして井崎さんは死んだ。殺されてしまった。俺には、何もせんと言ったのに。一人で探索をしていたのが仇になったのだ。何でそんな真似をしたのか、気が知れん。町役人風情がどれほど奮闘しようと、手の届かぬ悪というのはあるのだ」  芯まで濡れて冷え切って、震えが来た。歯が鳴り出した。宇佐は奥歯を噛み締めた。しゃんとしなくちゃ。 「渡部さま、落ち着いてください」  和尚さまがあたしにお説教するときみたいな声が出せればいいのに。ああいう話し方ができたらいいのに。 「あたしも、茂三郎さんと浅木家のつながりは、井崎さまのお説のとおりじゃないかと思います。でも今はまだ推察することができるだけで、裏づけは何もありません。井崎さまもそうお考えになったんでしょう。だからお一人で探索を続けておられたんですよ。匙家を回っておられたというのも、そのためですよ。ね? そうですよね」  ご立派なふるまいじゃありませんか。ほとんどすがるようにして、宇佐は渡部の顔を仰いだ。  しかし、返ってきた言葉は抑揚を欠き、尻込みするようにしぼんでいた。 「思わんね。無謀だ。命の無駄使いだ」  俺は逃げると、渡部は言い切った。 「逃げる? 丸海を出ていくんですか」 「そうだ、脱藩する。もうたくさんだ。付き合いきれん。ぐずぐずしていれば、次は俺が口をふさがれる番だ。逃げ切れん」 「まだそうと決まったわけじゃ ——— 」  雨を振り飛ばしながら、いきなり渡部は立ち上がった。宇佐は後ろによろけて尻餅をついた。手燭が落ちる。あわてて拾って目を上げると、渡部は宇佐の上に覆いかぶさるように仁王立ちになっていた。 「おまえも一緒に来い」  腕をつかまれた。骨が鳴る。なんて力だろう。宇佐の声は身体の奥に引っ込んでしまって、出てこない。 「おまえの身も危ないぞ。連中が井崎さんから何を聞き出したかわかったものじゃない。俺のこともおまえのことも、もう奴らの手の内だ。一緒に逃げよう。海は駄目だ。すぐ見つかる。山越えで土佐へ出られれば、後は何とかなる」  冷え切って、色を失って、雨に濡れて、渡部は宇佐の知っている渡部ではなくなっていた。雨のなかで化身した、人ではないものの塊のようだ。恐れと怒りと、断たれた望みが入り混じった塊。 「本気でおっしゃっているんですか」  渡部の目から目をそらさずに、宇佐は尋ねた。下手にかわそうとしたら、かえって呑まれてしまう。立ち向かわなくちゃ。渡部さまを正気に戻さなくちゃ。 「逃げたってどうにもなりませんよ。あたしは嫌です」  渡部の顔に怒気が浮かんだ。宇佐は身をすくめた。が、怒りはまたたくまに雨に溶けて、渡部は宇佐の腕を放し、片手を額にあてると、顔を隠した。  身体を揺すり、低く笑い始める。 「そうだな。俺はバカだ。おまえが俺と来るはずがない」  宇佐は腕をさすった。うっすら赤く痕《あと》になっている。 「おまえには、俺では足らんのだ。無論、俺とておまえでは足らん。おまえは琴江殿ではないからな」  笑い続けている。しゃっくりみたいな息をして、おなかを押さえて。 「渡部さまが丸海を逃げ出したら、琴江さまはどうなりますか」 「どうもこうもならんさ。とっくに死んだ」 「でも、ご無念は残っています」宇佐は声を振り絞った。「今は無理でも、いつかは晴らせるかもしれません。そのためにも、渡部さまは丸海にいなくちゃいけないよ」 「いつかって、いつだ」 「わからない。でも、世の中はいつか変わります」 「啓一郎がそう言ったか。どの面下げて言ったんだ」  それは問いではなく、吐き捨てるような面罵《めん ば》だった。  宇佐は手を上げると、思い切って渡部の頬を張った。気持ちのいい音がして、彼はのけぞり、雨粒が飛んだ。  渡部の両肩が、急にがっくりと落ちた。  宇佐は、彼の横面を張った音に紛れて、もうひとつの小さな音を聞いたように思った。  渡部の気骨《き こつ》が折れる音だ。 「井崎さまが亡くなったのはご不幸なことです。渡部さまがどれだけ落胆されたか、あたしにだってわかります。でも、殺されたとは限りません。本当に溺れたのかもしれないじゃありませんか。そうは思われないですか」  渡部はただかぶりを振っている。 「次は渡部さまとあたしの身も危ういなんて、決まったわけじゃないですよ」  おまえは甘い ——— と、呟いた。口からこぼれるそばから雨に溶け、消えてしまうようなか細い声だった。  渡部のこんな声を、宇佐は聞きたくない。怒りと情けなさに、胸が焼けた。叫んだ。 「ちゃんと背中を伸ばして、目を開いて、頭を使って考えてください! ねえ、渡部さま。聞こえていますか」  今度は宇佐が渡部の腕をつかみ、激しく揺さぶった。死んだ魚を振り回しているみたいな感触だった。 「浅木さまのお家のなかで毒が使われているらしいことなら、あたしも知っていました」  渡部がとろんと目を動かし、宇佐を見た。宇佐は何度もうなずいてみせた。 「ええ、そうです。今お伺いする前から知っていました。ここに来て、和尚さまに教えていただいたんです。和尚さまもご存知だったんですよ。十五年前からね。だけど、和尚さまは殺されてなんかいません。ピンピンしてます。あたしも無事です。ね? だったら、井崎さまだって、ただ真相を知ったというだけで殺されたとは限らないじゃありませんか」  いやいやをするように、無言のまま渡部は首を振る。 「違うっていうんですか。何が違うんです」  宇佐は畳みかける。叫ぶように言い返すたびに、雨が口のなかに吹き込んでくる。 「 ——— 和尚もおまえも、役人ではない。士分ではない」 「ええ、そうですよ。虫けらみたいな町場の貧乏人です。破れ寺の和尚と、そこで無《た》給《だ》働きしてる寺子です」宇佐は思い切り凄んだ。「だったらどうだっていうんです?」 「おまえらの言うことなど、誰が相手にするか。おまえらだけで、何ができるか。だから無事で済んできたのだ」 「ああ、そうですか。お役人だとそうはいかないですものね。お役人はお偉いですものね」  自分自身と渡部を励まし奮い立たせるために大声を張り上げてきた。が、この瞬間は違った。宇佐は本気で激怒した。もういっぺん、渡部の横面を張ってやろうかと思った。 「そんなにお偉いなら、どうして渡部さまは立ち上がらないんです? 井崎さまが浅木家の悪者退治をしようとしたばっかりに殺されたのなら、どうして怒らないんです? どうして井崎さまの後を引き継いで、調べようとなさらないんです? どうしていつもいつも、尻尾を巻いて逃げ出すことばっかり考えるんですよ!」  両手を下げ、頭を少し傾《かし》げて、渡部は足元を見つめている。そして呟いた。 「これが俺のもともとだ。俺は小心な臆病者なのだ」 「ええ、そうですね」  でもあの男は賢いと、英心和尚は言っていたじゃないか。和尚に認められるほどの知恵を、渡部はどこに落としてきたのだ。 「でも、それでも今まで渡部さまはお務めをこなしてきたじゃありませんか。井崎さまにだって、自分のあと検屍のお仕事を受け継いでほしいと頼まれていたのでしょう? 渡部さまには、この丸海で、まだまだなさるべきことがあるはずです!」  宇佐の強い言葉に、渡部はゆっくりと首をめぐらせて、こちらを向いた。  雨のなかで幾度かまばたきをする。それ以外は、まったく何の表情もない。渡部は、今や寒さに震えてさえいなかった。宇佐は、通りモノにあたって人がおかしくなるというのは、まさにこういう様子をいうのではないかと思った。  と、急に思いついたように、渡部は宇佐から手燭をもぎ取った。初めて見るように、しげしげと見入る。  それを、雨の闇の向こうへと放り投げた。じゅっと音がして、明かりが消えた。真の闇だ。宇佐と渡部は、互いに互いの気配を察することしかできなくなった。  息遣いが聞こえる。姿を見ず、耳だけで聞いていると、それは、泣き出したいのをこらえている子供にそっくりだった。  宇佐は、こっぴどく叩かれたようにして悟った。  この人は弱い。この人の賢さは、自分の弱さを知っているだけの賢さだ。そこから先、どうすることもできない賢さだ。和尚さまはそれをおっしゃったのだ。  琴江さまを失ったとき、この方はもう砕けていたのか。あたしが知って、時には一緒に働き、時には仰ぐこともあった渡部さまは、残り滓《かす》でしかなかったのか。 「そうだな」  思いがけなく離れたところから、低い呟きが聞こえてきた。渡部は遠ざかっている。 「俺にも、まだやることがある」  雨音に打ち消され、よく聞き取れなかった。宇佐はへたりこんだまま、必死で闇のなかに目をこらした。  何か人の声のような音がする ——— と思ったら、本堂から響いてくる和尚の鼾《いびき》だった。  夜が明けると雨はやんでいた。どんよりとした暑さがぶりかえし、潮の匂いが鼻をつく。  宇佐は起き抜けに顔も洗わず、和尚にも断らず柵屋敷へ向かった。渡部の住いが柵屋敷のどこかは知らないし、商人でもなければ引手でもなくなった今は、簡単には柵屋敷に入れてもらえないだろう。それでも、渡部の顔が見たかった。案外けろりとして、俺は昨夜飲み過ぎて、ひどい宿酔《ふつかよ》いなのだとでも言ってくれるかもしれないじゃないか。何だと? 俺が夜中に中円寺に押しかけた? 寝ぼけているのはおまえの方だ、宇佐。  が、それは空《むな》しい試みだった。やはり柵屋敷の敷居は高い。宇佐も、自分で気づいている以上にまだ動転しているのか、木戸を守る番人を言いくるめる、上手い言葉が思いつかなかった。 「わたくしは、山内の奥様の御用を承ったことのある者なのです」と言ってみたが、やはり駄目だ。それなら我ら番人が山内家から何か聞いているはずだ、という。 「急な用件なら、伝えてやろう」  本当は町役所の渡部さまが脱藩すると言っているのが本気かどうか知りたいのですとは、まさか言えない。 「先《せん》からの病の跋扈に加え、お日高さまのお戻りの儀式を控えて、堀内は警護を厳しくしておる。手続きを踏まねば、堀外の者を、うかうかと柵屋敷に入れることはできない」  宇佐は町役所へ回った。ならば渡部が役所へ出てくるのを待とう。  が、日が高くのぼっても、渡部は姿を見せなかった。宇佐の心は不安に震えた。   ——— 俺にも、まだやることがある。  何をやるというのだ。  すごすごと寺に戻ると、和尚が宇佐を探していた。朝っぱらからどこをほっつき歩いていたと、うんと叱られた。  一瞬、昨夜の出来事を、和尚に打ち明けようかと思った。しかし話したところでどうなるだろう。放っておけと言われるのが関の山 ——— いや、また御仏がどうとかこうとか、煙に巻かれるだけではないのか。  番小屋の花吉に、渡部を探してくれるよう、頼んでおこうか。宇佐が話したがっていると。そちらの方がまだしも効き目がありそうな気がする。  とにかく仕事を済ませてしまわなければ、出かけられない。雨に打たれたせいか、身体が重いし頭が痛い。我慢しながらせっせと働いていると、当の花吉が、ひょっこり守中円寺に顔を見せた。あら以心伝心だと思って、嬉しさと安堵を感じた自分が可笑しい。  ちょっと見ないあいだに花吉は、何だか生意気な顔つきになったようだ。 「なんだ宇佐かよ。おまえがここで働いてるって噂は本当だったのか」  回状を持ってきたんだ、和尚さんに取り次いでくれ、という。 「何の回状?」 「お日高さまの ″お戻り ″ さ」  今朝、柵屋敷の門番もそんなことを言っていた。  儀式手順が決まったのだ。だから城下の者たちにお触れが出された。堀外と漁師町と旅籠町、それぞれに高札が立ち、引手たちが回状を持って触れ回る。  儀式は次の庚子《かのえね》の日(明後日だ)、真夜中、九ツより執り行われる。お城の搦手《からめて》門と、堀内の浅木家屋敷正門より、日高山神社のあった丘の上へ、それぞれに篝火を焚いて道筋を引く。浅木家からはご神体がお出でになり、お城からはもちろん畠山公がお成りになるのだ。殿が搦手門をお使いになるのは、領主であっても土地の神の前では卑しい人の身であることを示すためである。  ご神体が丘の上に着いたら、畠山公と藩の重臣たちが列席するなかで、日高山神社の神官が儀式を始める。先の落雷と火事の際に、ここでは火消しが五人も死んだ。まずはその血の穢れを祓うのだ。  次に、これから建てるお堂のなかの、御座をしつらえる場所に据えた白木の台に、ご神体を奉じる。神官が祝詞《のり と》を上げ、一同が伏して拝む。そして儀式はお堂建立の志無《つつがな》きことを祈り、落雷により傷んだご神体の神威の回復を願うものへと進む。  畠山公を始め、藩の重臣たちが連なるのはここまでだ。その後は、お堂が完成するまでまた浅木家に戻って滞在することになるご神体を、藩士たちとその家来、妻子|眷族《けんぞく》が、身分格式の順に従って参拝することになる。  さらに、肝心なのはこの後だった。全ての参拝が終わり、丸海の藩士たちの日高山神社を仰ぐ心をご神体にお目にかけてなお、ご神威は回復しないかもしれぬ。かつては雷獣を倒し、雷害を退けた神が、落雷で傷を受けたのだ。どれほど伏し拝んでも、神はすでに零落してしまったのかもしれぬ。  それを見極めるのが神官の役目だ。儀式と参拝が終わった後で、翌の耳に、山犬の遠吠えが聞こえれば吉。聞こえねば凶。  遠吠えがなければ、日高山神社の復活には、まだまだいくつもの手を打たねばならぬことになる。  丸海は小藩だが、藩士全員とその家族までもが恭し《うやうや》く拝むとなると、朝までかかるだろう。その間、お城と堀内は大番の番方が守り、城下の旅籠町と堀内は町役所と引手が、漁師町と港は船奉行と潮見たちが警護にあたる。戦《いくさ》のような支度である。  一人でも多くの氏子が伏し拝むことが、ご神体の力を回復させることにつながるというならば、町場の者たちにも参拝が許されてよさそうなものだが、そうはいかなかった。士分ではない丸海の民は、儀式と参拝が終わるまでの一夜のあいだ、表戸を閉て、歌舞音曲、高歌放吟を慎み、洒気を断ち、火の気を断って、それぞれの住まいの中で、お日高さまの方角を拝むことしか許されない。 「信心には違いがないのに」  宇佐がちょつぴり不満をもらすと、英心和尚は笑い飛ばした。 「身分が違うわい」 「だけど仏さまはそんなの気になさらないでしょ?」 「おお、おまえもわかってきたの。もとは獣の地つきの神と、有り難い御仏の、そこが大きな差というものじゃ」  えらいことを言ってのける。 「しかし、旅籠町は難儀だろうて」  和尚は呑気に言った。 「この夜に限り、泊まり客に酒も出せず芸子も呼ばせず、布団をかぶって早寝をしろと言わねばならん。まあしかし、この物々しい構えでは、お触れを破ったらすぐ死罪になりそうだからな。お客さん、たった一晩のことだ、命がけの旅の恥のかき捨てはやめなされ、金比羅さまの門前町へ着くまで、楽しみはとっておきなされと説きつけるしかないか」 「なんでこんなにいかめしい支度をするんでしょうね。ただの御祓いでしょう? 」 「おまえは迷信によろめくくせに、信心を欠いた恐ろしいことを平気で言う女子《おなご》だの」  和尚は目をぐりぐりさせた。花吉も尻馬に乗って、 「勝気ばっかりなんですよ、こいつは」などと言う。 「そういうおまえさんも勝気じゃの。その口の動く半分も働いとるか」  和尚は花吉をやりこめておいて、宇佐に言った。「丸海の守護の神が手傷を負われ、弱っているのを回復させるための儀式をしようというのじゃ。その折に、隙をついて邪気に攻め込まれては、もっとえらいことになる。だから人の手で守りを固めておかねばならぬのだ」  宇佐は混ぜっ返した。 「へえ。だったら、涸滝のお屋敷こそ封じておかなくちゃならないんじゃないですか」 「皮肉で申しておるのか、それとも本気か」  宇佐は面白いことに気がついていた。このお触れは、加賀さまが大坂から丸海入りするときに出されたものと、よく似ているのだ。あの時も、あたしたちは息を潜めて家に籠っていたっけ。そういえば大雨だったなあ。 「そうだよ。面白半分に言っていいことじゃねえんだぜ」  花吉は懲りずに、どこまでも和尚と一緒になって宇佐を叱ろうというつもりである。 「この″ お戻り ″が上手く運ばなかったら、丸海の町は、もうまるっきり、加賀さまの悪気に負けたことになっちまうんだ。そんなの我慢できるわけがねぇ。わかってんのかよ。おまえらみたいなか弱い女は、自分じゃ何にもできなくて、俺ら引手がしっかり守ってやるしかねえんだから、せめて素直に言うことをきくもんだぜ」  偉そうに鼻先を反らして言うものだから、つい口答えしたくなった。 「あらそう。そんなにありがたい引手の皆さんの働きがあるんなら、どうして八朔の大雷害が起きたんだろ。どうして病が流行ってしょうがないんだろうね」  花吉の目じりがひくりひくりと動いた。怒っている。ますますそっくり返る。  一緒に働いていたころは、やたらと口うるさく、宇佐をかまいたがりはするものの、優しいところもあった花吉だ。いつの間に、こんな横柄で気の短い、威張りンぼうの男になったのだろう。 「おめえみたいな役立たずに、引手の仕事がわかってたまるか。俺に向かって、二度とそんな口をきいてみろ。お縄にして牢屋に放り込んでやるからな」 「威勢のいいことじゃ。が、わしの寺の寺子を、勝手に引っ張っていかれちゃ困る」  諫める和尚に対しても、頭に血がのぼってしまった花吉は、遠慮がなかった。 「さっきから聞いてりゃ、和尚、あんたも偉そうな説教ばっかり垂れやがる。いい加減にしとけよ。こんな破れ寺のひとつやふたつ、俺たち番小屋の引手がその気になりゃ、いつだってつぶせるんだぜ。逆らわねぇ方が身のためだ」 「おお、立派な申し状じゃ。しかし、我が寺は破れ寺ながら、こりゃわしのものではない。丸海藩のものじゃ。わしが一介の坊主なら、おまえも一介の領民じゃ。おまえの存念で、この寺をどうこうすることはできゃせんぞ。口を慎め」  花吉の顔色がどす黒くなった。宇佐が知っている花吉は、こんなときにはすぐ真っ赤になったものだったのに。 「覚えていやがれよ」  低く吐き捨てて、行ってしまった。  やれやれ ——— と、和尚が息を吐く。 「世の中が荒れると、ああした手合いが現れる。あの若者は、先からあんな威張り屋ではなかったのだろう?」 「はい。もっと気のいい人でした」 「荒れを抑えようとお上が掌に力を込めれば、その掌にくっついた虱《しらみ》も、思わず一緒に気張る。そういうことだ。虱の気張りが掌の力にはならんのだがな」  結局、渡部のことを頼み損ねてしまった。  夜、おとなしく家で寝ておれというのなら、弱者と病人ばかりの中円寺では、まるで日頃と同じことをするだけだ。何の障りもない。  それでも寺の人びとは、明後日の儀式で山犬が吠えなかったらと気にしている。もしも吠えなかったら、まったく新しい場所に神社を建てなくちゃならなくなるし、もしかしたら、もう丸海にはお日高さまがおられなくなってしまうのかもしれない。  その傍らで、宇佐は渡部のことで気を揉んでいた。時を盗んでは町役所の近くへ行き、柵屋敷へ行き、町中の渡部が立ち寄りそうなところにも寄ってみたが、会うことはできないままだ。ただいっぺんだけ、柵屋敷の前でちょうど出てきたお女中に、 「ああ、町方の渡部さまなら、今朝方道場へ行かれるというのに行き会いましたよ」  と教えてもらうことができた。  道場? 剣術の稽古か。脱藩して、次の仕官先を探すときのために、腕を磨いておられるのだろうか。気が早いような悠長なような話だ。でも、そんなことを考えられるくらいなら、そして行き会った人にも何も悟られないのであれば、今はもう、あの正気を見失ったような様子ではないのだろう。  あわてなくても大丈夫かな。やっぱり渡部さま、あの夜は悪酔いしておられたんだ。  行きつ戻りつ心配したり安堵したり、一人相撲をしながら、井上啓一郎のことを思った。若先生は渡部さまと仲良しだ。若先生には、渡部さまが脱藩を口にしたことを知らせておいた方がいいんじゃないかしら。  でも、そんなことを思うのは、何とか理の通った口実を見つけて、若先生に会いたいからかな。あれが渡部さまの気の迷いであったなら、わざわざ知らせるなんて余計な告げ口になるだけだろうし。  あたしはお寺で働いても、いっこうに清められていない。和尚さまに叱られるのも無理はない。  儀式が近づくと、港では櫓《やぐら》が組まれた。やっぱり戦支度だ。涸滝の屋敷では、竹矢来が二重になったという噂も聞いた。ほうは怖がっていないだろうか。    五  算盤は手習いよりもずっと難しい。 最初のうち、加賀さまはすぐ算盤の使い方を教えてくださろうとしたのだけれど、ほうがまったくついていかれないので、いったん後戻りし、両手の指を使って数をかぞえることから始めた。  指を折って、ほうは十までかぞえることができる。加賀さまは、基本はすべてこの十という数にあり、それよりも多くのものを数えるときは、桁《けた》というものが一つずつ上がるのだとおっしゃる。 「算盤を覚えるとき、大切なのはこの桁という考え方である。桁さえ判れば、ひと目で見渡すことができぬほど数多いものでも、数字で表すことがかなうのだ」  指を折らなくても、たとえば小豆《あずき》がひと粒とか、みかんが五つとか、何か品物を思い浮かべれば、ほうは数えられる。が、ことが品物を離れて ″数 ″ だけになると、とたんに迷ってしまうのだった。  あまりにもおろおろと鈍い自分に焦れてきて、恥ずかしかった。聞き直したり、直されたりするたびに、申し訳ありませんと頭を下げる。そのうちに加賀さまはおっしゃった。 「何かを学ぼうとするとき、すぐには覚えきれぬのを、いちいち詫びることはない。始めたばかりのときは、誰もが何も知らぬのだ。頭を下げず、頭を使うのだ」  この頭を、どうやったら上手く使えるものだろうか。 「この世の中には、目に見えずとも数えられるものが数多くある。一方で、目に見えても数えられぬものもある。だがおまえはまず、目に見えて、数えることができた方が、おまえの日々の働きに役立つものを数えればよい。さすれば算術も算盤も、いたずらに難しいものではなくなる」  加賀さまは少し思案顔になり、やがてこうお尋ねになった。 「ほう、この屋敷には何人の人がおるか」  知らない。考えてみたこともなかった。 「では数えてみるのだ。掃除や水汲みをしながら、人に会ったら数える。ここに詰めておる者たちの名前や役分を知らずとも、顔は見分けられるだろう。よいか。十人まで数えたら、桁をひとつ上げるのだ。十人から上は、十人と一人、十人と二人というふうになる。十人と十人になったら、それは二十人だ。わからなくなりそうだったら、指を折り、何かに書き付けて確かめる。よいか」 「はい、わかりました。でも加賀さま」  涸滝は今朝から騒がしいのだ。ずっと屋敷のまわりに巡らされていた竹矢来の向こうに、もうひと巡り、新しい竹矢来を立てている。落雷で傾いだきり放ってあったあの小屋の取り壊しもしている。そのために、人が大勢入っている。 「御牢番の方々だけではなく、大工さんや職人さんも来ています。みんなまとめて数えるのでしようか」 「士分の者だけでよろしい」 「砥部先生はいかがいたしましょう」  毎日、ほうが上がるよりも前に、砥部先生は加賀さまのお脈を診にいらっしゃる。いつもはすぐお帰りになるのだけれど、今日は何か他に御用があるのか、先ほどほうが二見さまに連れられてここへ来る途中、先生が庭におられるのをお見かけした。御牢番の方とお話をしていた。いらっしゃるなら、数えなくてはならないか。 「そうだな。砥部先生は士分に数えよう」  意外なことに、ほうが加賀さまのお部屋から下がると、あてがわれた小部屋に、中間《ちゅうげん》を一人従えて、当の砥部先生が座っておられた。ほうは途方もなく驚いて、後ろに飛ぶようにして廊下に下がり、ぺたりとお辞儀した。 砥部先生はにこにこして、 「そんなに堅苦しくしなくていいのだよ、ほう。今日は、私はおまえを診るために待っていたのだ。元気にしているかね」  砥部先生は舷洲先生よりずっとお若い。髪も黒いし、お顔もつやつやとしている。でも井上の若先生よりはちょっと年長のようだ。背丈は若先生よりは小さくて、舷洲先生よりは大きい。舷洲先生ほどおなかが出ておられないけれど、若先生よりはぷっくりしてる。何もかも、お二人のちょうど真ん中という感じがする。  砥部先生は、ほうの喉をのぞいたり目の玉を見たり、おなかを押さえたり、手足の関節に触ったりなさった。そうしながら優しく語りかける。 「八朔の大雷害以来、早くおまえを診てやりたかったのだが、なかなかお許しが出なかった。もしや火傷や切り傷でも負ったのではないかと、舷洲先生もたいそうご心配になっておられたのだよ。なにしろここでは死人《しびと》が出たからね」  あの時のことを思い出すと、ほうは今でも怖さに喉が嗄《か》れる。 「実は今日も船橋さまには内緒で、こっそり二見さまに計らっていただいたのだ。船橋さまは元来お優しい方なのだが、いろいろとお忙しいので、どうもおまえのことは勘定から外しておしまいになる」  だから小さな声で話そうと、笑っておっしゃった。 「近頃、加賀さまに字や算術を習っているそうではないか。二見さまに伺ったよ」 「はい」 「おまえにはわからぬだろうが、加賀殿は江戸ではとても重い役職についておられたお方だ。万《よろず》の学問に優れ、とりわけ算術には長《た》けておられる。おまえは、これ以上ないほどの良き先生についているのだ」  それを聞いて、ほうはまた恥ずかしくなってきた。 「でも先生、わたくしは覚えが悪いのです。加賀さまは、きっとご気分をそこねておられると思います」  砥部先生は軽く目を瞠った。「そんなことがあるものか。おまえを教えるようになってから、加賀殿はお元気になられた。毎日お脈を診ている私が言うのだから間違いない」 「本当でございますか?」 「ああ、本当だとも」  砥部先生は、そばに控えている中間の人を振り返り、目を合わせてにっこりした。お年寄りの中間で、重そうな薬箱を脇に置いている。 「加賀殿がお元気になったので、日参するたびに運んで来る薬箱が軽くなった。おかげでこの房五郎が助かっている」  中間の名は房五郎さんというらしい。しわくちゃの顔が、井上のお家にいた金居さまを思い出させる。 「少し話してはくれまいか。今まで、どんなことを習ってきたのかね」  ほうはお話しした。手習いのこと、暦の読み方、習い始めたばかりの算盤。漢字もいくつか書けるようになったこと。 「先生、加賀さまは、わたくしの名前の字をくださいました」 「おまえの名前の字? 」 「方」とつけてもらったことを話すと、砥部先生のお顔に、今まででいちばん大きな笑みが広がった。それを見ているほうにも嬉しさが伝わってくるような笑みだ。 「そうか……よかったな」  うん、うんとうなずいておられる。 「加賀さまには小さなお子さまがおられた」  呟くように、砥部先生はおっしゃる。 「お二人いてな。上のお子が女の子、下のお子が男の子だ。上のお子が、ちょうどおまえぐらいの年頃であったはずだ。おまえを見ると、お子たちを思い出されるのかもしれぬ」  でもそのお子を、確か加賀さまは殺してしまったということではなかったか。ご自分で手にかけたお子たちを、どんなふうに思い出されるというのだろう。  そうだ、加賀さまは人殺しなのだった。  やっぱりほうは、もっと怖がっているべきなのかもしれない。こんなふうにしていられるのはただほうに知恵が足りないからで、ほう以外の方々は、みんなそれをわかっておられて———  砥部先生も急に忙しくまばたきをして、物思いのお顔から覚めた。手を伸ばし、ほうの頭を撫でた。 「今のところ、おまえの身体には何の悪いところもないようだ。念のために、熱さましと腹薬をいくつか置いていこう。それでも、どこか具合の悪いところが出てきたら、一人で薬を飲まず、必ず御牢番の世話役の方にご相談するのだよ」  房五郎さんが薬箱を開けて、先生の指図でお薬の包みを取り出す。  ほうは困った。砥部先生のお供の方は、数に入れるのかしら。 「先生、あの、房五郎さんは士分の方になりますか」  砥部先生はきょとんとした。そんなお顔をすると、栗《り》鼠《す》みたいだ。 「なぜそんなことを尋ねるのだね?」  ほうは理由を話した。笑われるかと思ったのに、きょとんとしたようなお顔のままで、砥部先生は片手を口元に、ひどく感じ入ったようになった。 「この屋敷にいる ——— 士分の者の数をかぞえろとな。それは先ほど命じられたことかね?」 「はい」  ほう、と呼びかけて、砥部先生はひと膝乗り出された。「きちんとやらなくてはいけないよ。ただ漫然と数えるだけではいけない。なぜならこの屋敷では、朝と晩とで、詰めている御牢番の数が違うからだ。お膳の数が変わるだろう?」  言われてみればそのようだ。 「詰所によっても人の数が違う。それを数え分けるようにしてごらん。朝にはこの詰所に何人、晩には何人というふうに」  加賀さまはそこまでおっしゃらなかったけれど、砥部先生はとても熱心だ。 「おまえはここの二階に上がることはあるかね?」  涸滝屋敷は平屋の部分の方がうんと広い。詰所もみんな一階にある。二階は物見台のような使われ方をしていて、ほうは上がったことがない。 「ございません」 「そうか。でも御牢番は上がってゆくのだよね」 「はい。階段のところでお見かけします」 「では、階段を上り下りする人の数をかぞえてごらん」  ああ、それからと、大急ぎで声を潜める。 「ほう、かぞえるときに、声に出してはいけないよ。それでは算術の稽古にならないからね。静かにかぞえるのだ。できるね?」  かぞえたら、確かに加賀さまにお伝えするのだよ。これは大切な勉強のうちなのだからねと、ほうの手を強く握っておっしゃった。ほうは固くお約束をした。  翌日、加賀さまのお部屋に上がって勉強を始めると、 「かぞえてみたか、ほう」  お尋ねを受けた。すぐにお答えした。南に何人、東に何人、階段のところに何人、門に何人。 「それではおまえのかぞえた数をもとに、足し算というものをしてみよう。これから教える。よく聞きなさい」  勝手に分けてかぞえたのに、「何故そうしたか」とのお尋ねはない。加賀さまは今日も、ほうより先に砥部先生に会っておられるはずだから、先生からお話を聞いたのかな? 「これは一日ばかりのことではない。これからも毎日かぞえるのだよ。そして、それをもとに足し算を習う。よいな」  加賀さまの平らなお顔からは、何も窺い知ることはできない。      六  お日高さま ″お戻り ″ の日はよく晴れた。  日中の暑さはそのままでも、もう見飽きもしたし見るのが嫌にもなってきた、雷を呼び寄せる入道雲に代わり、ひと筋ふた筋の綿雲が空を彩る。やがて、紅貝染めを映したような赤い夕焼けと共に陽が落ち、星が夜空を彩り始めると、地上では篝火が焚かれた。  お城の殿様や藩の偉い方たちが、日高山神社に夜参りするだけならば、必ずしも珍しいことではない。しかし、これほど大掛かりな参拝はかつてない。総登城ならぬ総参拝だ。  中円寺では夕刻、和尚が寺のなかで起きられる者を本堂に集め、一緒に念仏を唱えた。その後、外へ出て一同でお日高さまの方角に二礼二拍手一礼をして、今夜の儀式のとどこおりないことを祈願した。  そして夕餉を済ますと、皆でとっとと静かに寝てしまった。  あたしらも起きて拝んでいた方がいいんじゃないのという者もいたが、和尚は笑って言い放った。 「元来、夜参りは人目を偲ぶものなんじゃ。それに殿も浅木の神官たちも、格別大事の儀式の折に、わしらのような卑しい民草の目に見られて穢れることを嫌うからこそ、あんなお触れを出したのじゃ。心配せんでも、山犬は吠える。寝ろ、寝ろ、寝ておれ。一夜明ければ元通りじゃ」  だから事が起こったとき、宇佐は眠っていた。半端な夢を見ていたような気もする。  最初に耳にしたのは、各番小屋に備えてある太鼓の鳴る音だった。火事や大水、急な災いがあったときに打ち鳴らされるものだ。それで目が覚めた。  宇佐が西番小屋にいたときは、高潮で一度、塔屋の小火で一度、鳴るのを聞いたことがあるだけだ。どちらも大事には至らなかった。それでも耳にはこびりついている。  この鳴り方は、過去のそれとは違う。薄べったい布団の上に起き上がり、すぐに気づいた。トトン、トン、トトン。これは何を知らせる拍子だろう。戸惑っているうちに、漁師町の潮見櫓でも、同じ調子で太鼓を打ち始めた。響きが低いから聞き分けられる。 「和尚さま!」  同じように目覚めて不安げに寝ぼけている人びとが、どうしたのかと問いかけてくる。宇佐は英心和尚の居室へ走った。寝床は空だった。横になった様子もない。本堂かな?  和尚は山門の柱を切り倒した跡の上に立って、背伸びしながら遠見をしていた。お城から出て堀内を通り、堀外を抜けて漁師町をかすめ、日高山神社のある小高い丘へと続く篝火の道。まだ半分寝ているようだった目にも鮮やかな、城下を彩るふた筋の炎の色。 「きれい」と、思わず呟いてしまった。夕刻に見たときには、ただの葦火の連なりにしか見えなかったのに。  夜のいちばん深いところでこそ、炎はその真の姿を表す。今、炎のこしらえあげるこの夜参りの道には、宇佐の知っている言葉では表すことのできない美しさがあった。  荘厳か。厳粛か。ここを通るものは誰ぞ。これは神の道だ。 「呑気だの、宇佐」  和尚は額に両手で庇を立てている。 「何がきれいなものか。そら、あそこで倒れた。あっちでも消えたわ」  和尚の言うとおり、篝火が乱れている。人が走り回っているのか。 「何でしょう、この早太鼓は」 「知らんのか。やっぱりおまえはまだ小娘じゃな」  耳を澄ませば、中円寺の前のこの駆け上がりの坂をのぼって、人が騒ぐ声が切れ切れに聞こえてくる。 「こりゃ刃傷《にんじょう》沙汰じゃ」 「え?」宇佐は飛び上がった。和尚の横顔はつるりと固い。 「まず間違いない。夜参拝に紛れて、誰ぞが刀の鯉口を切ったんじゃ。この時刻なら、もう殿や重臣方はお帰りだろう。私闘かの。それにしては ——— 」  和尚の太い眉がぐいと歪んだ。丸海を囲む東西と南の山を振り仰ぐ。山の峰が連なるそこだけは、満天を彩る星ぼしの裾が切られて闇になる。 「山太鼓も鳴り出したぞ」  宇佐も山を仰いだ。本当だ、山櫓の太鼓の音だ。同じ拍子だ。 「どうやら刃傷者は山に向かったと見える。山越えで逃げるつもりか」  宇佐は凍りついた。つい近頃、似たような言葉をここで、深夜のこの場所で聞いたのではなかったか。   ——— 海は駄目だ。山越えで土佐へ出られれば、何とかなる。  もしや、渡部さまか。   ——— 俺にも、まだやることがある。  町役所同心渡部一馬は、日高山神社ご神体お戻りの儀式警護の役にありながら、その列を離れ、夜参拝中の物頭梶原十朗兵衛息女美祢に斬りかかり、同女を斬り捨てた後、夜陰に紛れて逃亡した。  渡部の心に、一片の曇りもなかった。瞳に迷いの雲もなかった。  丸海藩は傷ついた神を守り奉じるそのために戦支度だ。町役所同心たちも、今夜は大捕物のいでたちだ。渡部は袴の股立ちを取り白襷、白鉢巻、腰の刀の他に槍も携えていた。  梶原の美祢は、母親と共に参拝に来た。  渡部の持ち場は、日高山神社へ登る石段の最下段。本当は、もう少し離れた場所が望ましかったが仕方がない。ここまで来て、細かなことに左右されてはいられない。  家臣総参拝という大事に、石段を登る人びとの数は、渡部がそれと予想していたよりも遥かに多かった。彼の持ち場では、美祢の顔を認めることはできても、近づくことがかなわなかった。美祢以外の者を巻き添えに斬りたくはない。この刀は、美祢を斬り琴江の無念を断つためにのみある。  ならば神前で討たせていただこう。  お日高さまは怒るか。それも結構。美祢が氏子で、我も氏子なら、悲運のうちに不当に生涯を断たれた琴江も氏子だ。神はそのうちの誰に味方をなさる。真に丸海の神ならば、邪《よこしま》を斬って捨てる渡部のこの決意を、必ず酌んでくださるはずだ。その温情がなければ神ではない。二度と拝まぬ。どのみち、俺は神のおらぬ場所へと行くのだ。  思いは決まっている。ひとつ息をするだけで、渡部は浮世のすべてを捨てた。槍を離し石段を駆けのぼる。刀の柄に手をかけた彼の疾走に、押しのけられた者たちは声を失う。  美祢の背中が見える。ほっそりとした後ろ首が夜目にも白い。その敬虔な信心深い合掌の指で、この女が人知れず琴江を盛り殺し、口を拭って笑いを隠したことを、お日高さまよご存知か。神罰はどこにある。  凶刃に、美祢はひと声も発さず倒れた。  悲鳴と怒号のなか、渡部は日高山神社の地所を駆け抜けて、山へと入った。薮を分け木立をすり抜け、足元も見ず後ろも振り返らずに突き進んだ。袖が濡れて重いことに気づいたのは、しばらく経ってからだ。総身に美祢の血を浴びていた。  城下で太鼓が鳴っている。  崖道に立って見おろせば、篝火の道が揺れている。目に入る汗が痛い。まばたきしてもまだ視界がぶれる。  さらに前方、目指す山の彼方でも山太鼓が鳴り始め、それを仰いで、渡部は笑った。  俺には小細工というものがない。臆病な痴れ者だが、事を起こすときだけは真っ直ぐだ。ただ決めた道を逃げて、逃げて、逃げてゆこう。何が立ちふさがろうが気にするものか。  もう終わったのだ。  また走り出すその前に、刹那、息を止めて夜空を見上げた。手を伸ばせば届き、触れるそばから崩れて、今にも雪《な》崩《だ》れかかってきそうなほどの星ぼしの群れだ。もう夏の空ではない。  船乗りは星を仰いで進路を決める。神官は星を読んで吉凶を占う。女子供は星に願いをかけ、地上で清く死した者は、天上に昇って星になるという。  しかし、どれほど無数に溢れようと、星だけでは天を埋められぬ。星と星の隙間には、どんな光もさすことのない闇がある。  渡部は悟った。俺という瑣末《さ まつ》な人の生は、そういう隙間にあったのだ。誰に気づかれることもなく、像《かたち》を成すこともなく、どんな願いもかけられることのない星の間《はざま》の暗闇に、俺の運命は描かれていた。  ならば、これが本望だ。    七  山犬は吠えなかった。お日高さまの ″お戻り ″は失敗に終わった。美祢の身体からほとばしった血が、ご神体の座する新たなお堂の土台石が置かれるべき場所に飛び散り、一帯を穢したからである。  丸海藩にとって、日高山神社の氏子たちにとって、これはもう取り返しのつかぬ失策である。  宇佐にできることは、何もなかった。今となっては、案じることさえ空しかった。 「少しでも知っていたのなら、なぜわしに言わなんだ。なぜ一人で抱え込んでいた」  おまえは愚か者だ —— 怒る和尚は、宇佐に中円寺から出ることを禁じた。夜明けまで、宇佐は座敷に閉じ込められ、やっと出ることを許されたときには、すべてが終わっていた。  早暁、西の山関所近くで、薮に潜んでいるところを、渡部は追っ手に発見された。  丸海の者ではあっても、城下を遠く離れたことのない彼は、山道に通じてはいなかった。総がかりの追跡を受け、味方は夜の闇ばかりだ。むしろ、そこまでよく逃げおおせたというべきかもしれない。  朝日が昇り始め、追っ手の者どもには、渡部の顔がしかと見えた。あの様子では、もとより逃げ切るつもりはなかったのではないか。渡部は乱心していたという者もあれば、いやなぜかは知らねど晴れ晴れと正気であったと断じる者もいた。  何ゆえこのような仕儀に及んだという問いかけに、渡部はまったく答えなかった。  多勢に無勢を、捨て身の彼はよく奮闘した。追っ手数人に手傷を負わせて退け、しかし血脂のついた刀は彼よりも先に力を失い、最後には斬り伏せられた。  とどめのひと太刀を浴びせたのは、お役目謹慎の身の上ながら、自ら強く望んで山狩りに加わった保田新之介であった。  井上啓一郎もまた、強く望んで渡部の検屍を引き受けた。美祢の方の検めは、紆余曲折があった挙句、香坂家の泉が行うことになった。嫁入り前の娘の身なれば、医師や役人とはいえ殿方の手に触れられるのは忍びなかろうと、これも泉が申し出たのだった。  美祢の亡骸は梶原家に戻されたが、罪人の渡部は大番屋に運び込まれた。日頃は吟味に使われている土間の一角で、啓一郎は、戸板の上に横たわる彼と対時した。  亡骸の上に、投げ出すようにかぶせられた筵《むしろ》をはぐってみると、渡部はまだ目が開いていた。顔じゅうに泥がついていた。  啓一郎は彼の顔を拭い、目を閉じさせてやってから検屍を行った。傷は数多く、深手も目立った。彼は多く足を斬られていた。ふくらはぎやくるぶしにまで傷があった。突進する渡部を阻むために、追っ手が苦闘を強いられた証《あかし》であろう。  おまえはよく戦ったのだなと、啓一郎は心のなかで渡部に呼びかけた。  立会いの町役所同心小頭が尋ねた。 「井上先生は、この渡部と知己であったという話を聞き及びました」 「はい、親しい道場仲間でした」 「匙家の先生も剣術を学ばれるのですか」 「形ばかりです。渡部からは一本も取ることができずじまいでした」  同心小頭は言いにくそうに口元を歪め、空咳をした。 「先生にお心当たりはありませんか。渡部はなぜ、このような乱暴狼籍を働いたのでしょう」  啓一郎は黙して渡部の死顔を見つめていた。  琴江の仇を討ってくれたのだ。  しかし、このやり方は間違いだ。当の琴江も、けっして喜ぶまい。あいつはいつもおまえを案じていた。渡部さまはお優しい方だけれど、少し短慮なところをお持ちですね。気の長いお兄さまと、足して二人で割ればちょうどよくなります。  保田の新之介との縁談が来たとき、あいつはふと、こんなことを漏らした。   ——— このお話が決まり、お嫁に行ってしまったら、もう、お兄さまと渡部さまが面白いお話をして、笑いあうのを見ることもなくなるのですね。琴江は少し寂しゅうございます。  ならば、嫁に行くのはやめておけ。ずっと家におればいい。おまえも医師になればよい。香坂家の泉先生のように。啓一郎はそう言ってやった。  琴江は笑っていた。何も言わなかったが、井上の娘として、そんなことはできないとわかっていたのだ。匙家の格式を名実共に盤石なものに保つには、藩の重職にある家柄との姻戚関係を得ることが必要だ。   ——— 私が家を出て、江戸や長崎にでも逃げてしまえば、嫌でもおまえが跡取りだ。医師になり、好きな婿を迎えて、家を継げよ。  啓一郎が、それでもわざとおっかぶせてそう言うと、琴江は答えた。   ——— それではお兄さまが欠けてしまいます。わたくしは、お兄さまと渡部さまが、お二人でいらっしゃるところを見るのが好きなのですわ。  それは私も同じだったよ、琴江。 「渡部はどのように葬られるのでしょう」 「罪人でございます」役人は静かに答えた。「罪人相応に葬りましょう」  渡部の家にすでに親はなく、早くに他藩へ嫁した妹があるばかりだ。身内に処罰の累が及ぶことはない。それだけが救いだ。  いや、逆か。誰かに迷惑がかかるならば、おまえが短慮に走ることもなかったのか。  一人で立ち上がる前に、どうして私を責めなかった。妹を横死させて知らぬ顔を決め込んでいる、私の卑怯をなじらなかった。  なぜ、もう少し待ってはくれなかった。  帰宅しても、血の匂いが身体にまとわりついていた。父は登城しており、金居としずが、腫れ物に触るように啓一郎の世話を焼いた。  父は夜半まで戻らなかった。戻ると、すぐに彼を呼んだ。  しかし、父子はしばし、互いに切り出しようのない想いで黙っていた。脆《もろ》く持ちにくいものを、相手にどう渡したらいいかを判じかねて抱えていた。舷洲もまた、うすうすではあるが、琴江が渡部に淡い好意を寄せていたことを知っている。 「これは仇討ちであったのかな」  やっと、父は息子にそう尋ねた。 「他に何がありましょう」 「琴江が喜ぶと思うか」 「私はそのお尋ねに答えられません。答えたくないのです」  思わず、啓一郎の声が高くなった。 「父上も、ご自分でご自分のその疑念に答えたくないからこそ、私にお尋ねになるのでしょう」  済まぬ、と舷洲は頭を垂れた。啓一郎は、己が妹を失った兄であるのと同時に、父は愛娘を失った父親なのだと思い出した。  傷をえぐりあうだけの、空しい問答はやめよう。 「今度のことが、お父上の —— いえ、お父上一派のお企みに水をさすことになりますか」  舷洲は静かにかぶりを振った。 「おまえの親しき友は短慮だった。が、我らにとって支障はない。これは椿事だ」  もっとも、城下の者たちはそうは思うまい、と続けた。急に目元が険しくなった。 「渡部のせいで、お日高さまはお戻りになれませんでしたからね」 「いや、それは」舷洲は言った。「もともとそうだったのだ。あの騒ぎがなくとも、山犬は吠えなかったろう」  ご神体の山犬を奉じる一族である浅木家が、そう簡単に日高山神社の復活を望むわけはない。手がかかればかかるほど、領民たちは動揺し、城下は乱れる。それはそのまま、畠山公の失政だ「吠えるも吠えぬも、神官の耳ひとつ。殿とて、あてにはされておらなんだ。読込み済みのことよ」 「しかしそれでは」 「我らもまた、お日高さまには、今しばらく弱っていていただかねばならぬ。あの総参拝は、藩士たちにくまなくそれを知らしめるためにこそ行われたものだったのだ」  丸海の守護の神に弱っていていただく。それは、加賀殿に生きながら御霊になっていただくために、ということか。  啓一郎を遮り、舷洲は続ける。「もう夏も終わる。激しい雷害の起こる季節は、間もなく過ぎる。我らに残された時は、そう多くない」 「何をなきろうというのです」  答えず、舷洲は目を閉じた。そして言った。 「私はもう祈るのみだ。支度は整った。我らが首尾よくやり遂げるまでに、城下でこれ以上の騒乱が起こらぬことをな。加賀殿もそれをお望みだろう」 「何故、そんなことがわかるのです」 「合図を送ってこられている」 「合図?」 「ほうに数を教えられてな」  涸滝の屋敷の番人の数を。 「毎日、ほうが数えておる。無論、あの幼い子はその意味を知らぬ」 「ほうの身に危険はないのですか」 「意味を知らぬのだから、疑われる理由もない。あの子はただ、日々加賀殿に、のどかに読み書き算盤を習っておるだけだ。誰も気に留めん」 「しかし、子供にそんなことをさせては」  乗り出した啓一郎を、舷洲は手で制した。 「落ち着きなさい。我らも、今さら加賀殿にそのようなお力添えをいただかずとも、算段はしておる。だから、これはただの合図だ。加賀殿のお心に、迷いはないという合図だよ」  死を望んでおられるという。 「ほうを —— 傷つけないでやってください」  自分でも、こんな懇願するような声になってしまうとは思わなかった。啓一郎は、自分がどれだけ疲れているか、己の声の響きで初めて知った。 「琴江が死に、渡部が死に、この上ほうが命を落とすことがあったら、私は自分で自分を許すことができません」  人が、死にすぎました。  舷洲は何も言わない。長い沈黙に耐えかねて、啓一郎はすがるように父を見た。  しかし舷洲は、目の前に手をつく啓一郎を見てはいなかった。 「己にも、他の誰にも許されることなど、私は望んではおらん」  きっちりと閉じた雨戸の向こうへと目を投げる。  空を見ているのだ。 「時は迫った。天の計らいを待つ。最早それだけだ、啓一郎」    八  朝から嫌な音が聞こえる。 港で、漁師町の潮見櫓で、打ち鳴らされる太鼓の音だ。早船ではなく、火事や船の転覆を報せる調子でもない。  たん、たん、たん。単調に、しかしそれを聴く者を急かすように、一定の速い拍子で鳴り響く。複数の太鼓が気を揃えて鳴り続けるときもあれば、どれかひとつが急きすぎて外れるときもある。  支度を整えろ —— という合図だ。漁師たち、港で働く者たちに、集まれと呼びかける合図でもある。  宇佐は中円寺の山門の跡に立ち、丸海の町を見渡していた。空はまさに秋晴れ、吹き抜ける風からも温気《うんき》が消え、長かった夏はようやく腰をあげた。周囲を取り囲む山々の尾根を伝って、丸海の秋の兆しが降りてきた。  このひやりと澄んだ空気が、早晩、海の上でも感じ取れるようになる。潮の流れが北に寄り、海の色目が鮮やかに変わる。そうなれば本物の秋の到来だ。  山と海と空の掌《たなごころ》に包まれて、蒼と緑の間に、そこだけ、人の手を経ないと生まれない色がある。それが丸海だ。天地の隙間に落とされた、小さな細工物のような町。  そこに漂うもの、そこから聞こえる音と調べは、宇佐が知っている限り、季節の移ろいと、それを暦に映して立ち働く人々の、暮らしから生まれるものだけだった。しかし今、鳴り続けるこの太鼓の音は違う。この太鼓が醸し出そうとしている熱も違う。今まで見たことも聞いたこともないものが、丸海の城下から立ち上がってくるのを、宇佐は感じる。  渡部の死から三日が経った。  宇佐にはまだ、彼が逝ってしまったということがわからない。  彼が何を試み、何をして、なぜ誅《ころ》されることになったのか、詳しい次第は聞いて知った。それだけだ。どんな事実を聞かされたところで、己の死に続く道へと踏み出す寸前の、あのずぶ濡れになって震えていた渡部の顔、渡部の声に、とって代わるものはない。宇佐の心はあの夜で止まったままだった。  亡骸を見ることはできなかった。たとえ見たとしても、やはり納得することはできまい。  渡部は死んだ。もうこの世にはいない。死ぬ前に彼は梶原の美祢を斬った。本望だったことだろう。晴れ晴れと死んだことだろう。頭ではそう考える。  が、その考えは、宇佐の心には届かない。  今も、渡部がそこにいるような気がする。宇佐が振り向けば振り向いた先に、目を転じれば転じた先に。眉間にしわを刻み、気短《きみじか》に足を踏みかえ、今にも宇佐を叱りつけるように口を尖らせて。  そして宇佐と顔が合うと、にわかにその目が曇り、濃い眉が下がって、渡部は呟く。   ——— 俺は臆病者なのだ。  震えながら途方にくれて、闇の夜の雨のなかへ消えてゆくのだ。  心がこのように止まるものであるならば、なぜあの夜、あたしは渡部さまを止めることができなかったのだろう。なぜ渡部さまの心を止めて、思い留まらせることができなかったのだろう。 俺は逃げる、おまえも一緒に来い。渡部はそう言った。その言葉に従って、宇佐が共に逃げていたならば、彼の行く先は違っていたろうか。二人でいたなら、どこか別の場所にたどりつくことができたろうか。   ——— おまえには、俺では足らん。俺にも、おまえでは足らん。  それは、男の勝手だ。  足らなくても、届かなくても、それでもどうして生きようとしなかったのだ。  あれほど命を惜しんでいた。死にたくないからこそ丸海を逃げ出そうとしていた渡部は、何をどう理屈立てて、あんな形で己を終わらせることに決めたのだろう。逃げよう —— と宇佐に迫りながらも、結局、心の芯では、どこにも逃げられないとわかっていたからか。  逃げられないのなら、最期ぐらいは自分の好きなように決めさせてもらう、と。  渡部は多くの追っ手と渡り合ったが、彼に最期の一太刀をくれたのは保田新之介であった。井上家の琴江の許婚者であり、梶原の美祢の、幼馴染みの想い人だ。  琴江の死後、新之介と美祢は密かに逢引をしていた。邪魔な琴江を除いたことで、美祢の想いは通じたのだ。  だからこそ、お役目謹慎中の新之介は、願い出て渡部の追っ手に加わり、今度は彼が美祢の仇を討った。  新之介が話したのか、事情を知る者が他にもいたのか、二人が他人目《ひ と め》を忍んで逢う仲であったことは、事件後間もなく知れ渡った。すると、渡部が美祢を斬ったのは、新之介と想い合っている美祢に、渡部が邪な横恋慕をしていたからだという噂が起こった。今もしきりと囁かれている。  そんな噂だけならば、放っておいたってかまわない。真実を知っている宇佐は、渡部が美祢に恋慕していたなどという悪い冗談を、奥歯で噛み砕いて笑うだけだ。渡部本人も嗤《わら》うだろう。笑って、捨て置けと言うだろう。  むしろ心に引っかかるのは、渡部はどうして保田新之介に討たれたのかということだ。多勢に無勢であったからこそ、彼にだけは討たれぬようにすることもできたはずだ。渡部は剣術の腕には優れていたのである。  ひょっとすると渡部は、自ら進んで新之介に斬られてやったのではないか —— 宇佐は、迷うようにふとそう考えてしまう。  美祢を斬り捨てることの代償に。  同時に、この所業は琴江を娶《めと》ることになっていた新之介への悋気《りん き》から出たものではないことをはっきりさせるために。  つまらない意地を張ったものじゃないか。  その意地が、男女の仲の噂以上のものを、今の丸海に生み出してしまうかもしれないということは、まったく考えなかったのか。  保田新之介は船奉行の次男であり、渡部一馬は町役人だ。船奉行所と町役所は、もとから反目しあう間柄であり、お日高さまの再建をめぐっても、意見が分かれているところだった。  町役所は、とりあえずお日高さまは浅木家お預けのままで支障なし、まずは流行病や雷害で荒れた丸海の町の建て直しを優先するべきだと主張していた。それに対して船奉行は —— というより、船奉行所が統べる多くの漁師たち、船頭たちは、他の何よりも恐ろしい海での雷害から彼らを守ってくれるお日高さまの、一日も早い本殿再建を訴えてきた。  丸海藩の内証《ないしょう》は、もとより豊かなものではない。そこに加賀さまお預かりの加役があり、来年の畠山公の江戸入りを控えて、無駄な費えはもう一銭もできないところだ。町役所と船奉行所の情けないほどに切実な意見対立の根も、要するにそこにある。  そんななかで、町役人が船奉行の倅の想い女を斬った。しかも、あろうことか、お日高さま ″お戻り ″を祈念する総参拝の最中にである。おかげでお日高さまは浅木家預かりに逆戻り、本殿再建どころか、ご神体のためのお堂を建てる時期さえ目処《め ど》がつかなくなってしまった。  漁師たちは怒り狂っている。これは町役所の企みだ。お日高さまへの信仰がことのほか篤い港と漁師町に対する、このうえなく意地悪な邪魔立てだ。町役所の連中は、渡部という役人が梶原の美祢に邪念を抱いていることを知りつつ、彼の企みも知った上で、お日高さまの ″お戻り ″をぶち壊しにするために、わざと放置しておいたのではないか。わざと彼に警護の任を与え、事が起こるのを待っていたのではないのか。  これは邪推だ。バカバカしいにもほどがある深読みだ。しかし、無理のある深読みではない。 何も事情を知らなければ、宇佐だってこの噂を呑み込んでしまったろう。  渡部は、自分のしでかした事がこういう波紋を生み出すと、一時でも考えなかったのだろうか。今の丸海には、そういう危険があるのだということを。  宇佐は激しく後悔する。やっぱり渡部さまは堀外と堀内しか知らない人だった。漁師町生まれのあたしが、気づいて、諭してあげなかったらわからなかったのだ。なのにあたしときたら、ただうろたえて怒るばっかりで、一寸の歯止めにもならなかった。  もともと漁師町や港の人びとは、丸海の領主を仰ぐ気風が薄い。彼らを生かしてくれているのは海であり、日々の糧《かて》はその恵みだ。自分たちの生活を支え、守護してくれているものを軽んじるならば、領主であろうと許しはしない。公然と歯向かって憤るところを知らないだろう。  今では、船奉行所も彼らを抑えかねている。  昨日、宇佐は和尚の目を盗んで漁師町へ行き、潮見の宇野吉を訪ねてみた。磯番小屋ではなく、自分の家の大座敷に他の潮見たちと集まっていた宇野吉は、宇佐が訪ねてきたと聞いて飛び出してきた。歪んだような険しい顔をして、語気も荒く「とっとと帰れ」と叱りつけた。  わしらは連日、お船奉行さまに掛け合っているところだ。町役所が総参拝警護の手抜かりを認め、一日も早いお日高さま再建に力を尽くすという約定をくれない限り、わしらはもう町役所の言うことはきかん。わしらの言い分を取り次いでくれないのなら、お船奉行さまもわしらの敵だ。  宇佐はひるまず、宇野吉に問い返した。おじさん、本気でそんなことを言うの? おじさんたち潮見が、漁師のみんなを宥められなくてどうするの?  宇野吉はにこりともせず、しかしほんの少しだけ語気を緩めて、宇佐の目を見て言った。 「宇佐ぼう、おまえは女だ。しかも漁師町を出て行った身だ。おまえにはわからん。わしら潮見は、ぎりぎりの淵でどっちに飛ぶかと問われたら、海へ飛ぶんだ。漁師たちのところへ飛ぶんだ。わしらは丸海の民で、お日高さまの氏子だ。畠山の殿様のものじゃねえ」  硬い光を宿した宇野吉の小さな目をのぞきこんで、飛ぶんだ —— ではなく、飛ばねばならんのだというふうに、宇佐は聞いた。 「ここ数日は何があるかわからん。悪いことは言わねえから、中円寺に隠れておとなしくしとれ」  おまえの身に何かあったら、勝が悲しむ。宇野吉はそう言って、宇佐を帰した。  それきり、宇佐は中円寺にこもっている。宇野吉の忠告も身に沁みたが、ここから出て行って何をどうすることもできない自分の無力を悟ったからである。  この太鼓は漁師たちを集め、港に暮らす者たちを煽り、何をさせようというのだろう。揃って船奉行所へ押しかけ、手強い請願をするというくらいならまだましだ。もっと荒れるなら、もっと乱れるなら、事が堀外へと広がってしまうことも大いにあり得る。  目を細め、拳を握って立ち尽くしていると、小さな手で袖を引かれた。見おろすと、寺で暮らしている定吉《さだきち》という男の子だ。流行病にやられた両親と一緒に、半月ほど前から居ついている。母親の方はだいぶよくなったが、父親はつい先ごろいけなくなったばかりだ。 「どうしたの、定坊」  子供は手にひらひらと紙きれを持っていて、宇佐に差し上げてみせた。 「これ、ここに何てかいてあるの? うさぎの姉ちゃん、字が読めるんでしょう」  それは確かに読売りだが、字が少なくて、紙いっぱいに絵が描かれていた。獣の絵である。黒々とした鬣《たてがみ》をなびかせ、牙を剥き出し、たくましい四肢で地を駆けて ——  いや、よく見ると、この獣の脚がかき分けているのは地面ではなく、雲だ。四肢の先についた五つの鈎爪は、流れる雲を引き裂いているのである。長い尾の先は三つに裂け、そこに炎が燃え盛っている。  雄たけびをあげながら、天から舞い降りてくる獣。  宇佐は絵の端の添え書きを読んだ。「らいじゅう」とある。  雷獣だ。雲の遥か上に棲みつき、天空を縦横に駆け巡りながら、地上に雷を落とす恐ろしい獣。 「こんなもの、どこでもらったの?」 「おみっちゃんのおとっちゃんが、町でもらったんだって。ねえこれ、何てかいてあるの? おかあちゃんはこれ、かみなりをよぶケモノだって言ってた」 「うん、そうだよ。らいじゅうっていうんだ。でも、いっぺんお日高さまにやっつけられたから、今の丸海には近寄ってこないよ」  定吉は目をぐりりと丸くした。 「え〜、そんなことないよ、お姉ちゃん。いるんだよ。だって見た人がいるんだもん」 「誰が見たっていうの?」 「こんぴらさまを拝みにきた江戸の絵描きさんが、見たんだって。お日高さまのあったところに、ゆんべ、このケモノが空から降りてきて、吠えてたんだって。そんでこの絵をかいたんだよ」  町じゃみんなが話してるよ、という。  宇佐はにっこり笑ってみせた。 「それは本当の話かなぁ。江戸からのお客さんて、今いるのかな。だって大坂からの船が止まっちゃってるんだから」  これも、港の船頭たちがそれどころではないからだ。 「わかんないけど、でも絵師のひとがかいたんだよう」 「ふうん」 「うさぎのお姉ちゃん、このケモノ、怖いんでしょ? 子供をくらうってホント?」 「そんなのウソだよ。雷獣は雷を呼ぶけど、人をとって食べたりしない」 「ふう〜ん」  定吉は心なしか不満そうである。 「でも、かみなりを落とすんでしょ。このケモノがわぁって吠えると、それがそのままかみなりになってふってくるんでしょ。今まではお日高さまがいたから、このケモノもおとなしかったんだけど、お日高さまがなくなっちゃったから、丸海の町までおりてきて悪さをするようになったんだってさ」 「お日高さまはなくなっちゃいないよ。浅木さまのお屋敷に、ちゃんといらっしゃる」  定吉は、何を言ってもひっくり返されることに焦れたのか、口を尖らせた。 「でも神社は焼けちゃったじゃないか。それもこれもぜぇんぶ加賀さまのせいだって、みんな言ってるよ」 「へぇ〜。加賀さまってそんなに怖いんだ。お姉ちゃん、知らなかったよ」 「知らない方がいいんだって」  急に真顔になり、定吉は声を小さくする。「加賀さまはねぇ、丸海の町をうらんでるから、これからもいっぱい悪いことをするんだって。かれたきのあのおやしきのなかから、はっぽうにらみっていって、加賀さまは丸海のこと何でも見てるんだって。何でも見えるんだって。加賀さまは怖い鬼なんだ。だからね、加賀さまに見つけられないように、おいらたち、小さくなってかくれてないといけないんだよ」 「じゃあ、定坊もいい子でおっかさんのそばにいようね」  これはお姉ちゃんがもらっとく、と言って、定吉から読売りを取り上げた。一人になると、それを小さく畳んで懐に入れた。  定吉の言葉を信じたわけではないが、なぜか破り捨てることは憚られたのだった。      九  涸滝を守る牢番の藩士たちは、総参拝にも参加しなかった。が、そこで起こった事件については、誰もがすでに承知していた。  切実の度合いに差があるとはいっても、藩士たちも日高山神社を信仰していることに違いはない。� お戻り � の無惨な失敗は、彼らの心にも動揺を生んだ。まして、失敗の原因となったのが町役所の役人である。  しかもこの失敗は、彼らの主君畠山公の面目をも潰してしまった。主君が自ら参拝した直後に、家臣の一人が神の座を血で穢してしまったのだ。お日高さまはお怒りだ。いよいよ丸海の地を見放してしまうことだろう。いや、それよりも畠山家に何か異変が起こるのでは。いやいや、お日高さまに、もうそれほどの力は残されていないだろう。お日高さまは、加賀殿の悪気に負けてしまわれたのだ。そうでなければ、そもそも色欲に狂った男を御前に近づけるようなことが起こるわけがない ———  外の騒乱を知らぬまま、一日一日を手で小石を積むように過ごしているほうのもとにも、さすがに今回の変事の余波は届いた。ただ、そこここで囁き交わされる言葉の切れ端を聞きかじるだけなので、詳しいことはわからない。渡部の名が耳に入ることもなかった。  雷獣を描いた読売りは、料理番の一人が手に入れて、こっそり涸滝にも持ち込んだ。膳の上げ下げの際に、ほうもちらりとそれを見せられた。 「これが何だかわかるか?」  牢番の目を気にしながら、料理番たちはこそこそとほうに話しかけた。 「おまえ、丸海の者じゃねえっていうからさ。見たことねえだろ」 「大きなけものですね」 「ただの獣じゃねえ。雷のもとだ。加賀さまのせいでお日高さまが弱ってしまったから、丸海に降りてきたんだよ」 「雷のもとですか。でも、昨日も一昨日も雷は鳴りませんでしたよ」  井上家でも教わったし、おあんさんも言っていた。丸海の雷は春から夏がひどくって、秋になるとひっそりすると。  このところの朝夕の涼気も空の色も、季節が秋に移ったことを教えている。雷の季節は終わりだ。  しかし料理番の男は譲らない。「まだまだ、何が起こるかわかったもんじゃねえぞ。毎年、最後にいちばんでかいのが来るんだしな」  八朔の大雷害だけで、もうたくさんだとみんな言ってるのに。なんでそんな不吉なことを思うのかな。ほうにはわからない。怖がる一方で、ざわざわと楽しみにしているみたいな感じもするのだ。  今朝は、御牢番の方々も騒がしかった。昨夜遅く、交代のために涸滝に登ってくる御牢番が、お座敷の屋根のあたりで何かが光っているのを見たとかいうお話だ。梯子をかけて屋根へ登り、検めようかと算段していたら、御牢番頭の船橋さまからご使者が急いで駆けつけて、星でも見間違えただけのことに、騒ぎすぎるなとお叱りがあった。屋根へ登って加賀殿の頭上を歩き回るような無礼をなすほどのことでもないという、火急のご沙汰だった。ほうはちょうど詰所にいて、朝食のお世話をしていたからよく聞こえた。  御牢番の方々は、ずいぶんと決まり悪そうなお顔をしていた。  料理番の男たちは、その一件については知らないようだった。でも、ほうは話さなかった。余計なおしゃべりはしないこと。二見さまからもよくよく言いつけられていたが、それ以上に、加賀さまにも教えられていたからだ。この屋敷で見聞きしたことに、いたずらに心を騒がせてはならぬ。ましてや言い広めてはならぬ。  ひとしきり内緒のおしゃべりに興じてから、目が覚めたようになって、料理番の一人が呟いた。 「しかしなぁ、この子は今のところ無事だからなぁ」  思い出したように逃げ腰になって、斜めにほうを見ている。雷獣を怖がるように、ほうのことも怖がっているみたいだ。 「お日高さまもやっつけてしまわれるほどの加賀さまの悪気だってのに、この子はなんで平気でいられるのかねぇ」 「俺たちもあやかりたいもんだぜ」  屋敷内のあれこれをよそに、ほうはいつもどおり、加賀さまのお部屋に伺った。「海」も「山」も書けるようになったので、今日からまた新しい字を習える。  雷という字はどう書くのでしょうかと、お尋ねしてみた。 「恐ろしい雷を、字で書いてみたいのか」 「はい。丸海ではたくさんの雷を聞きましたが、字を存じません」  硯を前に、加賀さまはほうの顔をじっと見た。ほうは、促されるのを感じた。加賀さまはときどき、こうしてほうの考えを読んでしまわれる。知りたいのは「雷」という字のことではない。 「らいじゅう、というケモノの絵を見たのです」 「雷の獣、と書くのだな」 「はい。加賀さま、ご存知でございますか」 「話に聞いたことはある」 「本当に空から降りてくるのでございましょうか」 「さてな。天上に棲む神獣のことは、地上の者にはわからぬ」  しんじゅう? 「神の獣という意味だ」 「ケモノなのに、神様なのですか」 「そうだ。雷避けの日高山神社のご神体も、山犬だというではないか。あれも神獣だ」 「日高山神社の神さまは、雷獣と戦って丸海を守ってくださったそうです。そうするとその戦いは、ケモノ同士の戦いだったのでしょうか」 「丸海の民がそう信じるのならば、そうなのだろうよ」  加賀さまは筆を手に、さらさらと「雷獣」とお書きになった。 「雷は ——— 」  お書きになった字の上に目を落としたまま、おっしゃった。 「雷獣ばかりが呼ぶわけではない。怨霊が雷となることもある、という」 「おんりょう」  みんな、加賀さまをこそそう呼ぶ。  加賀さまは、口の端だけでわずかに笑った。「私のような者のことだ」  加賀さまの笑みそのものが珍しいものだから、ほうは見惚れていた。そして、その笑みが歪んで消えて、加賀さまの目の奥に暗い光が宿るのにも魅入られた。今まで、一度も見かけたことのない光。  心の奥を探して、何かを取り出すときに必要な、あれは明かりだ。  何を思い出しておられるのだろう。何を考えておられるのだろう。 「まこと、雷は私にふさわしい」  呟いて、筆を置く。 「この地では、江戸に住まっていたころの十年分の雷を、ひと夏で聞いてしまった」 「雷獣」と書いた紙を取り除けて、加賀さまは目を上げる。 「おまえは、空を騒がす雷よりも、地上を潤す雨という字を覚える方が先であろう。そう、雨と恵みだ。その二つの字を教える」  ほうは姿勢を正して座った。筆を取る。すっかり慣れ親しんだ、静かな手習いのひとときが流れる。  雨という字は難しい。何度書いても形が崩れてしまう。お手本をなぞれば何とか格好がつくのだけれど、ほうが一人で書くと、どうしても右肩あがりの形になってしまう。  夢中になっていると、「ほう」と呼ばれた。「はい」と、手を止めかける。 「手習いを続けなさい」  加賀さまは、耳を澄ましておられる。気配をうかがっておられる。唐紙の向こう、隣の座敷に控えているはずの二見さま、御牢番の方の気配を。  お声がすっと低くなった。 「丸海の夏は終わっても、雷はまだ終わりではないそうだ」  ほうは下を向いて書き続ける。 「毎年、最後のしまいをつけるように、ひときわ大きな雷が訪れて、ようやく本当の秋が来る。私はそう聞いた」  砥部先生にな、と言い足された。 「だからおまえは、引手の娘にもらったというお守りを、まだまだ大事にするのだ」 「はい」  なぜわざわざそんな念を押されるのだろう。 「砥部先生の言うことをよく聞きなさい」 「はい」 「先日、先生に診ていただいたそうだな。またの機会もあるだろう。おまえは先生の仰せのとおりにするがよい」 「はい」  三度目の返事でこらえきれなくなって、ほうは顔を上げた。加賀さまが今おっしゃっていることには、ほうにはわからない意味があるような気がする。言葉の後ろに、本当の言葉が隠されているような気がする。それは何だ? 加賀さまのお顔を見ればわかるのじゃないか? 加賀さまはほうの書いた、歪んだ「雨」の字を見つめておられる。その痩せた横顔に、ほうの求める答えは見つからない。 「雨は誰の頭の上にも同じように降りかかる。しかし、降り止まぬ雨はない」  よく習いなさい ——— とおっしゃって、手習い終わりの時刻になった。     十  事は、翌早朝に起こった。  発端は他愛ない諍いである。塔屋の磯子たちが紅貝を拾いに磯に降りたら、見張りに出ていた漁師たちに追い返されたというのだ。塔屋では、八朔の大雷害で被害の出たところもあり、お日高さま総参拝のころまであれこれとごたついていた。磯子たちは久々に貝を採りに出たのである。  塔屋は町役所差配下にある。だから嫌がらせをしたという、筋道の立った衝突ではあるまい。漁師たちは、連日船奉行所に食い下がってもらちが明《あ》かないことに焦れ、海に出るのを控えねばならないことにも嫌気がさしていて、みんな気が立っている。ささいな言葉のやりとりや、挨拶の行き違いでも喧嘩の火種になるのだ。  しかし、追い返された塔屋の方も黙ってはいられない。塔屋頭たちが集まって潮見のところに押しかけた。磯も浜も漁師たちだけのものではない。紅貝が採れなければ、塔屋の仕事はすぐ立ち行かなくなる。  いざこざは、それぞれの頭同士がぶつかってもおさまらなかった。いったいおまえたちはどちらの味方なのだ。お日高さまのご不在をどう思っているのか。町役所に頭を抑えられて、へいこらしていればいいのか。そういう漁師町はどうなのだ。いつまでごねていても何も変わらない。お日高さまは浅木家にちゃんといらっしゃる。海を見おろす神社に御座しておられないことにこだわるのは、とんだ臆病者ではないのか。  頭が喧嘩すれば、一度はおさまった下の者たちの争いも再燃する。塔屋は女が多いから、まともな喧嘩では不利だ。その分、口は達者だ。ぶんぶんわんわん、とんだ秋口の蚊柱のやかましさに、とうとう堀外の引手たちが乗り出すことになり、そこでまた騒動が大きくなった。  それでも昼ごろまでには、互いに宥めたり引いたり諫めたりする空気もあって、騒ぎは一旦終息した。ちょうどそのころ、宇佐はお使いがあって堀外へ出ており、通りがかりの人たちの口から騒ぎのことを聞いて、おさんの身が心配になり、離れ屋に駆けつけた。  おさんは笑っていた。手放しの笑顔ではなかったが、怯えたり恐れたりするよりむしろ呆れた様子で、宇佐はほっとした。 「何でこんなことになるんだろうね。あたしらが角突き合ったって、何にもならないのに。頭にはもっとしっかりしてもらわなくちゃ」 「明日も磯には行かれないかしら」 「とんでもない、行くよ。貝が足りなくなっちまうもの。明日はあたしがうちの磯子たちを連れていく。にこにこしてりゃ、喧嘩にはならないさ」  あの人たちだって漁に出りやいいんだよと、苦々しい口つきで言った。 「本殿が失くなったって、どこにお移りになったって、お日高さまはちゃんと丸海の者を守ってくださるさ。神さまは、そんなに狭い了見をお持ちじゃないよね」 「おばさん ——— 」 「でもそれを言うと、また喧嘩になるんだよ。困ったもんだ」  染料のツンとする匂いのなかで、ふつふつと沸く煮釜ごしに、おさんは目を細めて宇佐の顔を見た。 「宇佐ちゃん、あんた大丈夫かい」 「あたし?」  おさんは言いにくそうだった。 「渡部さまは —— どうなすったんだろうね。たがが外れちまったんだかね」 「あたしにもわからないよ」 「ンじゃあ、あたしにわかるわけがないか」  作り笑いをした。宇佐を慰めようとしているみたいに見える。 「男ってのは、しょうがないね」  おさんは手の甲で顔をこすった。湯気が目に沁みると、わざわざ言った。一年中ここにいるのだ。もう湯気にも匂いにも慣れっこだろうに。 「あたしはさ、あんたが渡部さまと一緒になるんだとばっかり思ってた。よく連れ立って歩ってたじゃないか」  目立たないようにしていたつもりだったのに。 「それはホラ、あたしが引手の真似事をしてたときだけの話だもの」 「あんた、好きじゃなかったの、渡部さまのこと」  宇佐は大きく首を振った。「考えてみたこともないよ。渡部さまだってきっとそうだったよ。だいいち、あたしがお役人さまの嫁になれるわけないじゃない」  おさんの顔が曇る。「だったらやっぱり、噂されてるとおりなのかね。渡部さまは、梶原のお嬢さまに惚れていなすったのかな」  男はバカだね、死ぬほどのバカだ。おさんは悲しげに言い放った。宇佐はあいまいに、うんともはいともつかない返事を残して、中円寺に逃げ帰った。  渡部の死以来、英心和尚は宇佐の言動に目を光らせている。どこにいても、何をしていても、和尚に睨まれているのを感じる。自分でお使いを言いつけておいて、ちょっと宇佐の帰りが遅れると、どこにいた何をしていたとしつこく尋ねる。これこれの騒ぎがあったと聞いて塔屋へ寄ってきたと正直に答えると、 「これ以上、厄介ごとに首をつっこむな」  頭から叱られた。  あまりにも厳しく監視されるので、宇佐はふと疑いを抱いた。渡部が訪ねてきたあの夜、和尚は本堂で大鼾《おおいびき》をかいて寝ていたはずだが、もしかしたらあれは空《そら》鼾で、二人のやりとりを聞いていたのかもしれない。  だったら、あの場で起きてきて怒鳴りつけてくれればよかったのに。  昼の八ツ半を過ぎたころ、漁師町からまた早太鼓の音が聞こえてきた。宇佐は物干し場にいてその日二度目の洗いものを取り込んでいるところだった。そこへ和尚がやって来た。野良着姿ではなく、法衣と袈裟を着けている。 「お出かけですか?」 「三幅屋に行ってくる」  短く応じて、和尚は顔の真ん中に鎮座している大きな鼻に、何とも珍妙な皺を寄せた。和尚の頭は丸く、目も丸く、真っ直ぐなところなどどこにもないのに厳《いか》つく見えるのが不思議だ。 「この太鼓」  空を響いてくる音に、指を一本立てて示す。 「気にするな。おまえには関わりのないことじゃ」  宇佐はぞわりと悟った。「何かあったんですね? それで三幅屋の旦那さんに呼ばれたんですね?」 「まだわからん。わしも使いの者の話を聞きかじったばかりじゃ。珍しく重蔵があわてておるんで、様子を見てくる」  右手に大粒の念珠をぶらさげて、和尚は仁王立ちしている。鼻の皺もそのままだ。ちまちまとまばたきすると、早口に言った。 「わしが黙っとっても、おっつけ、ここにもいろいろ聞こえてくるじゃろう。そそっかしいおまえのことだから、聞けば、じっとしとられなくなるだろう。だから先に言っておく。騒ぐなよ。寺から出るな」 「 ——— どうしたんです」 「今朝方の火が、また燻りだしたらしい」  船は止まっているが、旅寵町には先《せん》からの客がいる。今朝の騒動は、彼らの耳にも入っている。お客の身に万が一のことがあってはならないので、旅寵町では三店の主人が先頭に立ち、引手を回してもらって守りを固めていたのだが、それがかえって裏目に出た。一刻ほど前、旅篭町を回っていた引手が、何かの拍子で漁師町から来た魚売りと喧嘩になり、それぞれに加勢する連中が集まってきて、道端で大立ち回りを演じたという。  結局、その喧嘩では引手が優勢で、火種の魚売りをひっ捕らえて番小屋に引っ張って行ったというのだが。 「無論、それだけじゃ収まらんわ。ついさっき、漁師町の気の荒い連中が集まって、西番小屋に押しかけたそうじゃ。魚売りを返せというわけでな」  宇佐は飛び上がりかけた。「じゃ、喧嘩した引手は西番小屋の者なんですか」 「そのようじゃ。名前はわからんが」  宇佐の脳裏を、磯番小屋で憎まれ口をきいていた花吉の顔がさっとよぎって消えた。 「引手を呼んでいた旅寵の方にも飛び火が来てな。仲裁に入った重蔵のところに、頭に血の昇った漁師たちが因縁をつけに来ておる。なに、解せんことじゃない。こういう時には、筋道なんぞ立っとらんでも、面白くないものは面白くないと、あたるを幸いにどこへでも噛みつく輩が出てくるものじゃ」 「じゃ、旅篭町も大変なことに ——— 」 「そうならんように、重蔵がわしを呼んだんじゃ。わしも伊達に袈裟を着とるわけじゃないからの。この坊主頭を見れば、目が冷える者もおるだろう。たっぷり説教してやるわ」  英心和尚だけでなく、他の寺からも住職たちが堀外へ出かけて、そこここで起こっている喧嘩口論を鎮めにかかっているという。 「塔屋は大丈夫でしょうか」  旅籠町と塔屋連は、お日高さまの再建に前向きで、金も集めていた。が、″お戻り ″が失敗に終わった後は、漁師町のような強硬な出方はせずに、とりあえずは町役所のお達しに従っている。漁師町の者たちは、それが面白くないのだ。結局おまえらはどっちの味方なんだ? 白なのか黒なのかはっきりしろという、威勢はいいが一本調子の怒りに染め上げられてしまっているのだ。 「堀外じゅうを、引手たちが走り回っておるよ。連中で収められなければ、町役人が出張《で ば》ってくるじゃろう。だが、出る頃合いが難しい。下手に刺激すると、火に油を注ぐことになりかねんからな」  漁師たちは、そもそも町役所が気に入らないのだから。 「潮見のおじさんたちはどうしてるんでしょう。船奉行所は? 磯番小屋の番人たちは」 「さあ、知らん。宥めたり煽ったり、存念によるわな。あてにはならん」  そんなことを話しているあいだも太鼓の響きは続いている。それどころか、 「和尚さん、和尚さぁん!」  中円寺のなかまで騒がしくなってきた。 「騒々しいのう、何だ何だ」  のんびりとした声を返し、干し物をめくって英心和尚が出てゆくと、大人と子供が入り混じって数人、ばらばらと駆け寄って来た。 「大変だよ、煙があがってる。堀外で火が出てるよ!」  宇佐は和尚を追い越して走った。山門のあったところから見渡すと、ひとつ、ふたつ、ああ今、みっつめが見えた。確かに煙の筋が立ちのぼっている。急調子の太鼓の音が耳を突く。これは潮見櫓のではなく、堀外の火の見櫓の太鼓だ。  左手前方、いちばん濃く煙があがっているのは、西番小屋のあたりではあるまいか。  喧嘩が広がり、誰かが火をかけたのか。  何だろう、どうしたことだろう、今朝、漁師町で騒ぎがあったっていうけど、それがまだ続いているんだろうか。不安げな囁きが宇佐の耳元をかすめる。 「痴《し》れ者めらが!」  和尚は眼下の光景をまとめて叱りつけた。低く押し殺した声だ。宇佐をぐいと後ろに押しやり、集まってくる寺の人びとを振り返ると、一転して胴間声で呼びかけた。 「皆の衆、あわてるな。堀外で何が起ころうと、この寺は安全じゃ。ここにおれば何の心配もない」  ゆるゆると手を上下させ、一同の頭を押さえるような仕草をしてみせる。 「皆はそれぞれの仕事に戻れ。こら、おとき。おまえはまだ熟があるのではなかったか。市助《いちすけ》よ、薪割りはどうした」  呼ばれた市助が口を開く。「でも和尚さん、わしらはいいけど、堀外には爺婆がおるんです」 「おお、そうだったな。よんど騒がしいことになれば、これはかなわんと、ここを頼ってくる者もおろう。みんな入れてやるがいい。しかし、様子を見に行こうなどと思うなよ。こういう折は、安全なところにいる者は、じっと動かずにいるものじゃ。動くと行き違いになって心配の種が増える。いいな、皆わかったな?」  一同は顔を見合わせたりうなずいたり、促しあって動き出した。頭を寄せ背伸びして城下を見渡している子供たちの尻を、英心和尚は、ぱんぱんと音をたててはたいた。 「これ、おまえらも暇があるならうさぎを手伝え」  集まった人びとを追い散らしておいて、宇佐の腕をつかむと、顔を寄せ、太い声を絞るようにして念を押した。 「いいな、けっして寺から出てはならんぞ」 「わ、わかりました」  英心和尚は、ふと迷うように口元を止め、それから声音《こわね》を変えて言い足した。 「渡部一馬が死んだのは、おまえのせいではない。おまえには止めようがなかった。あれはあの男の運命じゃ」  和尚が声音を変えたのは、宇佐を慰めるつもりであるからだろう。が、言葉はお叱りに聞こえた。 「和尚さま、やっぱりご存知だったんですね。本当は寝てなかったんでしょう」  英心和尚は白状しなかった。宇佐の腕をそっと離し、肩をぽんと叩いた。 「あ奴は、おまえが共に逃げると答えていたら、うろたえるばかりだったろう。おまえが断るとわかっていたから、あんなことを言ったのだ。愚かじゃ。どうしようもなく愚かじゃった。おまえがその愚かさに付き合うことはない」  宇佐をぴしゃりと釘付けに、法衣の裾をむんずとつかんで持ち上げ、急ぎ足で歩み去った。堀外へと降りてゆく。  衆を頼んで事を起こすとき、人の心は光を失う。  どこが明るい場所なのかを見失う。暗くとも、淀んで騒がしくとも、衆の集まる方角へと雪崩《なだれ》を打って走ってしまう。走り集まれば肩がぶつかり、誰かが誰かの足を踏み、倒れた者の背中を踏み、怒号があがり拳が振り上げられる。相手の顔さえ見分けがつかない。  つかんで揺さぶり、殴り飛ばし、口汚く罵り、罵り返される。ただそれだけに没頭し、そもそも何が理由で争いが始まったのか、何が面白くなかったのか、どこに不満があるのか、大切なことが置き去りになる。    西番小屋で最初の火が出たのは、喧嘩で捕らえられた魚売りを取り返しに押しかけた漁師たちが、狭い小屋のなかで引手たちと揉み合っていたせいだ。  番小屋では、いつ要るようになるかわからないので、季節と時刻を限らず火を絶やすことがない。蝋燭一本であれ点《つ》けておく。このときもそれが倒れて、引手の一人の着物に火が移ったのが始まりだった。  何事もない折ならば、容易に消し止められる小さな火だ。だが間が悪かった。皆気が立っている上に、人数が多い。番小屋の外で睨み合っていた者たちは、事情がわからず、ただ火がついたという声に煽られて興奮する。互いに邪魔をし合い、右往左往しているうちに火は燃えあがる  西番小屋の親分の常次は、町役所に呼ばれていて不在だった。西番小屋に帰ろうとしている途中で、番小屋が火事だ、漁師町の野郎どもが火をかけやがった、と触れ歩く声を聞きつけ、走り出した。西番小屋は塔屋の立ち並ぶ町筋に近い。近隣の者たちは、今朝、磯子たちが追い返された騒動を知っている。不満不平の火種はそこらじゅうを歩いていた。パッと弾ければ、あれよあれよという間に広がる。常次が走る道筋とは逆に、火事だ、漁師町の連中が番小屋に火を点けた ——— という悲鳴に近いお触れが駆け巡っていった。  守勢に回った漁師町の者たちは、いったんは逃げ出した。が、番小屋がやられたという声に色めきたって駆けつけた引手たちに追い立てられ、さらに頭に血が昇る。町筋のそこここで喧嘩が始まる。目の前の火事はそっちのけだ。引手たちが集まれば、漁師町からもさらに人が来る。港では潮見櫓の太鼓が鳴る。  事情を知らぬ者たちは、ただその音に動転し、じっとしてはいられなくなる。  何が発端なのか、何で騒動が起こっているのか、知らないままただ興奮だけに突き動かされ、喧嘩の輪に飛び込む者たちも出てくる。磯番小屋の番人たちは、漁師たちに加勢しようと馳せ参じる。駆けつけた潮見のなかには老人もいるのに、問答無用で殴られて倒れれば、それがまた新しい火種になる。  西番小屋を芯に、堀外の町の道筋を通って、怒りの野火が燃え広がる。塔屋筋へも、旅篭町へも。  町役所から火消しが出ても、混乱に邪魔され西番小屋に近づくことさえ難しい。西番小屋は燃え上がる。火の色が男たちの目に映る。  道端で乱闘が起これば女子供は逃げ惑う。塔屋では作業場にまで男たちがなだれ込み、殴る蹴るの騒ぎを起こして煮釜がひっくり返る。怪我人が出ればそれでまた荒れ狂う。旅寵町では軒を連ねる旅舘がいち早く表戸を閉じたが、そこに誰かが逃げ込んだという声があれば、戸を叩き壊して追いかける者が後に続く。  やがて堀外の他の場所でも火の手があがる。今度はもう、喧嘩のはずみの出火だけではない。恐れと怒りが竜巻のように立ちのぼる。  丸海の者どもはどうしてしまったのか。いつの間に、これほどの憤怒を溜めたのか。  加賀殿お預かりという「変事」以来、誰もが恐れ、しかし口をつぐんできた。沈黙し、頭を下げて忍ぼうとしてきた丸海の民を嘲笑《あぎわら》うように、流行病が起こり、雷害が続いた。死んだ者、病み苦しむ者、家を失くし、仕事にはぐれ、それを諦めるしかなかった者たちは、確かに怒りを腹に隠してきたのだ。  誰が悪い? 誰のせいでこんな羽目になった? じっと辛抱してきたのに、何ひとつ報われないじゃないか。この災厄には終わりはない。丸海の地はお日高さまにさえ見捨てられてしまった。  さまざまな腹立ちが交錯し、土手が崩れて、互いに互いを憎み厭い嫌う思いが溢れ出す。目の前にいる紅半纏が憎い。臆病者揃いのくせに、口先だけでぎゃあぎゃあ騒ぐ刺し子の半纏が目障りだ。海に出られぬ我らを尻目に、しゃあしゃあと煙をあげている塔屋の連中が面憎い。  この人たちはなぜこんなに暴れるのだ。誰のせいでもないのに、なぜつかみ合いを始めるのだ。火事が広がる。火消しはどこにいる? 子供たちが泣いている。助けを求める声がする。道端に、ぼろくずのようになった人びとが倒れ、うめき声をあげている。  まるで一揆のような有様だ。  呆然として立ちすくみ、広がる火事に追われて身ひとつで逃げ出す人びとの頭上に、太鼓の音が鳴り続ける。     十一  町役所では、暴れ騒ぐ者たちが堀内に入り込むのを防ぐため、まず柵屋敷の守りを固めた。堀外のことは引手に任せてきた彼らは、その引手こそがこの暴動の原因だと、すぐにはつかむことができなかった。  城下の火事を、騒乱に遮られて町火消しが消し止められぬのだと、山奉行所の山火消しが出張ってくるまでに貴重な時が無駄になった。堀外の火事は燃え広がる。  船奉行差配の船役人たちは、漁師たちを取り押さえに駆けつけて、堀外の混乱と惨状に呆れかえる。目につくそばから捕縛してみれば、引手の紅半纏が歯をむき出してつかみかかってくる。ようやく現れた捕物支度の町役人たちと遭遇すれば、互いの顔の上に怒りと反目を見つける。このざまは何だ!  火消したちは、火勢を鎮めるため、町筋の家々を打ち壊しにかかる。大槌が振るわれ、そのたびに丸海の町は壊れてゆく。火が追いついてきて空が焦げる。すぐに呼吸が苦しくなる。舞い上がる土煙に目が見えない。  捕縛だけでは事の収拾に足らず、役人たちが刀を抜く。怯えて逃げる者たちもいれば、かえって向かってゆく者もいる。血が飛び、悲鳴があがる。  英心和尚は、火事と騒乱と逃げる人びとのあいだを縫って、何とか旅寵町へたどり着いた。道中、この騒ぎはとうてい説法ではおさめられぬ、寺と養生所を守る方が先じゃと、袈裟の裾をはためかせて町筋から逃げ出してゆく宝幸寺の住職とすれ違った。  三幅屋では少人数残っていた宿泊客たちを集め、金比羅様へ続く山道へ逃がそうと、支度をしているところだった。重蔵が差配をしている。和尚の顔を見ると、恐怖に尖った顎の線に柔らかなものが戻った。 「ああ兄さん。よくここまで来られたものだ」  旅籠町では、今は他の町筋のような乱闘沙汰は起こっていない。それが通り過ぎた痕があるだけだ。怯えあわてているのはこの町の者と、客たちだけである。 「西番小屋が火をつけられたと聞きつけて、ここらで喧嘩していた連中は、みんな戻って行ったのだ」  風に乗って煙が流れてくる。ものの焦げる匂いが鼻ばかりか口のなかにまで入り込んできて、ざらざらと嫌な味がする。  三幅屋の前に立っていても、まだ無事な家々の屋根越しに炎の舌が見える。火の見櫓の太鼓は一向に鳴り止まない。 「早く皆で逃げろ。わしが通ってきた町筋だけでも、なんぼ火が出ていたかわからん。火消しは何をしとるのか、燃え広がる一方だ」 「兄さんも一緒に」 「いや、わしは寺に戻る」和尚は言い切った。「重蔵、拝領羽織は持ったか」  重蔵ははっと兄の顔を見た。 「三幅屋の家宝だ。焼いてしまうようなことがあってはならん。頼んだぞ」  それだけ言うと、くるりと踵を返して、草鞋を履き荷を背負って宿の前で身を寄せ合っている客たちに向かって手を広げた。 「おお、これはとんだ災難に遭われたものです。しかし案じることはない。これから宿の主人が皆を安全なところへとお連れしますでな。金比羅さままでは、峠をふたつ越えるだけの道のりです。造作もない。足元に気をつけてお出かけなされ」  場違いなほどにこやかな朗声に、強張っていた客たちの顔が少しばかり緩む。 「三店は揃って逃げるのか」 「もう逃げているよ、兄さん。私らが殿《しんがり》だ。私は兄さんを待っていたんだ」 「律義なことじゃ。さっさと行け!」  英心和尚は弟を追い立てた。重蔵は振り返り振り返り、大きな行李を背負って走り出す。  井上啓一郎は宝幸寺内の養生所にいた。香坂家の泉も一緒に患者たちを診ていた。ひところよりも人数は減ったが、まだここを離れられない者たちは、それだけ重症なのだ。大雷害で家を失って帰るところがない者もいる。  西番小屋が焼かれたという報せが飛び込んできたかと思ったら、寺に近いところからも火の手と煙があがり、通りを駆け抜けてゆく男たちの怒声や、女子供の悲鳴が聞こえてくるようになった。養生所に運び込まれてくる怪我人もいる。時が経つにつれ、喧嘩の怪我人よりも火傷の重傷者の方が目立ってきた。刃物で斬られたり、刺されたりした男たちもいる。着いたときには絶命している者も。  いよいよ火の手が回って逃げねばならぬようにならない限り、迂闊にここを動かない方がいい。怯える者たちを宥めて啓一郎は治療に奔走した。そこへ、喧嘩沙汰を鎮めに出かけていた住職が煤だらけになって戻り、堀外の様子を聞かせてくれた。ようやく役人たちが出張ってきて騒乱を抑えにかかっているが、暴徒に邪魔され火消しが後手に回って、火はいまだ燃え広がっているという。  啓一郎は決断を迫られた。 「泉先生、住職と一緒に、患者たちを集めて堀内へ逃げてください。柵屋敷の養生所に入れてもらえばいい」 「井上先生は残られるのですか」 「ぎりぎりまでここにいます。この分では、まだまだ怪我人が増える。頼って来る者に、どこへ逃げればいいか教えてやらなくては」  堀内に近い井上家には心配はない。いざとなったら薬箱をさげて逃げるだけだ。供に来ていた盛助を先に帰しておいてよかった。  吹き寄せる風に、煙だけでなく火の粉が混じるようになるまで、啓一郎は養生所に留まった。何人もの重傷者に手早く手当てをし、戸板に乗せて柵屋敷へと逃がした。煙で咳き込み、喉が涸れてきた。目がしばしばする。  掘外のどれほどの範囲が焼けているのだろう。今朝方は西風だったのに、今は渦巻くような風が鳴っていて、どの方向から吹き付けているのか感じ取ることができない。どちらを向いても、まともに顔に風があたる。火災が広がっているせいだ。火は風を呼び、その風は火を巻く。  お役目とか、医師の責務とか、まとまった考えがあって動いているわけではなかった。啓一郎はただただ怒っていた。父上、不気味な病、大雷害、そして今度はこの惨事です。騒乱と大火事、丸海の町は壊れようとしている。丸海の民が壊そうとしている。  温和で優しく、つつましい働き者のこの民が、これほど度を失い乱れ狂ってしまうまで、いったい誰が追い詰めたのか。  ここまで来てしまっては、もう、父上が何を企もうと、それがどれほど上手く運ぼうと、すべて手遅れではありませんか。 「井上先生、井上先生! もう通りの向こうまで火が来てる! 逃げてください!」  片手に薬箱を、片手でたった今手当てした怪我人を支えて、啓一郎が養生所の戸口を離れたとき、軒の上に火のついた木っ端が飛んできて、ぱっと火花が散った。  和尚の言葉に嘘はなかった。中円寺は場所がよかった。堀外に広がる火の勢いに、追われた人びとが続々と逃げ登ってくる。怪我人は本堂に、無事な者たちは境内に、振り分けて避難させ、手持ちの頼りない薬で手当てにかかる。  今では、丘の上の中円寺から見おろすだけでは、煙に遮られて堀外の様子がよくわからなくなっていた。が、逃げてきた人びとがてんでに急き込んで話してくれる事柄を聞き集めてゆくと、宇佐は膝ががくがくしてきた。たいへんな火事だ。昼間のことで、北風の強い冬場でもないのに、なぜここまで広がってしまったのだろう。 「いっぺんに、あっちこっちから火が出たんだ」 「火消しが来ても、通りが人でいっぱいで通れなかったんだよ。引手の連中が漁師たちと揉めてて、漁師町からはどんどん加勢が来てさ」 「お役人たちがみんなひっ捕らえてたけども、どこへ連れていったんだろう。堀外じゃ、どこにいたって煙で前が見えないよ」  煙で喉を痛めた人たちに水を配ってまわっていたら、頭を抱えて泣きながら、「おしまいだ、もう丸海はおしまいだよ」と呻いている老人を見つけた。塔屋筋で見かけたことのある顔だ。 「離れ屋はどうなりましたか? 知ってませんか? おさんおばさんと、お菊さんと、八太郎って子がいるんです」  老人は涙に濡れた顔を上げた。「離れ屋は、あたしが逃げ出してくるときには火が回ってたよ。塔屋筋には、西番小屋の火が飛び移ってきてさ」 「釜場からも火が出たのさ」と、一緒にいた女が震えながら言った。「漁師たちが来て、さんざん荒らして火を点けたんだ。塔屋はみんなやられちまったよ」 「だって、どうしてあの人たちがそんなことを……」 「知らないよ! 漁に出られないからって、あたしらのせいじゃないのに。あんな奴ら、みんな焼け死んじまえばいいんだ!」  泣いて怒っている。着物の袖と裾が焦げている。塔屋筋を襲ったのは、本当に漁師町の男たちだったのか。騒ぎに乗じた町の者たちだっていたはずだ。そんな反問を、宇佐は口のなかに閉じ込めた。訊いてみるだけ無駄だ。みんな頭で考えることを忘れて、目先の腹立ちや恐怖だけに振り回されているのだから。  みんな疲れていた。みんな辛抱が切れかけていた。加賀さまがいらして以来、丸海の人びとは理不尽な我慢を強いられてきた。よく辛抱を重ねてきた。でも、我慢しても我慢しても、何ひとつ一向に良くならない。  宇佐のまわりだけでも、これまで何人死んだことだろう。命はつながっていても、流行病に悩まされ、雷害のせいで生計《たつき》の道を失い、苦しんでいる人たちはもっと大勢いる。しかも、何よりも悪いのは、これがいつになったら終わるのか、まるで見当がつかないことだ。  もう、たくさんだ。誰かに憤懣をぶつけないことにはおさまらない。そう叫んで暴れだしたかったのは、引手たち、漁師たちだけじゃない。確かにこの騒乱の火付け役は彼らなのだろうけれど、この喧嘩沙汰がなくたって、いずれどこかで同じことが起こっていただろう。  それを思うと、宇佐は脚が萎えそうになるほどに怖かった。中円寺に逃げ込んできた人たちのなかには、見知った顔も少なくないのに、みんな別人のように見えるのも恐ろしい。これまで互いに見せたことのない顔を、みんなが取り出して見せ合っている。その顔は、あるときは歯を割き出して相手を罵り、あるときは絶望に泣いている。悪いのは誰で、悪くないのは誰か。誰にも見分けがつかないのに、無理に見分けて仇《かたき》を探そうとしている。  あたしもあんな顔に見えるのか。  いろいろ聞いてゆくうちに、堀内の柵屋敷に入れてもらえた人たちもいるようだとわかってきた。涸滝の方の山道へ逃げた連中もいる。宝幸寺の養生所も火がかかっていたよ。切れ切れだがいろいろな話が耳に飛び込んでくる。若先生はご無事だろうか。不安が胸に刺さり、じっとしていられないので、宇佐はやみくもに働き続けた。  和尚にあれほど強く釘を刺されていても、何度か、宇佐は寺を出そうになった。離れ屋が焼けたと聞いたときなど、とうとう我慢が切れそうになった。が、吹き上げてくる焦げ臭い風と熱気と煙の濃さに、あたしみたいな非力な者が一人で降りていったところで何もできない —— という分別の揺り返しがきた。山火消しが出たというのだから、大丈夫、待っていればきっと火を消し止めてくれる。あたしはあたしにできることをしなくちゃ。  若先生だって、井上家にいらっしゃるだろうから、ご無事のはずだ。あそこまで火は届いていないんだから。焼けているのは堀外の町場だけなのだ。  それにしても和尚の身が心配だ。旅寵町へ着けただろうか。三幅屋はどうなった?  おしまいだよ、おしまいだよ ———  これもお日高さまが弱られたからだ。丸海は悪いものに憑かれた。怖い病と、大雷害と、みんなみんな根はひとつだ。  恨み言を含み、それでいて怯えるようにひそめられた呟きが聞こえてくる。傷つき疲れて途方にくれた人たちが、うなだれた頭をつと起こすと、誰にそう命じられたわけでもないのに、涸滝の方へと目を投げる。  江戸での噂は本当だった。お役所も番小屋も、めったなことを言い広めるなときつく咎めてきたけれど、本当のことは止められない。誰にも止められない。  いいや、本当のことだからこそ、口にしてはいけないと止められてきたのだ。 「涸滝は、焼けてないよね」  誰かが言った。うなずく顔、顔、顔。  北の山中にある涸滝の屋敷は、森に囲まれてひっそりと涼やかにたたずんでいる。  襟首を掴み合い、争い合い、壊し合い喚き合っている丸海の人びとを尻目に。  仇は ——— あそこにいるじゃないか。 「加賀さまは、あたしらみんなを殺してしまおうとなすってる。あたしらが加賀さまを閉じ込めたから、怨んでいるんだ」 「俺たちが閉じ込めたわけじゃない。俺たちが悪いんじゃないのによう。焼くなら、お城を焼けばいいのによう」  そんな見境なんかないのさ。  加賀さまは鬼なのだから。  人の心を持たないのだから。  同じように涸滝を見やり、宇佐だけは一人、心に呟く。それでも、ほう、あんたは涸滝にいるからこそきっと無事だよね ——— と。  陽が傾くころになって、ようやく堀外の火事は鎮まった。  焼けた家々と打ち壊された家々。瓦礫が平らかに広がり、急に見晴らしがよくなった。燻る煙と焦げた臭いを、海風がさらってゆく。  塔屋筋はことのほかの惨状で、無事に残っている建物は二つしかない。堀外の真ん中を突っ切る、大きな商家が軒を連ねる表通りは、火災よりも、防火のための打ち壊しと騒ぎに乗じた物盗りで荒らされていた。それでも飛び火にやられなかったのは、このあたりの家々は瓦葺きになっているからだ。板葺き屋根の長屋や貸家は根こそぎ焼けた。  ざっと見渡して、堀外の町屋の半分近くは焼けてしまったろうか。  旅籠町には火は届かなかった。泊まり客を山越えで逃したお店の者たちが戻ってきて、後片付けをしながら、逃げ込んできた人たちを世話している。こういうときも仕切るのは三店の主人で、重蔵は忙しい。が、そのあいだを縫って中円寺に小僧を走らせ、英心和尚が無事か問い合わせてきた。  和尚は戻っていなかった。  宇佐は決断した。もう火事は収まったのだから、言いつけを破ることにはならない。寺から出て和尚を探そう。小僧さんでも中門寺まで登ってこられたのだ。大丈夫。 「旦那さんには、宇佐が和尚さまを探しています、見つかったらすぐお知らせに伺いますと伝えてね」  小僧に頼み、足ごしらえをしっかりして出かけた。薬や食べ物、晒など、調達したいものもある。城下のどのあたりに焼け出された人たちが集まっているのか、和尚を探して歩き回っているうちにわかるだろう。匙家の先生に出会えれば、中円寺にも来てもらいたい。  宝幸寺の養生所は無事だろうか?  心が乱れているせいもあるだろうが、家が失くなり道が瓦礫で狭められ、町の姿が変わっているので、目隠ししていたって歩けると思っていた堀外で、宇佐は何度か方角を見失った。火に追われて身ひとつで逃げた人たちが、見る影もなく焼け落ちた長屋跡に呆然と佇んでいる。別れ別れになった家族を呼び、声を嗄らしている人がいる。しゃがみこんで泣いている子供がいる。中円寺に行けと声をかけ、和尚を見かけなかったかと尋ねても、最初のうちは宇佐に何を言われているのか聞き取れないほど深く自失している人もいた。  表通りでは、そこここで炊き出しを始めた。自然、人が集まってくる。そういうところには町役人たちの紅羽織も見える。荒らされた商家のなかを検分したり、何があるのか人びとを叱りつけたり、大声で指図をしたりしている。  焼け跡には役人たちの姿はない。引手たちの顔も見かけない。ただ疲れて怯えた堀外の人たちが散っているばかりだ。  怪我人を戸板に乗せて運んでゆく男たちに出会ったので、どこに行くのか尋ねてみた。 「香坂の先生のところに行くんだ。匙の先生のお宅はみんな無事だから、重い怪我人はそっちへお頼みしろって、さっき引手が触れ回ってたからよ」 「養生所は? 宝幸寺はどうなったか知ってますか?」 「焼けたって聞いたよ」  煤けた顔の男も、身体のあちこちにある火傷が痛そうだ。 「さっきあっちの方から来た奴の話だと、すっかり焼け落ちて、残っているのは釣鐘だけだってよ」 「じゃ、病人や怪我人は ——— 」 「わからんけど、やっぱり匙家を頼ってるんじゃねえか」  別の男が、堀内に近い二つの寺が無事だと教えてくれた。どちらも宝幸寺よりは小さいところだ。焼け出された人たちが集まっているという。 「ありがとうございます。あたしは中円寺の者です。中円寺も無事だって、広めてください。まだ人が入れます」 「おう、わかった」  人に声をかけるたびに同じようなやりとりを重ね、だいたいの様子がわかってきた。見知った顔とも出会った。が、英心和尚を見かけたという人はいない。離れ屋のおさんたちの無事も知れない。  塔屋筋に回ると、背中が寒くなるような眺めが広がっていた。名のある絵師が筆を取って描き留めたほどの丸海の名所、塔屋の煙突の連なりが消えている。紅貝染めの独特の匂いを追いやって、焼け跡の異臭が幅をきかせている。  焼け落ちた塔屋の瓦礫の山にとりついて、男たちが騒いでいる。そのなかに、汚れて焦げた紅半纏を腰に巻いた引手の顔を見つけた。西番小屋の頭見習い、孝太だ。そうだこの人の女房は塔屋の織り子だった。 「孝太さん!」  振り返った顔に、煤が縞《しま》を描いていた。汗と涙が流れている。宇佐はしゃがみこんだ彼の足元に、折り重なった梁と壁土と焼けた板切れの隙間から、女の着物の袖と細い手がのぞいていることに気がついて、動けなくなってしまった。 「おめえ、誰だ」  孝太の目の焦点が合っていない。 「宇佐です。西番小屋でお世話になっていました」  孝太は聞いていない。まわりの男たちに向かい、丸太はねぇのかと割れた声を張り上げる。 「早く持って来い! 何でもいいんだ、ここに突っ込んで持ち上げられるもんなら」  辛くて見ていられない。ここでは手伝いようもない。宇佐は逃げるように踵を返し、西番小屋を目指した。見つからない。もういい加減の距離を来たのに、小屋がない。 「宇佐、おまえ宇佐じゃねえか」  行き迷っているうちに、後ろから呼びかけられた。嗄れて潰れたような声だ。振り向くと、背中に老婆を背負い、子供を二人連れた男 —— 常次親分だ! 片袖が無惨に裂けた紅半纏を着ている。 「無事だったか」 「親分も」 「何とかな。だが西番小屋は駄目だ。焼けちまったよ、何もかも」  ひどい声だ。煙のせいだろう。この人には悔しい思いをさせられたことがあるけれど、親分としては立派な人だ。火事の最中も堀外を離れず、奮戦していたに違いない。 「みんなはどうしているんです?」  それでなくても血の気のない常次親分の顔から、さらに色が抜けた。生気も消える。 「わからねぇ。ちりぢりだ。俺も、怪我人を運んだりしながらみんなを探してる」  宇佐は、今さっき塔屋筋で孝太に会ったことを話した。 「ああ、よかった。それでおめえはどこへ行くつもりなんだ? まだこのあたりは危ないぞ。うろうろしねぇ方がいい」 「うちの和尚さまを探しているんです。火事が起きたころ、旅篭町へ向かってそれっきりなんです」  あのわしっ鼻の住職かと問い返して、常次親分は大きくうなずいた。 「そんなら大丈夫だ。堺町にいなさるよ」  曖昧宿の多い、漁師町との境目だ。 「あっちの方には火が回らなかったから、逃げた連中が集まってる。住職はみんなに差配して、怪我人の手当てをしたり、食い物を集めたりしていなさる」  宇佐は安堵のあまり力が抜けた。 「漁師町は無事だったけども」常次親分はごくりと喉仏を上下させた。「なにしろ騒ぎの始まりが始まりだ。焼け出された連中は、みんな面白くねぇ。だもんで、またぞろ堺町でも漁師たち相手の喧嘩沙汰をおっぱじめそうになるのを、あの和尚さんが一喝しておさめてくれたんだ。たいした大声だったぜ」  他でもない、常次は背中の老婆と子供たちを、これから堺町へ連れていくところなのだという。もう何度も行ったり来たりしているのだ。 「それなら、あたしが行きます。おばあさん、あたしの背中におぶさって」  宇佐は老婆と子供たちに笑いかけた。 「親分は他所へ回ってください。焼け跡でおろおろして、どうしたらいいかもわからないでいる人たちが、引手の紅半纏を見ればほっとします」  ありがとうよと、常次は呟いた。やっと聞こえるか聞こえないかの声だったのは、喉が潰れているせいばかりではないだろう。  英心和尚は意気軒昂だった。  つるつる頭は煤で汚れ、袈裟が破れてあちこち焦げているけれど、大きな怪我はない。避難してきた堀外の人びとを叱咤し、宥め、動ける者には役割を与え、年寄りや子供たちの世話を言いつける。堺町の曖昧宿は、一軒残らずお救い小屋になっていた。その手配も、和尚が一人でしたらしい。 「何だおまえ、何しに来た」 ご挨拶である。宇佐は吹き出してしまった。「和尚さまが心配で、探しにきたんですよ」  話している間にも、和尚さまあれはどうしましょう、これがありません、次は何をしましょうと、ひっきりなしに人が寄って来る。「旅寵町も無事です。焼けてません。三店の旦那さん方が、座敷を開けて、炊き出しだのの差配をしていますよ。ここの宿だけじゃ、とてもみんな入りきれないでしょうから、旅篭町に移ったらどうでしょう」  英心和尚は手を打った。「そりゃあいい。おまえ、声をかけてくれ。早い方がいい」  宇佐に言いつけながら、和尚は空を睨んでいる。険しい目つきだ。宇佐も暮れかかる空を仰いでみた。 「見ろ、嫌な雲じゃ」  遠く北西の空に、てっぺんが真っ白で、底の部分が真っ暗な雲の塊が浮かんでいる。 「遠からず、ひと雨来るぞ。空が荒れ出す前に、皆を屋根のある場所に落ち着かせなくてはな」  宇佐は曖昧宿をひとつずつ回り、あれこれと世話を焼きながら、座敷に入りきれずに廊下や土間に座り込んでいる人たちに、旅寵町へ移るよう呼びかけた。自分で歩くことのできる怪我人は、匙の各家で先生方が手当てをしてくださっているから頼ってゆくようにと教えた。  動かすことのできない重傷者も目についた。付き添っている者たちは、宇佐の袖をとらえてすがりついてくる。 「匙の先生は来てくださらないのかね。こっちから行かれないと駄目なのかね」  あたしらは匙の先生だけが頼りなんだ、町医者に払う金はないもの —— と、泣きつかれる。 「それでなくたって貧乏だったのに、なけなしのものもみんな焼けちゃって、無一文だもんね」  町役所では何もしてくださらんのか、番小屋は何しているんだと叱られて、自分のことではないのに謝る羽目にもなる。だがそのおかげで、居合わせた人びとから、この騒乱と火事のきっかけとなった漁師たちと引手たちとの喧嘩の経緯《いきさつ》を、切れ切れながらも聞き集めることができた。 「町を守ってくれるはずの引手が、真っ先に騒ぎを起こしちゃあ、どうしようもねえ。西番小屋が最初に焼けたっていうんだから、情けなくて涙が出るよ」  嘉介親分がいたならば、けっして引手たちに喧嘩などさせなかっただろう。漁師たちに殴り込みをかけられても、まともにぶつかったりせず、うまくいなして散らすことができたはずだ。あの親分なら、必ずできた。宇佐はあらためて悔しさと悲しみを噛み締めなければならなかった。  感心なもので、火を逃れ、怪我もまぬかれた子供たちは、いっそ大人よりも立ち直りが早い。一緒に水汲みをしたり、配りものをしてくれたり、何より、彼らの元気な声を聞いているだけでこちらも力が沸いてくる。  英心和尚は宿の主人たちに掛け合いを重ね、あるだけの米を出してもらうように取り付けた。大釜で炊いて握り飯をこしらえれば、今夕の皆の食事になる。宇佐は段取りをつけながら、頭の半分では中円寺のことを考えていた。あっちには蓄えの米も雑穀もあるが、人はここよりもっと多く集まっているだろう。食事の算段をつけるために戻らなくては。  というところに、ぱっと喜色のはじけた声が聞こえてきた。 「あ、先生だ! 匙の先生が来てくださった!」  見ると、井上啓一郎が薬箱を提げ、大きな風呂敷包みを背負った下男の盛助を連れて、堺町に通じる木橋を、小走りに渡ってくるのだった。やはり着物は煤だらけ、どこか痛めているのか、右足の運びがおかしい。が、確かに井上の若先生だ。  ご無事だった。 「先生、先生!」  子供らが駆け寄ってゆく。英心和尚ものっそりと出てきた。啓一郎は、和尚を認めるとさらに足を速めて近寄ってきた。 「匙の井上です。堺町にも焼け出された者たちが集まっていると聞いて参りました」 「ご苦労さまにございます」和尚は合掌して深々と頭を下げた。それで、巨漢の和尚の陰に入っていた宇佐は、正面から若先生の顔を見ることになった。  啓一郎の目が広がった。 「宇佐か。無事だったんだな」  宇佐は声もなく、ただ頭を下げた。出し抜けに、自分でも思いがけないほどの強い鳴咽がこみあげてきて、そのまま顔を上げることができなくなってしまった。  なんて久しいことだろう。若先生のお声で、「宇佐」と呼ばれるのは。 「匙の諸先生のお屋敷は無事ですかな」  和尚が問う。啓一郎はうなずき、きびきびと続けた。 「皆、大事ありません。匙家は、筆頭の杉田と涸滝番を務める砥部を除き、五家すべてが門戸を開き怪我人を診ております。井上の家には父がおります」 「おお、舷洲先生が手ずから」和尚はうなった。「もったいないことじゃ」 「残念ながら、宝幸寺の養生所は焼けましたので、もうあてにできません。患者は柵屋敷の養生所に預けました。あちらにはまだ余裕がありますから、運ぶ手配さえつけば、重傷の者は移すことができます」 「心得ました。すぐ指図をしましょう」 「私はとりあえず、火傷と打ち身の薬をかき集めて参りました」  宇佐を見やって、啓一郎は微笑んだ。 「手伝ってくれるな。皆のいるところへ案内してくれ。順に手当てをしていこう」  まだ声を出すことができないまま、宇佐は大きくうなずいた。今にも涙がこぼれそうなのを、目を瞠ってこらえながら。     十二  涸滝のほうは、朝方の磯での出来事を知る由もなかった。城下の堀外で騒ぎが起きているということを察するにも、ずいぶんと遅れた。西番小屋が漁師たちに攻められ、最初の火の手があがったちょうどそのころ、ほうはいつものように加賀さまについて手習いをしていたのだった。  春、夏、秋、冬。季節を表す漢字を習っている。ひととおり書き終えたら、次は算盤だ。ほうはまだまだ算盤が苦手だった。珠の動かし方は上手になってきたのだが、桁というものがどうしてもわからない。教えられたことを繰り返すだけならできるのだが、自分でやってみようとすると、すぐ行き詰る。加賀さまがおっしゃるに、いくら珠を動かせても、桁がわからなければ算盤を使うことはできないという。  お屋敷のなかが、何となく騒がしい。それは感じていた。人の行き来する足音が聞こえる。やり取りの声もする。いつもなら、ほうが加賀さまに習っているこの時刻、誰も廊下や庭を歩いたり、ましてや話をしたりなど、けっしてしないはずなのに。  それに —— この太鼓の音。町の方から聞こえてくるのじゃないか。  やがて、障子を閉《た》て切った向こうから、ひゅうひゅうと風の音が響いてきた。おかしなことだ。外はよく晴れていて、風が出るような様子ではなかった。海うさぎが飛んで急な雨が来るのだとしても、雲が流れて日差しが翳りもしないうちに、風だけ唸るはずはない。  今や、障子そのものがガタガタと揺れ始めている。日ごろは風の通らない、加賀さまのこのお部屋にまで届く風の動き。 「気が散っておるな」  叱られた。加賀さまは、風の音も足音も人の声も、まったく気にとめておられないようだ。聞こえていないはずはないのに。 「加賀さま」ほうはおそるおそる言上した。「お外が ——— ざわざわしています」 「おまえの手習いには関わりのないことだ」  厳しくたしなめられたけれど、どうにも心が浮いてしまって手が定まらない。町で何か起こっているんだろうか。  いつもの刻限まで、きっちりとお稽古をした。最後にもういっぺん叱られた。すぐ気が散るのは、手習いに身を入れていないしるしである。心得を改めるように。  しょんぼりと退出する。驚いたことに、ほうを待っておられたのは二見さまではなく、別の御牢番のお侍だった。二見さまはどこかへお出かけなのだろうか。  唐紙を閉じて加賀さまのお姿が見えなくなると、御牢番はほうの腕をひっつかむようにして廊下へ連れ出した。どんどん引っ張って連れ去りながら、早口でお話しになる。 「城下で火事が起きている」  小声で囁き、首を捻って後ろの加賀さまのお座敷を気にしている。 「よもや火の手が涸滝に届くことはなかろうが、万が一ということがある」  一人語りのようなおっしゃりようで、しかも急なことなので、ほうはついていかれない。城下で火事? 町が焼けている?  やっと、「火事」という言葉の意味がしみこむと、今度はとっさに、頭のなかが心配で溢れた。おあんさんは大丈夫だろうか。 「どのくらい焼けているのですか。たくさん焼けているのですか」 「我らにもまだよくわからん」  御牢番はほうの手を引っ張り、廊下の角を曲がり、西詰所まで来た。入れ違うように、庭先に他の御牢番の方が数人降りて、門の方へと急ぎ足で駆けてゆく。気がつけば、日頃は見張りの方が交代であがるだけの二階からも、人の交わす声がするようだ。足音もみしみしと歩き回っている。  ほうを連れ出した御牢番は、あたりを見回し、縁側の下に降りると、しゃがんでほうと目を合わせた。さらに急き込んだ口調になり、それでいて声は低くなる。 「何があっても、我ら牢番はここを離れることはない。離れるのは、いよいよ火が近づいてきて、加賀殿をお守りし、外へお連れしなくてはならぬ時だけだ。今の様子ではそこまでのことはなかろうが、こればかりはわからん。だから皆、浮き足だっておる」  間近に見ると、石野さまを思い出させるような若い御牢番だった。 「非常の折になれば、我らはおまえの面倒などみてやれぬ。だからおまえはしっかりしなくてはならん。誰も下女の世話などせん。あてにはできん。身のまわりのものをまとめて、一人で逃げるのだ。できるな?」  涸滝の門前の方向で、また人声がたった。門の前からならば、城下を見おろすことができる。だから御牢番の方々が集まっているのだろう。 「二見さまは、もうお逃げになったのですか」  姿が見えないから、ほうは尋ねてみた。もし二見さまが逃げたのなら、加賀さまも逃げなくては危ない。 「馬鹿なことを言うな。二見さまがお一人で逃げるわけがない。この騒ぎで、急ぎ登城しておられるのだ」  教えてくれてから、おまえが二見さまの心配をすることはないと怒った。両手をほうの肩に置く。 「おまえは頭が鈍いという話だから、もう覚えておらんかもしれぬが、私はおまえの世話役だった石野という者の朋輩でな」  石野さまのことなら、忘れるわけがない。「石野さまのお友達なのですか」  久しぶりにそのお名前を口にすると、悲しみがこみあげてきた。 「石野さまは、お亡くなりになったのでしょう」 「おまえ、知っていたのか」 「加賀さまに教わりました」 「なぜ加賀殿が石野の処遇をご存知なのか」  ほうにもわからない。焦れたのか、御牢番は強くかぶりを振った。 「ああ、もうそんなことはどうでもいい。とにかく、私は石野からおまえの話を聞かされていた。頼りない幼子だから、見捨てないでやってくれと託された。だから言うのだ。いいな、誰もおまえを助けてなどやれぬから、自分で逃げ出せ。逃げるときには、この山を降りてはいかん。もっと上に逃げるのだ。わかるか? 薮を抜けて森へ入り、上に登るのだ。火は城下からあがって来るのだからな」  ひと言ひと言、区切りのたびに、言葉をほうの身体に叩き込もうとするかのように、肩を揺さぶる。ほうはゆらゆらとうなずいた。 「はい。でも、お屋敷のまわりには竹矢来があります」 「抜けられる場所がある。教えてやる」  御牢番はあたりを見回すと、人目のないのを確かめて、ほうを引っ張り小走りになった。ほうは裸足だ。 「いいか、このあたりの竹矢来は切れ目がない。だが、先におまえが住んでいた小屋のあった裏庭の方 ——— 」  ほうをそちらへ連れてゆく。しきりと周囲に目を配りながら。 「落雷で壊れた小屋を取り壊した場所がある。あそこは、そら見てみろ」  水汲みや洗濯で、小屋がなくなってからも何度となく出入りしている裏庭だ。 「竹矢来の足元が高くなっているだろう? 大人では無理だが、おまえならくぐれる。くぐって、そのまま森を通ってゆけばよい。おまえは小さいから、下草に隠れて誰にも見咎められることはない」  ほうは何度もうなずいた。もうすっかり見慣れてしまい、だからこそその存在を忘れかけていた竹矢来だ。下をくぐれるなんて思いもよらなかった。 「でも、いつ逃げればいいのでしょう。お屋敷に火がかかったらですか」  ほうが尋ねると、御牢番は、急にぎゅっとつねられたかのように、痛そうな顔をした。 「おまえは本当に頼りないな」  ほうの頭をぽんと叩いた。 「おまけにバカ正直だ。石野の話していた以上だぞ」  頭に置いた手で、くりくりとほうの髪を撫でた。顔に苦笑いを浮かべている。石野さまのお友達というけれど、石野さまみたいにほっぺたが赤くないから、少しお歳が上なのかもしれない。  今すぐ逃げるのだ ——— と、声をひそめて言うのだった。 「今なら、牢番は皆、城下の火事に気をとられている。おまえ一人がこっそり抜け出したところで、当分のあいだ誰も気づくまい。二見さまもおられぬ、今は千載一遇の好機だ」  ほうは未だ、心と頭の焦点が合わない。 「でも、火事がこなければ ——— 」 「火事はいいのだ。ただの口実だというのがわからんのか。この屋敷が焼けようが焼けまいが、おまえにはどうでもいいことだろうが!」  あっさりと投げるようにおっしゃる。でも、違う。ほうにとっては違うのだ。 「加賀さまがおられます」  ほうの言葉に、御牢番は口を開けっ放しにした。 「何 ——— 何だと?」 「このお屋敷には加賀さまがおられます。わたくしは手習いと算盤を教わっています。なかなか上手になりません。でも加賀さまは教えてくだすっています。わたくしは、加賀さまにご挨拶をせずに立ち退くわけにはまいりません。もしかして火が来て、加賀さまのお命も危なくなるかもしれないのに、わたくしだけ逃げ出すわけにはまいりません」  何度か口をばくばくさせてから、御牢番は間延びしたような感嘆の声を発した。 「おまえは、何とまぁ」  石野も驚いているだろうよと、大きく息を吐き出した。 「石野はな、できることならおまえをここから出してやりたい、逃がしてやりたいと、ずっと願っていたのだ。ここは、おまえのような幼いものが働かされる場所ではないとな。なのに、おまえときたら加賀殿の身が案じられるから逃げるわけにはいかぬと言うか」  そんな呆れられるほど、間違ったことを言ったのだろうか。ほうは不安になってきた。でも、正直に思ったことを口にしたのだ。 「いけないのでしょうか。石野さまはお怒りになるでしょうか」  御牢番はまだ痛そうなお顔のまま、ちょっとのあいだ黙っていた。風がひゅうひゅうと吹きすぎる。おや、臭いが混じってきた。焦げ臭い。城下の火事の煙を運んできているのか。火は近づいてきているのか。 「石野に聞いた話だと、おまえは丸海の者ではないが、城下には身寄りがあるそうではないか。その者の身は案じられないか。火事はかなり広がっているようなのだぞ」  それを言われると、ほうの小さな心は混乱してしまう。加賀さまとおあんさんと、いっぺんに二人の心配をすると、どっちに行っていいかわからなくなる。 「おあんさんは引手だから、きっと大丈夫です。火事なんかに負けません」 「ならば、加賀殿も大丈夫だ。我ら牢番がお守りする。おまえの手など要らぬ」  わかっている。ほうには加賀さまをお守りすることはできない。ただ、黙って離れてしまうのが嫌なのだ。  心を探って、ほうは言葉を見出した。  寂しいのだ。これきり加賀さまとお別れするのは辛いのだ。逃げてしまえば、二度とお会いすることはかなわなくなる。  おおい、おおいと呼ぶ声が近づいてきた。御牢番はぎくりとしたように身を硬くすると、もう一度ほうの腕をぐいとつかんだ。 「いいな、もう話している暇はない。逃げるなら今が好機だ。それだけは言っておく。屋敷を出たら山に潜み、ほとぼりが冷めるのを待って——— ああ、いや」  ぶるぶると焦れったそうに首を振り、身体ごと揺らして、 「そんな言葉では意味がわからんか。時が経つのを待って、城下の身寄りのもとへ行け。涸滝から逃げてきたと言えば、後はその身寄りの者が安生《あんじょう》はからってくれるだろう。おまえはもう、ここで働かなくてよくなるのだ。嬉しいだろう?」  ほうを突き放すと、行け! と鋭く命じた。ひらりと立ち上がり、廊下にあがって、門前の方向へと駆けてゆく。  ほうは縁の下にしゃがみこみ、取り残された。風に混じる煙の臭いが濃くなってきた。ここも焼けるのだろうか。そしたら逃げ出さなくてはならないけれど、でも今は ———  こんなとき、おあんさんならどうするだろう。この鈍い頭のほうではなく、おあんさんがここで奉公していたなら。  いつだって優しかった。何もわからないほうを、頭から叱ったりせずに、辛抱強く教えてくれた。世話を焼いてくれた。ほうが何かを上手にこなすと、大喜びで褒めてくれた。  おあんさんは、今はまだ見習いだけど、頑張って本物の引手に取り立ててもらうんだと言っていた。  ——— 引手ってのは、他人様《ひ と さま》の役に立つ仕事なんだよ。  おあんさんがここの下女ならば、黙って逃げたりしない。けっしてしない。ねえ、そうだよね、おあんさん。今どうしているだろう。おあんさんのおうちも焼けているのだろうか。番小屋はどうだろう。井上のおうちはどうだろう。  城下の様子を、この目で見てみたい。勝手に門の方へ行ったら叱られる。どうしよう。二階へもあがれないし。  立ち上がり、目を泳がせ、吹きつけてくる風のなかで目を細める。  あ、そうだと思いついた。  木に登ろう。今なら、まわりには誰もいない。何をしていると、叱られたりしない。登ったことはないけど、やればできるだろう。  さっき教えてもらったとおりに、竹矢来の下をくぐって外に出た。ところが、森に入ってみたら、ほうの手の届くような高さの枝など、まったく見当たらないのだ。木々の幹は太く、手がかりがなければどうしようもない。  どこかないか、何かないか。探しながら斜面を登っていった。急なところは這うようにしてよじ登る。夢中でそうしているうちに、木立の隙間に出た。振り返ると、涸滝のお屋敷の屋根が、ほうの頭の高さにあった。今まで、その全体を眺める機会など一度もなかったお屋敷を、そっくりそのまま、両手で抱えることができそうだ。  お屋敷ごしに、城下から立ちのぼる煙が見えた。空いっぱいに広がっていて、それでもまだ足らずにどんどん立ちのぼってくる。火は見えない。もっと広いところに出ないと駄目なのか。  太鼓の音はまだ続いている。早い調子だ。それに合わせて、ほうは乱れた息を整える。  涸滝のお屋敷の二階に、人が歩き回っているのがちらりと見えた。御牢番の方々が城下を眺めているのだろう。  と、そのとき、何かが|ち《 ヽ》か《 ヽ》り《 ヽ》とほうの目を射た。何だろう。お屋敷の屋根の上だ。  目を凝らす。わからない。たった今光ったのに。加賀さまをお迎えするために葺き替えた瓦屋根は、整然と並んで美しい。瓦が光るなんてことがあるものかしら。  ふと見ると、手足が泥だらけだ。たくさん登ってきてしまった。こんなつもりじゃなかったのに、お屋敷が全部見えるということは、それだけ離れてしまったということだ。  たいへんだ、戻らなきゃ。来た道なのに、登ることはできても降りるのはおっかなくて、ぐるっと回ったりして、膝を擦り剥いて足の裏を小枝で切って、それでも夢中で竹矢来のそばまで来た。御牢番が庭にいる。首を引っ込めてしばらく伏せ、立ち去ってくれるのを待って、大急ぎでくぐり抜けた。  太鼓はまだ鳴っている。火事は消えないのか。風向きは変わったように思うけれど、木々のざわめきはむしろ高まった。  どうしよう。結局まだ心は混乱したままだ。どうしたらいいか、どなたが教えてくださるんだ? 石野さまはいない。二見さまもいない。舷洲先生も、船橋さまも、おあんさんも。ほうのそばには誰もいない。  加賀さまだけがいらっしゃる。  いくらお屋敷のなかがあわただしく動いていても、加賀さまのお部屋のそばの御牢番までいなくなってはいないだろう。手習いも済んだのに、もういっぺんおそばにあがるなんて許されない。  でも、ほうはもうやみくもに加賀さまにお会いしたいのだった。涙が出てくるほどに。  ほうがどうしたらいいのか教えてくださるのは、今では加賀さまだもの。  床下からなら、行かれるかしら。初めて迷い込んでしまったときと同じようにして。  思い切ってもぐりこんだ。あの夜とは違い、床下は薄暗いとはいえ、まだ陽がある。それに、あれから数え切れないほど加賀さまのお部屋にはお伺いしているから、場所の見当もつく。ほうは、掃除に励んでいるうちに、涸滝のお屋敷には誰よりも詳しくなっていたのだった。  ほうが迷い込んで以来、夜の見張りのとき、御牢番の方々は、床下まで明かりを照らして検分するようになった。でも、どこも塞いだりはしていない。そのためには大勢が床下に入らねばならず、騒がしくて、加賀さまのお身体に障る心配があるからだ。ほうはするすると這って進んだ。時おり頭の上で、びっくりするほどはっきりした話し声がしたり、足音が通り過ぎたりする。そのたびに這うのをやめ、じっと息を殺した。  ここだ。ここが加賀さまのお部屋の下だ。息がはずむ。耳を澄ませる。御牢番のどなたかがいらしてる? 二見さまは?  いない。静かだ。誰もいない。加賀さまはきっとお一人だ。  でも、どうしよう。夢中でここまで来てしまったはいいけれど、頭の上の床板はぴっちりと閉じており、ほうが押し上げたくらいではびくともしない。迷い込んだあの時は、御牢番の方がほうの気配を察し、曲者ではないかと疑ったから、開けてくれたのだ。 「か、加賀さま」  小さな声で呼んでみた。 「加賀さま、ほうでございます」  聞こえないかな。無駄かな。こんなことをして、ただ叱られるだけかな。それでも何度か呼んでみる。  頭上で、床板から光が漏れてきた。ほんの少し、畳がずれて持ち上がっているのだ。 「加賀さま」  ほうはもう一度お呼びして、床板に手をかけた。そのとき、さっとそれが取り除けられた。  砥部先生が、目をまん丸にしてのぞきこんでいた。 「なんと! おまえは ——— 」  言って、あわててご自分の口を押さえた。まわりを見て、それからほうに手を差し出し、引っ張りあげてくださった。  砥部先生と向き合って、加賀さまがいらした。手習いの机は脇に片付けられ、書見台もそこに寄せてある。ほうの顔を見て、加賀さまはちくりと眉根を動かされた。 「何をしていたのだ? 何しに来た?」  砥部先生が、ほうに覆いかぶさるようにしてお尋ねになる。ほうの姿を隠そうとしておられるかのようだ。 「すみません。申し訳ございません」 「泥だらけではないか」  火事が、城下で火事が ——— と呟くと、泣けてきてしまった。何を言おうとしているのだろう。何をしに来たのだろう。ほうはやっぱり阿呆のほうだ。ちっとも変わっていない。少しも賢くなんかなっていない。  顔を覆って泣くほうを見つめ、加賀さまはつと砥部先生の方に目を移した。  砥部先生は無言でうなずいた。 「加賀殿はしばらくお休みになると、お伝えして参りましょう。騒がしき者が近づかぬよう、私は隣に控えております」  すっと音もなく立ち上がると、唐紙を素早く開け閉てして、お部屋から出てしまわれた。  ほうは加賀さまと二人になった。 「城下の火事のことは、砥部先生に伺ったところだ」  ほうは背中を丸めて頭をうなずかせた。涙が止まらない。 「泣くのをやめなさい。牢番に聞き咎められよう」  ほうは歯を食いしばって我慢した。押し戻した泣き声が、歯のあいだで潰れる。 「何をうろたえている」  加賀さまは両手を膝に、かけらも驚かれた様子はない。 「火事が怖いか」 「はい」ようやくほうはお返事をした。 「城下の身寄りが心配か。引手の娘が」 「はい」 「辛かろうが、今は待つしかない」 「はい」  深い息をする。身体の震えが鎮まってきた。加賀さまのお顔を見たからだ。正しいことを教えていただいているからだ。これが安心ということだ。 「砥部先生も、万にひとつ、私がここから他所へ移らねばならぬ事態が出来《しゅったい》した時のため、急ぎ来てくださっていたのだ。どうやら、その必要はなさそうだがな」  ここにおったのが先生でよかったな、とおっしゃる。やわらかなお声だ。それに励まされて、ほうはお話しした。手習いが終わり、退出してから後のことを。竹矢来の下をくぐり、山へ登ったことを。  何より、ここから逃げろと言われたことを。  ほうが口を閉じても、加賀さまはしばらくのあいだ、静かに息をしておられるだけだった。やがて、先ほどまでよりも抑えたお声で —— そう、明らかに唐紙の外の耳を憚って、低くお尋ねになった。 「おまえはなぜ、その牢番の言うとおりにしなかった」  ほうは、それをこそ加賀さまに教えていただきたかったのだ。御牢番はなぜ逃げろと言うのか。ほうはなぜ逃げないのか。逃げるのが辛いのはどうしてなのか。 「逃げて捕まり、罰を受けるのが恐ろしかったか」  そうかもしれない。 「逃げて、山のなかで一人になるのが恐ろしかったか」  そうかもしれない。  ふっと、加賀さまがため息をつかれた。 「おまえは、まだ手習いがしたいのだな」  ほうが目を上げると、加賀さまは微笑んでおられた。  確かにそれとわかるように、頬を緩ませておられる。微笑んでいることを、ほうに伝えようとしておられるのだ。 「おまえを逃がしたいという牢番の心は尊いものだ。おまえにも、それはわかろう」 「はい。石野さまが ——— 」 「心根の優しい若者だったのだな。惜しいことをした」  そうだ。石野さまは亡くなったのだから。 「石野の命は、私が取った」  いつのまにか笑みを消し、ほうが見慣れた厳しく平らな表情に戻って、加賀さまはおっしゃった。この言葉は、ほうに聞かせるためのものではないようだった。  事実、ほうには意味がわからない。石野さまはお腹を召して死んだのだ。加賀さまが殺したわけではない。 「おまえは私を怨むとよい。それならばわかりやすかろう」 「でも加賀さま —— 」  ほうの申し上げることを、加賀さまは聞いておられない。 「この城下の火事でも、多くの丸海の民が命を落とすことだろう。それも私の咎だ」  私を怨めと、もう一度繰り返した。 「私はいささか、人の命を取ることに倦《う》んだ。しかし、なかなか終わりにはならぬ」 今度はほうに見せるための微笑ではなく、一人語りの続きの薄い笑みが、加賀さまの口元を彩った。 「それなのに、この期に及んで、おまえのような者が私に忠義立てをするとは」  また意味がわからない。 「忠義、でございますか」  加賀さまは、先ほどまでの唸るような響きこそ消えたものの、まだ耳に高く届く風の音に、ちよっと目を遣られる。 「いずれにしろ、おまえが今この屋敷を逃げ出すのは、得策ではなかった。留まったことは腎い。まず逃げ切れぬ。山で迷うか、城下に彷徨《さまよ》い出て煙に巻かれるか、役人に見つかり処罰を受けるか、いずれ良い結果を招来することはなかった」  加賀さまがそうおっしゃるのなら、そうなのだろう。それが答えだ。ほうは逃げてはいけなかったのだ。 「風が強いな」  外に出てその風を感じておられるように、目を細めておっしゃる。 「はい、おかしな風でございます。雲もないのに急に吹きすさんできました」 「大火が風を呼んだのだ。火がおさまれば、自然に風も鎮まるだろう」  そんな話は聞いたことがない。丸海では、風は海か山から立ちのぼり、吹きつけてくるものだ。 「町場の火事が、海や山や、風にまで変わったふるまいをさせるのでしょうか」 「そのとおりだ。火も本来、天然自然より生じるもの。人はそれを借り受けて使役《し えき》しているに過ぎぬ」  難しい。でもほうには、つと心に閃いたことがあった。 「大きな火事が起こると、風が光ることはございますか」 「風が光る ——— 」 「はい。裏山に登ってお屋敷を見おろしたとき、屋根のあたりで光るものを見たのです。よくよく見直しても、何が光ったのか知ることはできませんでした。あれは、風が光ったものでしょうか」  不思議なことだったから、ついお尋ねしただけだった。重い問いかけとも思わなかった。が、加賀さまはひどく驚かれたようだった。目尻の切れ上がった細い目がさらに細められ、それからゆっくりゆっくりと、凝り固まったものが溶けるように、今度は大きく広がった。 「この屋敷の屋根の上か」 「はい」 「確かに見たか」 「は、はい。見たと思います」  まばたきもせず、加賀さまはほうとのあいだの宙の一点を見つめておられる。ほうは心配になってきた。今の話のどこが、加賀さまのお気に障ったのだろう。加賀さまを考え込ませてしまうような、何を申し上げてしまったのだろう。 「ほう」  呼びかけて、加賀さまはほうの顔を見据えた。瞳に色が戻っている。厳しい ——— そう、石野さまの死んだことを泣いてはいけないと叱られたときを思い出す。あのときと同じ、命令を下される目の色だ。 「おまえは牢番に逃げろと言われても、逃げなかった。逃げることが正しいか、私に教えを請いに来た。そうであるな」 「はい」 「ならば、この加賀が逃げよと命じたならば、必ず逃げるな」  はいとお答えしたけれど、加賀さまのあまりに強い語気に、ほうの声は小さくかすれた。 「しっかり答えなさい。私が逃げろと言いつけたならば、逃げるな」 「は ——— はい!」 「では、よく聞きなさい」  かたかたと風が鳴る。 「今日限り、私はおまえの奉公を解く」  ほうはしぃんと座り、加賀さまのお顔を仰いでいた。 「おまえはもう、私に近づいてはならぬ。おまえの奉公は終わった」  ほうが何か申し上げようとするのを、厳しい目つきでぴしりと遮る。 「この屋敷に、おまえはもう用はない。立ち去る時が来た」 「で、でも」  手習いは。算盤は。 「抗弁は許さぬ。私の命《めい》だ。おまえはただ従えばよい」  じっとしていようと思うのに、ほうの両手が勝手に動き出してよじれてしまう。それは心のよじれ、ほうの煩悶《はんもん》の表れだ。 「城下の火事がおさまったならば、今夜遅くでも、あるいは明日の夜明け前でもよい。闇に紛れ、見張りの者どもに気づかれぬ時を選んで、おまえはこの屋敷を立ち去れ。牢番に教わったとおりにすればよい」 「どこへ、参りましょう」 「それも牢番が言ったとおりだ。城下の知り人を頼って訪ね、涸滝の屋敷から逃れてきたと打ち明ければよい。この加賀に、直々に奉公を解かれた。故にもう涸滝にはおられぬ。正直にそう言えばよい。おまえにお守りを持たせてくれた引手の娘を頼るならば、それだけで充分だろう」 「でも、加賀さま」ほうの頭のなかはぐるぐると渦巻いている。「先ほどは、逃げるのはよくないとおっしゃいました」 「まだ火事が広がっておるから、今《 ヽ》は《 ヽ》得策ではないと申した。いたずらに山に入れば、おまえはただ迷うだけだろう。しかし、城下が安全になってからならば、支障はない」 「どうして ——— なぜでございますか」 「申したろう。私はおまえの奉公を解く」 「ほうは、まだご奉公をさせていただきたく思います」 「許さぬ」  礫《つぶて》のように痛い言葉だ。 「さらにもうひとつ、言いつける」  顔を上げなさい、と厳しくおっしゃる。 「もし、たとえ城下の火事がこの先も長引いたとしても、騒乱が鎮まらぬうちであってもだ。どこかで雷鳴が聞こえたならば、それがどれほど遠くにあろうとも、直ちに逃げるのだ。けっして躊躇《ためら》ってはならぬ。振り返るな。一目散に逃げ、山に隠れて、城下に降りられる時を待つ。充分に気をつけるのだぞ。その折にはもう誰にも追われはしない。おまえは安んじて城下へ帰ることができる。咎められることはない」  奉公は終わりなのだから。 「手習いもな」  付け足された言葉には、不意に優しい色が戻っていた。 「加賀さまはどうなさるのですか」  お返事はなかった。ほうは身が切られるのを感じた。加賀さまと、加賀さまの手習いと、加賀さまの下で学んだ日々と、切り離されてゆくのを感じた。  戸障子が、かすかに揺れる。加賀さまはまたそちらに目を投げる。 「丸海の夏の終わりには、ひときわ大きな雷雲が来るということであるよな」  一人語りの呟きだ。 「この火事の呼び寄せた風が、天恵を招いてくれることになればよいのだが」  ほうを見返り、低く穏やかなお声でそっと言い足された。 「おまえが、私の命《めい》を忘れぬうちに」  見つからないよう、急いで自分の部屋に戻り、泥のついた着物を着替えた。井戸端へ回って足を洗った。気がつけば、今日はずいぶんと時を無駄にしてしまった。まだ詰所の掃除が終わっていない。叱られないで済んでいるのは、今は御牢番の方々もそれどころではないからだ。  火事に驚き、めっそうもないことを自分からしでかし、そこに加賀さまの不思議な言いつけが加わって、ほうの頭も心もいっぱいいっぱいになっていた。かえってよかった。余計なことを考えずに済む。頭はくたびれて止まっている。心という袋は口まで満杯で、もう何も入らない。  働いているうちに、城下の火事がおさまったようだという話を聞いた。  涸滝の屋敷内にも、落ち着きが戻ってきた。  空は暮れかかってきた。風はまだ吹いている。頭上を雲が流れ、山が騒いでいた。  雨が近づいてきそうだ ———    十三  ひととおりの治療を済ませると、啓一郎は、次は旅籠町に回るという。宇佐は中円寺へ戻ることにした。旅籠町には、進んで若先生をお手伝いする者がたくさんいるだろう。  怪我人の手当てに忙しかったから、余計な話などしていない。だが、宇佐は幸せだった。若先生のおそばにいて、指図に従い、きびきびと立ち働いていると、身体の内側から温かな波に洗われるような気がした。  何も考えなかった。琴江のことも、渡部のことも、梶原の美祢のことも。ほうの顔でさえ、ひとときは心の隅に消えた。  時が戻ったような気がした。加賀さまが丸海に来る前に。琴江さまが亡くなる前に。宇佐が若先生から教わる事どもに、素朴に目を輝かせ、自分自身でもそれと気づかないほど淡い想いを育てていたころに。  啓一郎も、今この場で入用なこと以外は、何も言わなかった。 「中円寺にも、匙の医師が誰か入っているはずだ。もしも誰もいなかったなら、井上に使いを遣ってくれ。父が何とかするだろう」 「はい、ありがとうございます」  盛助、行くぞと声をかけ、ふと啓一郎は空を仰いだ。陽は西に落ち、茜色の線が海の彼方にうっすらと浮かんでいるだけだ。頭上はすでに暗い。夕闇の暗さではなく、雲に蓋をされている。 「嫌な雲だな」  同じように頭上を仰ぎ、宇佐は、雨粒が一滴頬にあたるのを感じた。 「降ってきました」 「そのようだ。大火の後にはよく雨になるというが ——— 」  言葉を切り、啓一郎は目元を厳しく引き締めた。宇佐は彼の目の先を見やった。  日暮れ前、英心和尚が空を見上げ、やっぱり「嫌な雲じゃ」と呟いた。それと同じ方角を眺めて、若先生のお顔が強張っている。  そのとき、宇佐も見た。分け目も切れ目もなくどっぷりと垂れ込める黒雲の奥に、ひとすじの閃光。一瞬ではあるが、宿から借りた提灯の明かりの色よりも、まだまばゆく眩しい光だ。 「雷ですね」  啓一郎は応《こた》えず、睨むように空を見ている。今、また閃光。 「陽のあるうちからあのあたりに雷雲が見えて、和尚さまも心配していたんです。まだ遠いですけど —— 」 「しかし、風向きが変わったようだからな。気をつけた方がよさそうだね」  来たときよりはいくぶん小さくなった風呂敷包みを背負い、盛助が首をすくめる。 「いやぁ若先生、こりゃ大粒の雨ですよ」  ぽとりぽとりと落ちてくる雨が、煤と埃に覆われた地面に、無数の染みをつくり始める。「傘を借りて参ります」  盛助が宿の方へと駆け出してゆく。 「宇佐、この雨脚だと、すぐ本降りになるだろう。焼けた建物のそばには近づかないようにな。皆にもそう伝えてくれ。雨を受けると、土台が緩む。今まで何とか保《も》っていた柱や梁が倒れてくるかもしれない」  啓一郎の言葉を胸に刻んで、宇佐は確かに承りましたとお返事した。菅笠をふたつ抱えて、盛助が戻ってくる。 「若先生、お気をつけて」 「宇佐もよくよく気をつけてくれ」  何ということもないやりとりだが、それを交わせることが嬉しい。立ち去る若先生の後姿から、宇佐はなかなか目が離せない。 「やぁ、参ったですねぇ、若先生。こりゃ来ますよ、雷だぁ。丸海の夏の最後の雷だよ、こりゃねぇ」  盛助が話しかける声が聞こえてくる。それに応じるように、一度、二度と夜空の奥に光が走る。  借りた傘など役に立たない土砂降りに、宇佐は濡れ鼠になって中円寺に帰り着いた。  寺へと登る坂の途中で、最初の雷鳴を耳にした。いよいよ近づいてきてしまったのだ。息を切らして走りあがる。  境内に溢れていた人びとが、雨を逃れて建物の内に移り、本堂は縁側まで混みあっている。座る場所がなくて立っている人たちまでいた。聞けば、庫裏や厠にも、とにかく屋根があるならいいと雨を避けている人たちが詰めかけているという。もともと寺にいた者たちが仕切って、少しでも皆の居心地をよくしようと奮闘している。とにかく、今夜一晩をしのげれば何とかなる。 「和尚さまは戻られた?」  宇佐よりも先に堺町を出たのだ。 「戻られたんですが、半刻ほど前にまた出かけられました。食べ物が足りないんです」 「じゃ、旅籠町かしら」 「漁師町の潮見に掛け合ってくるっておっしゃっていました。炊き出しをさせるとか」  和尚らしい。宇佐は笑った。  あはは、と声をたてたところに、ひときわ大きな閃光がきた。一拍おいて、 「わぁ、おいでなすった」  腹の底に応えるような雷鳴が轟く。 「大きいね」  宇佐は寺の女たちと身を寄せ合った。たたきつけるような大粒の雨が地面を打ち、跳ね上がって身体にかかる。縁側にいるのも辛くなってきた。 「八朔の雷害みたいなことにならなきゃいいんだけど……」  一人の不安な呟きに、誰かが気丈に言い返す。「やめなよ、縁起でもない!」 「だけど、毎年このころの雷はいちばん大きいじゃないか」 「今年の分の大雷《おおかみなり》は、八朔の日に使い果たしちゃったでしょうよ」宇佐は言って、わざと陽気に笑ってみせた。「だから大丈夫。この雨で、燻ってた火もきれいに消えるだろうしね。それより、何とか場所をこしらえて、みんな本堂に入れるようにしなくちゃ」  宇佐さん、宇佐さん戻ったのかいと呼ぶ声がする。人をかき分けて探すと、古株の寺男が同じように人びとの間をすり抜けて近寄ってきた。 「ああ、よかった戻ったんだね。あんたを待ってたんだ。ちょっと裏の薪小屋まで来てくれないかい」  宇佐の手をつかんで引っ張る。 「薪小屋がどうかしたの?」 「薪は出しちまったんだ。和尚さんがね、そんなものは床下に放り込んでおけって。床を延べて、怪我の重いのを寝かしたんだけど」  引手が一人いるんだよ、という。 「もしかして、あんたの知り合いかもしれないと思ってね。塔屋筋で、焼け落ちた屋根と柱の下敷きになってたって、夕方になってやっと助け出されてさ。最初は柵屋敷の養生所に運んだんだけど、追い返されちまったんだ。それに何かわからんけど、えらい暴れてうんうん唸ってさ、俺のことは放っておけ、俺は引手なんだから後回しでいい、ほかのもんを助けてやれって、本人がきかないんだよ」  宇佐はどきりとした。その勝気なものの言いようは。  本堂を出て、薪小屋に走る。稲光に雨の筋が真っ白に浮かび上がり、脅しつけるような雷鳴が降ってくる。 「ちょっとごめんよ。宇佐さんを連れてきた。通しておくれ」  狭い薪小屋に、それでもぎちぎちに詰め込んで、五組の夜具を敷いている。宇佐の鼻に、ツンと血と膿の臭いが届いた。それに混じって焼けた肉の甘ったるい異臭。寝かせられている怪我人は六人、目を開いている者の方が少ない。 「ほら、この人だ」  宇佐は膝を折り、怪我人の傍らに座り込む。  案の定だった。花吉だ。  顔や手足は拭ってもらったのだろう。煤がとれて皮膚の色が見える。が、尋常な色合いではない。焼け爛れている。そこらじゆうに血がこびりつき、薪小屋に持ち込まれた貧弱な瓦灯の光にてらてらと照る。新しい血が滲み出しているのだ。よく見ると、左右の目は閉じているのではなく、まぶたが腫れ上がってふさがっているのだった。  身体にかけてやるものが足りないので、仰向けに横たわった花吉の全身がよく見えた。着物は破れたのか焦げたのか、下帯ひとつ。目に見える場所で、無事なところはありそうにない。  よじれている。右足がおかしな格好に突き出し、左肘は強く曲がったままだ。胸がへこみ、花吉が息をするたびにぜいぜいと音がする。  そう、何とか息はしている。 「花吉さん」  呼びかけても、浅い呼吸音が返るだけだ。ああ、やっぱり知り合いだったねと、寺男が肩の荷をおろすように呟く。 「花さん。あたしだよ、宇佐だよ。わかるかい?」  頭がぐらりと動いた。顎が震える。呼吸がいっそう激しくなる。何か呟いているようだ。聞き取れない。宇佐は耳を近づける。 「花さん、何を言ってるの?」  バカにしちゃぁならねえ、というような言葉が聞き取れた。何様のつもりだ。そんなことが勘弁できるか。相手になるぜ ———  うわ言だ。花吉は、まだ騒乱の最中にいる。紅半纏の引手として。 「ここにも匙の先生が来てくだすってたんだけど、この人とは入れ違いになっちまって」 「こんなひどい怪我なのに、どうして柵屋敷の養生所に入れてもらえなかったんだろう」  宇佐は立ち上がった。むらむらと腹が立つ。「あたし、掛け合ってくる!」  どかん! と雷が鳴った。薪小屋が揺れる。ばらばらと埃が落ちて、みんな首を縮めた。「やめなよ、外に出ちゃいけないよ」 「でも、このままじゃ花さん、死んじゃう」  寺男は花吉を見おろし、両の肩を下げて、かぶりを振った。「手当てしたって、もう間に合わないよ」 「じゃ、放っておけっていうの? 」 「ほかにどうしようもないよ」 「ダメだよ、どこかでちゃんと手当てしてもらわなくちゃ」  思いがけないほど強い力で、寺男は宇佐を引き止めた。宇佐はぎょっとした。 「無駄だよ。諦めた方がいい」 「どうしてさ!」 「この人を運んできた連中が言ってたんだ。どうやらこの人、あの騒動の大元《おおもと》らしいんだよね」  宇佐は息を呑み、うわ言を呟き続ける花吉に目を落とした。稲光が来て、一瞬、無惨な姿の花吉の姿がくっきりと浮かび上がった。すぐ元に戻る。花吉が咳き込み、口から血泡が溢れた。 「あの騒動って —— 」 「漁師たちが最初に押しかけたのは、西番小屋だろ。旅寵町で捕まった魚売りを返せってさ。その魚売りをとっ捕まえたのが、この人らしいんだ」  宇佐は懐に突っ込んだ手拭を引っ張り出し、血泡を拭ってやった。唾と混じった泡を口の端から垂れ流しながらも、花吉はまだ何か言っている。 「何で捕まえたのかよくわかんないんだってさ。まあ、喧嘩になったからなんだろうけど、それだけで引っ張るほどのことはないやね。大方、塔屋の磯子たちが追い返された腹いせだろうって。だから漁師町の連中も怒ったわけでさ」  寺男の低い声には、同情とも軽蔑ともつかない感情が入り混じっていた。 「余計なことをしたもんだよね……」 「だから柵屋敷の養生所を追い出されたの?」 「さあ、はっきりそうかどうかはわからねぇ。でも、あそこに逃げ込んだ怪我人の誰かが、この人の顔と、経緯《いきさつ》を知ってたんだってさ。こいつのせいだ、こいつがご本尊さまだって騒ぎになったとかでさ」  手拭いには、もうきれいな場所が残っていない。宇佐は、掌で花吉の額の汗を拭いてやった。汗に混じり、血がついてくる。 「柵屋敷には、他に引手はいなかったのかしら」  誰かいたなら、仲裁してくれたろうに。 「わからねぇ。引手も、だいぶ死んだらしいからね」  俺たちにたてつく気かよ。急に花吉の声が高まり、呟きがはっきりした。寺男は顔を背けた。宇佐はくちびるを噛んだ。 「俺ら、が、丸海を、守るんだ」  うわ言にも忘れない、引手の心得だ。 「花さん、短気なんだ」と、宇佐は言った。「気性が真っ直ぐでね。曲がったことが嫌いなんだ。だから、磯子たちが追い返されたことが、我慢できなかったんだろうね」  それだって、漁師町から来た魚売りに八つ当たりをするのはおかしいんだけど、そこが花吉の花吉らしいところなんだ ——— 「気の毒にね」寺男は、花吉にではなく宇佐に言った。「せめて宇佐さんが見取ってやってくれないかね」  あたしに見取られて、花吉は喜ぶだろうか。女のくせに出しゃばるな、女なんか引手になれるもんかと、事あるごとに口を尖らせていた人だ。  稲光と雷鳴。ますます近い。頭の真上へと迫ってきている。  唐突に「親分!」花吉が呼んだ。そんなことがあるわけがないのに、宇佐も寺男も、とっさに誰か来たのかとまわりを見回した。それほどはっきりと呼びかける口調だったのだ。 「花さん ——— 」  花吉のせわしい呼吸が、ぱたりと止まった。胸のへこみが上下しなくなった。  宇佐は拳を握り、それで口元を押さえた。泣くことはない。泣いたらいけない。花吉は楽になった。それに、それに ———  今、花吉が呼びかけたのは、確かに親分だ。嘉介親分がここに来ていたのだ。   ——— ったくおめえはそそっかしい野郎だ。ちっとは落ちついて、よくものを考えろ! 俺がもういっぺん、いちから根性を叩きなおしてやるからな!  怒りながら叱りながら、花吉の襟首をとらえて引っ張ってゆく。   十四  この大雨と雷のなか、ずぶ濡れになり足元をよろめかせながら、必死で中円寺に駆け込んでくる人びとがいた。女子供ばかりである。堀外の火事から逃げはしたものの、駆け込むあてがわからず、周囲の山や森に混じっていたのだ。  塔屋筋の人びとだった。西番小屋に近い塔屋筋は火の手があがるのが早く、喧嘩沙汰もひどかった。女子供が大半なので、ちりぢりに逃げてはぐれてしまうと、仕切る者が少ないので次はどうしたらいいかわからない。とにかく山へ、森へと走り、振り返っては堀外の煙と火勢を見て、さらに怯えて深く分け入ることになった。  なかには、涸滝の屋敷のそばまで達した者たちもある。涸滝の牢番たちは、彼らから城下の様子を聞き出しはするものの、助けてはくれない。どこへ行けと指示するだけの親切もないし、そもそもそんな場所を知らない。ただ追い返された者たちは、堀外に広がる火災を目の下に、判断がつかなくなって、とにかく森に隠れていたのだった。  雷害の多い丸海の者なら誰でも知っている。海で遭う雷が、もっとも怖い。町場はその次だ。が、実は山の森の雷には、他にはない怖さがあるのだった。  木々に紛れて囲まれていれば、落雷の直撃を喰うことはない。が、木立のどれかに雷が落ちれば、倒れかかってくる。山火事にもなる。岩場に落ちれば落石が起こる。森に逃げたら少しでも広い場所に出ろ。岩場なら高いところで身を伏せろ。岩の張り出した下に隠れてはならない。  漁師であれ引手であれ加勢に入った町場の者たちであれ、怒りで頭に血の昇った男たちに殴り込まれ、目の前で煮釜を倒され作業場を打ち壊され、火をかけられて、命からがら逃げてきた。堀外はいったいどうなったのか。火事がおさまったらしいように見えても、騒乱は続いているのではないのか。怯えすくんで堀外へ降りるきっかけを失っていたこれらの人びとは、大雨と雷の来襲に、ようやく我に返った。森を出て、明かりの見えるところへ移ろう。このままではもっと危ない。  これらの人たちを迎えることで、宇佐は気持ちを取り直した。花吉の死を泣くのは後回しだ。助けられる人を助けなくては。最後まで勝気を通し、見当違いなところはあっても、引手の意気地を心に抱いていた花吉も、それなら許してくれるだろう。俺なんかにかまうな、おまえも一時は引手の紅半纏を着た女なら、やるべきことをやってみせろ。べちんと頬を張られたように、宇佐は一気に立ち直った。  塔屋筋でよく見た顔、顔、顔だ。みんな無事だった。たいへんな目に遭ったけれど命は拾った。 「離れ屋のおさんおばさんはいますか?一緒じゃありませんでしたか?」  問いに応じて、濡れそぼった人たちが震えながら教えてくれた。まだ、森に残っている者がいる。逃げ出すときに怪我をしたり、裸足で飛び出したのでもう長くは歩けず、取り残されているのだという。おさんもお菊も子供の八太郎も、そのなかにいるという。 「どっちの森です? みんなはどこにいるの?」 「涸滝のお屋敷に続く山道の、あの森だよ。あたしらみんな、いざとなったらあそこのお役人が助けてくださるかもしれないって思って」  寺で都合できる草鞋を集め、手伝ってくれる男たちを頼み、戸板も二、三枚都合して、宇佐は涸滝の山へと出発した。男たちは宇佐に戻れと言った。この雷の下へ出ていっちゃいけない。女の身のあんたは引っ込んでろ。  宇佐は聞く耳を持たなかった。 「あたしも引手の端くれだったんですよ!」  山道には雨水が奔り、泥が跳ねて足をとられる。豪雨と雷鳴に邪魔されて、すぐ後ろを歩いている仲間とも、大きな声を張り上げないと話ができない。頭を低く、前のめりになって進んでゆくあいだにも、一度、二度、どこか近い場所に雷が落ちて、地面が震えた。真っ暗な森のどこかで火花が散った。 「雨のおかげで、山火事にならねえのだけは助かった!」  やけっぱちの陽気さで、誰かが叫ぶ。  途中から、宇佐は大声でおさんと八太郎を呼びながら進んだ。雨が目にも口に飛び込んでくる。それでも負けずに呼び続けた。覆いをかけた提灯も、転べばすぐ火が消えてしまう。明かりが小なくなると、雨脚さえ見えない真の闇が迫る。頼りになるのは声ばかりだ。  宇佐ちゃん、宇佐ちゃんかい ———  宇佐は踊りあがった。今のは確かにおさんの声だ! 「おばさん! どこにいるの?」  手探りで進めば足元が滑る。転んで手をつけば雷で目がくらむ。濡れた着物が身体にべったりと身体にくっつき、芯まで冷やす。  やがて、提灯の明かりがうずくまっている人の姿をとらえた。真っ白な足がちらりと見えた。二人、三人、四人いるか。抱き合って、木の根元に固まっている。 「宇佐ちゃん!」  皆で駆け寄った。おさんは宇佐が飛びつくと、ぎょっとするような声をあげた。あわてて見ると、右の脛に大きな傷がある。雨に洗われて、傷口が開いている。 「おばさん、戸板に乗って。さ、早く」  おさんを助け起こし、お菊を励まし、八太郎に手を差し伸べる。怯えきっていて、なかなかおっかさんの袖を放そうとしなかった。もう大丈夫だからと懸命に宥め、やっと抱き上げる。お菊はふらついて歩けず、戸板に乗せられた。 「おい、ここはもうあの屋敷のすぐそばだ」  男の一人が、提灯を雨からかばいながら高くかざし、山道の先を透かし見て、がなるように言った。 「戻るより、お屋敷に逃げ込ませてもらった方がいい。雷は真上だ。せめて通り過ぎるまで —— 」  無理だよそんなの、入れちゃくれないんだってば。おさんが泣き声で訴える。宇佐は雨に濡れた髪がほどけて顔にかかり、前がよく見えない。犬のように身をぶるんと振って立ち上がる。  途端に、あたりが真っ白になった。 「いけねぇ、みんな伏せろ!」  後ろから手ひどくおっペされて、宇佐はつっ転がった。とっさに八太郎をかばって抱きしめ、頭を上げた。  夜空を稲光が走りぬける。特大の光。千の蝋燭を灯したように、山道が、森が、己の腕が、泣きべその八太郎の顔が、女たちを助ける男たちの背が、戸板の上で頭を抱えたおさんの姿が、くっきりと浮かび上がる。  雨音に満たされた森の闇のその向こうに、山道を登りきったその先に。  涸滝の屋敷の輪郭が、夜空を切り取ったように聳《そび》え立つ。  白く輝く鈎爪に似た稲光が、その屋根へとつかみかかる。  閃光が消えた次の瞬間に、地ぶるいが来た。山が吠える。森が猛り立つ。空が割れて落ちかかってくる。  落雷だ。  涸滝の屋敷に雷が落ちた。  その瞬間、加賀殿を封じ込めた屋敷の屋根の、瓦の連なりまでつぶさに見えた。窓にはまった格子も見えた。そこに立つ物見の牢番の頭の形さえも見て取れた。屋敷をめぐる竹矢来と、門前にある一対の篝火も。  ゆっくりと、時が歩みを緩めたかのようにのんびりと、その篝火が倒れてゆく。  瓦が飛び、屋根が傾く。  稲光の鈎爪が届いたその場所に、火花が散って雨に溶ける。  涸滝の屋敷の屋根が崩れる。剥がれた羽目板と砕けた瓦の隙間から、炎の舌が舐めあがる。 「ほう!!!!」  宇佐は叫んだ。声が喉から溢れたのではなく、身体がすべて叫びになって弾けた。ほうの名を呼んだ刹那に、宇佐はすっかり空《から》になった。  あそこにはほうがいる。あたしの小さなほうがいる。  あたしがほうを遣ってしまった、あたしがほうを閉じ込めたあの屋敷に、今、火の手があがって燃えるのが見える。  宇佐は泥水をかぶりながら起き上がった。八太郎を置き去りに、しゃにむに手足で地をひっかいて飛び出した。 「バカやろう、何する気だ!」  羽交い絞めで止められた。宇佐は歯を剥き出して抗った。雨が目に入る。耳にも入る。 「離して! 離してよ!」 「あんなとこに行ったって何にもならねえ! もう火が出てる!」 「ほうを助けに行くんだ!」  からみつく腕に噛みついて、宇佐は走り出した。おさんの呼ぶ声を置き去りに。わっと泣き出す八太郎を足元に。  再び、雲にふさがれ雨に満たされた夜空が、くわっとばかりに眼を開く。閃光が降りてくる。山道の宇佐たちめがけて。 「近いぞ!」  振り仰ぐ。雨に呼吸を止められて。  ついさっき、おさんたちがうずくまっていた木のてっぺんに、稲妻が降り立つ。宇佐はその様に魅せられた。何の考えもなく、何の意志もなく、邪気もなく、空を駆け巡るはずの稲妻。若先生にはそう教わった。天空に起こる事どもに、地上の者を害する意図などありはしないと。  それは嘘なのか。  そこにはやっぱり雷獣が宿るのか。  雷獣の前脚が、木立を引っ掻き真っ二つにへし折って。  丸海の地の、夏の終わり。最後の最後の、大きな雷。  それが落ちてくる。  散った木の葉が雨に混じる。落ちてくる。落ちてくる。その後を追うように、宇佐の腕ならひと抱えに余るほどの木の幹が、枝を張り広げたまま落ちかかってくる。  その真下には八太郎がいる。  誰かの腕が伸び、八太郎の腕をつかもうとして、つかみ損ねた。宇佐はひっさらうように八太郎の胴を抱いた。痩せた子供の身体は軽く、雨に冷えて震えていた。伝わってくる。  お菊が泣き叫びながら八太郎の名を呼んでいる。  抱き上げた八太郎を、そのまま放り出すように前へ投げ出して、宇佐は自分も前へと倒れた。できるだけ前へ、遠くへ。  踏ん張った足が、泥にとられてずるりと滑った。   ——— ほう。  膝が折れる。両手が地面に落ちて泥水を跳ね上げる。   ——— あたしはあんたを待ってるって誓ったんだ。  固く心に誓ったのに。  あたしの手は届かない。あたしは、あんたを涸滝に追い遣ってしまったから。もうあんたを助けることはできない。   ——— 誰かほうを守ってやって。  視界が真っ暗に閉ざされる。  加賀さまがおっしゃっていたとおりだ。加賀さまは、こうなることがわかっていらしたみたいだ。  城下の火事がおさまり、やっと落ち着いたと思ったら、夕餉の支度も終わらないうちに、今度は雨が来た。雨を追いかけて、雷の音も近づいてきた。   ——— 今夜、闇に紛れて屋敷を立ち去れ。   ——— しかしそれまでに、どこかで雷鳴を聞いたなら、その時は直ちに逃げろ。  おまえの奉公を解く。  でも、ほうには決断がつきかねた。お屋敷の御牢番方は、雷を気にするご様子などない。ほうは雨戸を閉てることを言いつけられ、それはもう雷雨が来るたびに何度となくしてきたことだから、叱られる心配もなしにやりとげた。  それでも、加賀さまは逃げろとおっしゃった。  またぞろ床下をくぐり、加賀さまのお部屋を退出するとき、砥部先生が畳を上げてくださった。先生は、よほど畳が重いのか、何かをこらえているようなお顔をなすっていた。そして小声でおっしゃった。加賀殿のお言葉を、よくよく胸に刻んでおくのだよ。  それはつまり、砥部先生も、逃げろとおっしゃっていたことになる。  先生は? 先生はどこにいらっしゃるのだろう。加賀さまのお部屋だろうか。もういっぺん確かめたらいけないか。ほうはどうして逃げなくてはならないのだ?  雨戸を閉てると、青白い稲光を目にすることがなくなって、よほどほっとする。でもその分、何の用意もないところにもの凄い雷の音が降ってきて、そのたびに飛び上がりそうになる。  いつか、おあんさんが教えてくれた。最初にぴかり。そのあと、雷の音がする。ぴかりと音のあいだが、開いているうちは雷雲は遠い。ぴかって来て、すぐにどどんと来るときは、雷雲が頭の上にある。  台所の出入口に、詰所に運ぶお膳が重ねてある。ほうは持ち上げられる限りのお膳を抱えて、まずは南詰所に向かう。  どどん。ああ、雷が近くなっている。  逃げろ。躊躇ってはいけない。  でも、お膳を運ばなくちゃ。  どどん。さっきよりもさらに近い。お膳が重たい。ほうは立ち止まった。  逃げろ。それが私の命《めい》だ。  この雨のなか、山へ逃げ出すのは怖い。御牢番に見つかって叱られるのも嫌だ。  心の臓が、ほうの身体を内側から食い破ろうとでもするかのように、ぱくりぱくりと暴れている。  ほうは足元にお膳を下ろした。南詰所はすぐそこだ。唐紙が開いた。御牢番が急ぎ足で出てきて、ほうには気づかず廊下を進んで姿を消した。  ほうがご命令に従わなかったら。   ——— おまえ一人で直ちにここから逃げ出すのだ。  加賀さまはきっとお怒りになる。  せっかく「方」という名前をいただいた。「方」は方向のほうだ。ほうは、どこへ行けばいいかわかるようになったから、「方」になったのだ。行き着く場所もわかっていると、加賀さまはおっしゃっていた。  命じられたことに従うのは、奉公人にとって、正しい方に進むことだ。  もう一度お膳を持とうと、身をかがめた。でも手が動かない。  どどん、ごろごろごろ —— 空の上で大きな恐ろしいものが転がっている。  ほうはお膳から後ずさりした。一歩。二歩。三歩目で勢いがつき、くるりと回れ右をした。  身の回りのものなんて、何もない。このまま裏庭に出よう。そう思った。けれど、走っているうちに気がついた。いや、ある。加賀さまに書いていただいた手習いのお手本と、算盤と、石野さまがくださった暦だ。小屋が落雷で壊れてしまった後、剥がしてもらって大事にとってある。  ほうは自分の部屋に向かった。気は急くけれど、足音をたてないように気をつけた。廊下の角では、いったん立ち止まって聞き耳を立てた。  部屋に飛び込むと、要るものをみんな集めて、風呂敷に包んだ。背中にしょった。  この先の廊下から、庭に降りよう。雨戸をそっと開けると、殴りつけるような雨に顔を打たれた。稲光があたりを照らす。  裸足で降りると、泥が指のあいだにめりこんだ。滝のような大雨だ。風呂敷が濡れたら、手習いのお手本も濡れてしまう。背中からおろして胸に抱いた。そして裏庭目指して走り出した。  明かりがない。竹矢来までの距離がわからない。左腕で包みをしっかり抱きしめ、右手をさし伸ばし、竹矢来にぶつかるまで進んだ。頭に、首筋に、肩にも雨粒があたり、はじけて痛い。身が縮まる。這った方が楽だ。竹矢来沿いに這って進もう。  くぐれるところまでたどりついた。それまでにも、何度か稲光に照らされた。   ——— 躊躇ってはならぬ。  ほうは竹矢来の下をくぐった。  やっぱりためらってしまった。  涸滝のお屋敷を見上げる。豪雨に降り込められ、雨戸の内に明かりを閉じ込めたお屋敷は、夜空に溶け込んでいる。闇と夜。戻ればすぐのところにあっても、ほうにはひどく遠いものに感じられた。逃げる、立ち去るというのは、そういうことなのだ。  歩き出す。滑ってしまって、また這う羽目になる。  這いながら、肩越しに振り仰ぐ。  這っては止まり、振り返り、また這っては止まる。   ——— 振り返ってはならぬ。  加賀さまの強いお言葉が、蘇ってほうの耳を打つ。雨より強く、雷鳴よりも鋭く。  加賀さま、ほうは逃げます。お言いつけを守ります。  最後にひとつ、強くそう念じて、もう振り返らない、これきりとお屋敷を仰いだ。それを待っていたかのように、ほうが目にするものを、よく照らしてやろうというように、屋根の真上でかぎざきの稲光が走った。  空を横切るのではなく。  お屋敷の屋根に向かって。  いつか、裏庭の小屋でも見た。落雷の瞬間の、まばゆいような光の洪水を。その刹那には怖さもない。光と音が溢れかえって、人の目と耳には捉えきれずに、すべてが真っ白に色が抜け、すべてが静まり返る。  轟音と共に、ほうの見上げる目の前で、涸滝のお屋敷に雷が落ちた。  ほうは逃げた。夢中で逃げた。大きな音と光と、ものの壊れ砕ける音から逃げ出した。  怖かった。あまりにも怖くて、かえって涙が出ない。やたらにわあわあと声を出しているような気もすれば、それは雨の音であるような気もする。雷鳴であるような気もする。また近くに落ちた。止まっていたら危ない。  斜面をひっかくように這い登り、やがて、どうにも胸が苦しくなり、あえいでもあえいでも息が吸い込めなくなって、べたりと伏してしまった。お手本に泥水がしみてしまう。いけない、いけない。  横様に転がって、何とか起き上がろうと試みながら、ほうは後ろを振り返った。   ——— 振り返ってはならぬ。  眼下の夜の闇のなかで、涸滝のお屋敷が燃えていた。   ——— 充分に気をつけるのだぞ。  加賀さま。  加賀さまの身は、御牢番たちが守るとおっしゃっていた。おまえの手は要らぬと。加賀さまはご無事だ。きっと他所に移られている。  |お《 ヽ》ま《 ヽ》え《 ヽ》の《 ヽ》奉《 ヽ》公《 ヽ》を《 ヽ》解《 ヽ》く《 ヽ》。  加賀さまはご無事だ。そうに決まっている。  なのに、そのような正しい考えを裏切って、ほうの胸は張り裂けた。そこから嗚咽がこみあげてきた。  轟き続ける雷鳴に負けず、森の木立の根元にすがりつき、雨に濡れた頬に稲妻を映して、誰はばかることなく、ほうは声を張りあげて、何度も何度も、加賀さまを呼んだ。            丸海の海  この日の最後の患者を送り出すと、井上啓一郎は縁先から庭へ降りた。  晴れ渡る空に、綿雲が流れてゆく。日差しはどこまでも明るいが、単衣の上に診察用のお仕着せを着ただけでは肌寒いほどに、風は冷えている。  凝った肩を軽く叩いてほぐしながら、啓一郎は薬草畑を見渡した。つい先ほどまでは、盛助が|ほ《 ヽ》う《 ヽ》に手伝わせて草取りをしていた。  それはあの日 ——— 琴江が死んだ春の終わりのあのときと、同じ眺めだった。  ほうは何を思ったろう。啓一郎は考えた。琴江を失ったときの驚きと悲しみを、その後に続いた理不尽な仕打ちの数々を思い出したろうか。それとも、あまりにも多くの事どもに取り巻かれ、揉まれ、ねじ伏せられ、あの子にはわからぬ場所から湧き出した深流に押し流されて、ようやくひと巡りを終えて井上家に帰ってきた今となっては、あの日のことはもう遠いものとなったか。  堀外の騒乱と大火、涸滝の屋敷の落雷炎上から、十日が過ぎた。  堀外には、ようやく町の再建の槌音が響き始めている。一方で蔵米は底をつき、これまでの借り分の上にさらに借財を重ねる羽目にもなり、藩の財政はいっそう急迫することだろう。それは先々で、また領民たち、下級藩士たちの暮らしの上に返ってくる。  それでも、丸海の町には平穏が戻ってきた。今はひととき喜ばねばならない。  涸滝の屋敷は焼け落ちた。少なからぬ数の牢番たちが危険も顧みず火のなかに飛び込み、幕府からの大切な預かり人である船井加賀守守利《ふな い か がのかみもりとし》を救い出したが、時すでに遅かった。  加賀殿は絶命していた。  雷は屋敷の屋根に落ちたが、加賀殿はそれで亡くなったのではない。火に焼かれたのでもなかった。  加賀殿の亡骸は、酷い手傷を負っていた。  獣の爪で裂かれたような傷だという。  そして加賀殿の座敷には、倒れ伏す加賀殿の傍らに、身の丈《たけ》三丈に余る、黄金色の毛皮の獣が、血反吐を吐き目を剥いて死んでいたという。  天空から、涸滝めがけて舞い降りた雷獣であるという。  丸海の地に、人の歴史の始まる以前より棲みついてきた雷獣だ。かつて一度は日高山神社ご神体に倒された。しかし、人の身ながら悪鬼となり果てた加賀殿が丸海に入り、日高山神社の神威を削いだことにより、力を盛り返した雷獣は、再び丸海の天地を我が物とするために駆け降りてきた。  そのためには、地にありながら人外の悪を司る、加賀殿をまず封じねばならぬ。  真に丸海を取り返し、統べるためには。  そして雷獣は加賀殿と相討ち、命を取り合って果てた ——— という。  あの夜、夏の終わりの最後の雷雲に乗り、涸滝へと駆けおりる雷獣の姿を、多くの藩士が見たという。  城の天守から、畠山公も目にされたという。  城よりさらに山深い庵に隠棲する、側隠《そくいん》公もご覧になったという。  涸滝の牢番たちは見たという。雷獣を迎え撃つ加賀殿が、にわかに、人の姿から鬼の姿へと変じ、その本性を現した瞬間を。彼らは震えながら囁き交わす。神獣と悪鬼の相打つ有様は、この世のものとは思えぬほど恐ろしく忌まわしく、しかし ———  美しかったとも。  誰が仕掛け、誰が言い出し、誰が伝え、誰が裏付けるかもわからぬままに、波紋のように広がってゆく噂。  あの夜が明けると間もなく、その噂は城下を駆け巡り、今では知らぬ者は一人もいない。三つの子でさえ、雷獣と加賀殿の切り結んで死ぬ様を、大人にねだって聞かせてもらい、まわらぬ口で唱えて回る。  同じ夜、落雷は他にも起こった。  山にも、森にも。  堀内では、浅木家屋敷の屋根が壊れた。  目も開けておられぬほどの豪雨が幸いし、そのいずれからも火は出なかった。  焼けたのは涸滝ばかりである。  雷獣の身体が、雷ばかりか火気も帯びていたからだと、噂は説く。  一説では、城内に雷獣の屍が運び込まれ、殿自ら検分に立ち会われたともいう。命の絶えた獣の身体は、それでもまだ灼熱の炎を放ち、真っ直ぐに面を向けることができぬほどの異臭をまとい、殿と重臣たちの見守る前で自らの火気に焼き尽くされ、灰と炭に変わり果てて失せたという。 丸海の夏の最後の雷害。人びとの心に染み付き、今後も離れることはないであろう災厄は、こうして終わった。  雷獣は倒れた。  それと刺し違え、加賀殿もこの世を離れた。その現身は、もう丸海の地にはおられない。  人びとは首をかしげる。その悪気で病を呼び、お日高さまを穢し傷つけ、丸海から守護神を奪った人の身の悪鬼加賀殿は、しかし、その昔お日高さまがしてくれたのと同じように、雷獣を討ち倒してくだすった。  我らは今も、加賀殿を恐れるべきか。  それとも敬い、畏れるべきか。  加賀殿はやはり、人ではなかった。鬼悪霊、悪鬼の類と化して、丸海を苦しめた人外のものであったのに。  しかし我らは、加賀殿の手で雷獣から救われたではないか ———  啓一郎は知っている。  これが父舷洲の、父の背負う丸海藩の意志の、望んでいた形であることを。  だから噂は止まるまい。その源も知れている。今は首をひねり頭を抱える丸海の民も、次第にうなずくようになるだろう。  雷害に悩まされてきた丸海の地には、雷害に対する知恵がある。裏返せばそれは、雷害を招く手管にと、たやすく変じるものでもある。  涸滝の屋根には密かに、金気のものが仕掛けられていたのだろう。刺客が加賀殿に近づくよりも、遥かに易しく、軽い工夫だ。  そして父は、丸海藩の意志は、ただひたすらに時を待っていた。  雷雲が来《きた》るのを。  ひとたび落雷が起こったならば、その混乱と動揺に紛れて、今度こそ本物の刺客を動かすことなど、さらに易しい。  落雷が起こした火事なのか、屋敷の内の者が火をかけたのか、誰が見分けることなどできよう。  事が起こってしまえばその後は、入念にこしらえておいた作り話が始末をしてくれる。  加賀殿が絶命した二日の後には、江戸表への書状を携えた早駕寵が丸海の地を出立した。  永く丸海の領民を苦しめ続けた雷獣を退け、加賀殿はこの地の守護となられた ———  その言上がお上の怒りを呼ぶことはあるまい。そちらもまた、下ごしらえは済ませてあるはずだ。  時の将軍家斉公は、人外のものである加賀殿を恐れる余り、手ずから処分を下せずにきた。丸海藩は心をひとつに、将軍家に代わり、もっとも望ましい裁断をほどこした。  もう怨霊ではない。鬼でもない。栄達のために踏み捨てた多くの者の恨みを集めるあまりに、生きながら人の心を捨て悪気の源泉と化した加賀殿は、すでに消えた。  手ずから妻子の命を取り、部下を斬り捨て、言い訳のひとつもないまま、端然と生き続けていた化け物は消えた。  人外のものは、今度こそ真に人を離れ、やがて丸海の神になられる。  御霊《ごりよう》になっていただくという、父舷洲のもくろみは果たされた。  丸海藩の意志と企てが、勝ちを収めた。  それでも啓一郎は、父に尋ねたことがある。「父上は満足なさいましたか」と。  父は答えず、こう言った。 「浅木家は焼けなかった」 「それはもくろみに外れましたか」 「少々、足らぬようではあった」  そしてかすかに笑って続けた。 「それでも屋敷があのざまでは、当分のあいだ、あの家の毒使いもおとなしくなることだろう」  首尾よく一兎を得たならば、二兎を惜しむのはちと欲張りというものだ。笑みもなく、声に手柄の響きもなく、舷洲はそう語った。どの道、この仕儀で、浅木家の権勢も衰えてゆくのは目に見えている。お日高様をお守りできず、あろうことか悪鬼に電獣を退治してもらいながら、己の屋敷は雷に打たれた。恥の上に恥の上塗りではないか。 「啓一郎」 「はい」 「先ほどのおまえの問いは、おまえがこの家の当主となり、匙家を背負い、私の歳に至ったとき、おまえがおまえ自身に問うてくれ」  ずるいお答えですと、啓一郎は言った。父は黙って背を向けた。  啓一郎も、押してその先を問うことはなかった。  宇佐はこの家で死んだ。  落雷で倒れた木の下敷きになり、救い出された時には、もう息が絶えかけていた。しかし気丈で働き者のこの娘は、その細い息で呼んでいた。ほうの名を。  報せを聞き、啓一郎は宇佐を井上家に運ばせた。手ずから治療をほどこしたが、永くもたぬことは明らかだった。  涸滝を逃げ出したほうが、泥まみれの姿で井上家にたどり着いたのは、夜明け前のことだ。火事で様子の変わった城下を、明かりも持たずに迷ったこの子は、それでも知恵を働かせて、この家を目指してきたのだ。  宇佐の枕辺に、ほうは座った。  何が起こったのか、宇佐がどうしてしまったのか、ほうの小さな頭では、あるいはすべてをつかみきれていなかったかもしれない。ほうは宇佐の手を握り、帰ってきました、おあんさんと繰り返した。お座敷に雷が落ちて、火が出て、だから山へ逃げたけれど、いつかおあんさんに教わったから、できるだけ広いところにいるようにしました。ずっと伏せていたんです。這って動きました。岩場には行きませんでした。高い木の下にもいませんでした。おあんさん、ほうは帰ってきました。おあんさん、おあんさんにもらったお守りも、ほうはちゃんと持っています。 「おあんさん」  宇佐の耳元に顔を近づけて、ほうは懸命に呼びかけた。 「加賀さまが、雷が聞こえたら涸滝のお屋敷から逃げろとおっしゃったのです。加賀さまが、ほうにそう教えてくださったのです。お屋敷を逃げ出して、おあんさんのところに帰れとおっしゃったのです」  拙《つたな》い言葉だが、その内容は、傍らにいる啓一郎の胸を打った。息が詰まりそうなほどに、啓一郎は感じ入った。  加賀殿がほうを逃がしてくださった。  やはりあの方は、その身に起こることを察しておられた。丸海藩の意思を知っておられた。それを受け止める覚悟を固めておられた。  そして、ほうが巻き添えにならぬよう計らってくださったのだ。  目顔が熱くなった。こらえるために、啓一郎は頭を垂れた。 「おあんさん、ほうは加賀さまに字を教わりました」  ほうは懸命に微笑んでいる。笑顔で宇佐に語りかける。 「ほうがわからないことを、加賀さまは何でも教えてくださいました。おあんさん、加賀さまはお優しい方でした。おあんさんと同じくらい、ほうに優しくしてくださいました。涸滝は怖いところではありませんでした。加賀さまは怖い鬼ではありませんでした。ほうは、加賀さまとお別れするのが淋しかった。でもこうしておあんさんのところに帰ってこられたから、もう淋しいなんて申しません。おあんさん、またいっしょに暮らせます」  もう何も聞こえないはずの宇佐が、なぜかしらそのとき、うっすら微笑んだように、啓一郎は思った。その口元がかすかに動いて、「ごめんね」 と、声は出せずに言うのを見た。  宇佐の目を閉じるとき、啓一郎は、ほうの手を添えてやった。 「お別れだよ」  言い聞かせても、ほうはわからぬようだった。 「おあんさんはどうしたのですか」 「宇佐は死んでしまった。最期におまえに会うことができて喜んでいただろう」  一度は引手として紅半纏に身を包んだこの娘は、引手の道をまっとうし、人を助けて命を落とした。  ずいぶんと長いこと、ほうは宇佐のそばに座っていた。  とうとう見かねて、しずが連れ出し、着替えさせ食べさせようと世話を焼くと、悪い夢から覚めたように目を瞠って尋ねたという。 「もう、おあんさんといっしょに暮らすことはできないのですね」  そうだと教えると、つと口をつぐみ、今度は、 「加賀さまはご無事ですか」と問いかけた。  亡くなったと、しずは答えた。  かなり経ってから、ほうが廊下の片隅で、手を顔にあて、一人で泣くのを啓一郎は見かけた。  慰める言葉はなかった。己にも、父にも、誰にもその資格はない。  それから間もなく、中円寺の住職が井上家を訪れた。ほうに会いたいという。ほうはまだ泣いていたが、涙を拭い、きちんと住職に挨拶をした。  住職は庭先でほうと並び、海を眺めながら、長いこと話し込んでいた。住職が語るときもあれば、ほうがしゃべっているときもあった。住職は、中円寺での宇佐の暮らしぶりを話し、ほうは涸滝での奉公の様子を語っているのだった。  帰り際、見送りに出た啓一郎に、英心和尚はこう言った。 「あの子は御仏《みほとけ》に会《お》うた。人の身の内におわす御仏に」 「私もそう思います」と、啓一郎も応じた。「あの子を通し、この私も御仏のお顔を垣間見たようにさえ思います」  和尚はかぶりを振った。己と啓一郎を合わせて哀れむように、ゆるりと首を振って啓一郎の言葉を退けた。 「我らには見えぬ御仏でありまする。なれど、あの子は会うた。宇佐も今頃、会うておることでありましょう」  そして、のしのしと中円寺へ帰っていった。 「ほう、ちょっとおいで。舷洲先生がお呼びだよ」  朝餉が終わり、後片付けにかかったばかりのところだ。水汲みをしなくてはならないし、洗い物もある。なのに、しずさんがほうを呼んでいる。 「はい、ただいま参ります」  返事をして廊下を駆け出すと、舷洲先生のお部屋の前でしずさんが待ち構えていて、着物の襟と帯を直してくれた。 「失礼いたします」  平伏して進み出ると、 「お客様だよ」と、舷洲先生がおっしゃる。  ほう、と聞き覚えのあるお声がした。顔を上げてみると、舷洲先生の向かいに砥部先生が座っておられる。 「やっとおまえを訪ねることができた。怪我もなく、健勝のようで何よりだ」  にっこり笑ってそうおっしゃる砥部先生は、右腕のところに晒《さらし》を巻いている。  ほうの驚き顔を見てとったのか、砥部先生はその晒につと触れて、 「涸滝のお屋敷が焼けた折に、私も少々火傷を負ったのだ」  金居さまとしずさんが、加賀さまが亡くなってしまったので、お脈を診る係だった砥部先生はもしかしたらお咎めを受けるかもしれないと、心配顔でひそひそ話していたことがある。でも、今先生のお顔を仰ぐ限り、そんな様子はなさそうだ。舷洲先生もにこやかにしておられる。 「我々はこれから登城せねばならぬ。江戸表からお使いが戻られた」と、舷洲先生が口を切る。「良いお知らせをいただいてきたらしい」 「良いお知らせでございますか」 「うむ。加賀殿を丸海の神としてお祀りしてもよろしいという、お沙汰が下されたようなのだ。ほう、遠からず、加賀殿のためのお社《やしろ》が建つのだ。また、いつでも加賀殿にお目にかかれるようになるぞ」  ほうは何度か、加賀さまのお身体はどこにあるのですかと、舷洲先生にお尋ねをした。先生はそのたびに、お城のお預かりになっていると、優しく教えてくださった。それでも何度も何度も繰り返してお尋ねするので、金居さまにもしずさんにも叱られたものだ。すると舷洲先生が宥めてくださる。怒るな、怒るな。この子は、加賀殿がどこかにやられてしまうのではないかと案じられてならないのだよ ———  そうなのだった。だっておあんさんはお墓もできて、毎日拝みに行かれるけれど、加賀さまは亡くなってしまったきりなのだもの。  本当のことを言うと、亡くなってしまわれたというのも、まだ芯からはわからないのだった。  おまえの奉公を解く。そのお言葉が残っているばかりだ。 「はい、ありがとうございます!」  手をついてぺたりと頭を下げ、顔を上げてみると、なぜかしら砥部先生が目元を指で押さえておられるのだった。 「社はどこに建つのでしょうな」と、お顔を伏せたままおっしゃる。 「やはり、涸滝の屋敷のあった場所でしょう。何処よりもふさわしい」 「なるほど、なるほど」  ほうがお二人を見つめていると、砥部先生は笑みを浮かべ、あわてたようになって、懐から何か取り出された。 「おお、そうだ。もっと早く届けに来たかったのだが ——— 」  手習いに使う紙だ。きれいに折ってたたんである。砥部先生はそれを広げ、ほうに向けて差し出された。 「これを、おまえに」  字が書いてある。  加賀さまの字だ。  涸滝から逃げ出すとき、お手本を持ち出した。でも風呂敷に包んだだけだったし、雨に濡れ泥水のなかで転んでいるうちに、みんなくしゃくしゃになってしまった。加賀さまにお書きいただいた字も、汚れて読めなくなってしまったのだった。  でも、これはまっさらのお手本だ。 「あの日、落雷がある前に、加賀殿のお部屋でおまえに会った」と、砥部先生はおっしゃった。「おまえが去った後、加賀殿がこれをしたためられてな。私に託された。おまえの奉公を解くしるしに、これを授けると」  間違えようのない美しい手筋で、大きな字がひとつ書いてある。  ほうには読むことができない。 「これがおまえの名前だと、加賀殿はおっしゃっていた」  あたしの名前。「方」という字をつけていただいた。でも、この字は違う。 「何という字かわからぬか。これはな —— 」  |た《 ヽ》か《 ヽ》ら《 ヽ》という字だよ。 「たから ——— 」 「そうだ。この世の大切なもの、尊いものを表す言葉だ。この字ひとつのなかに、そのすべてが込められている」  ほうはお手本をそっと手に取り、顔を近づけてしっかりと見つめた。 「そしてこの字は、ほうとも読む」 「ほう」 「そうだ。だからおまえの名だ。加賀殿に賜った、おまえの名前だ」  この世の大切なもの。尊いもの。 「それは、おまえの命が宝だということだ。おまえはよくお仕えした。よく奉公をした。加賀殿はおまえにその名をくださり、おまえを褒めてくださったのだ」  今日からおまえは、宝の|ほ《 ヽ》う《 ヽ》だ。  菊を摘んだから持っていけ。盛助さんが渡してくれた。気をつけて行くんだよう。 「はい、行って参ります」  ほうは井上の家を出て、森の道を駆けてゆく。おあんさんのお墓は、堀外の町を見おろす小高い丘の上にある。  若先生がこの墓所に決められたのだ。宇佐はきっと、海も山も、丸海の町も、すべてを見回すことのできる場所を喜ぶだろう。ここからなら、やがて塔屋が建て直され、ほうが働きに行くようになったら、それを眺めることもできるだろう。  ほうは駆けてゆく。息をはずませ、白い菊を三本手にして。坂道を登ってゆくほどに、青空が近くなり、足元に町の眺めが開けてゆく。風がほうのほっべたを撫でる。  登りきると、空を押し上げ、いきなり海がいっぱいに開ける。  おあんさんの海だ。  ほうは足を止め、丸海の潮風を吸い込む。そしてくるりと踵を返し、背中を伸ばして、涸滝のお屋敷があったあの森の眺めへと顔を向ける。 「加賀さま、おはようございます」  ぺこりと頭を下げて、ご挨拶をする。そしてまた走り出す。おあんさんのお墓は、いちばん海に近いところにあるのだ。うん、ほうもそう思う。おあんさんはきっと、この場所が気に入ってるよ。 「おあんさん、おはようございます」  走りながら呼びかける。ほうは元気で、今日も一日しっかり働きます。  青く凪《な》いだ丸海の海原は、鏡のように平らかに穏やかに、秋の日差しの下で憩っている。ほうの挨拶に応えて、おはよう、ほうと返すように、ちらり、ちらりと白うさぎが飛んだ。                                                 (完)          あとがき  本作品はフィクションであり、作中の丸海藩は、作者の想像のなかにのみ存在する架空の藩であります。「加賀殿」も、もちろん実在する幕臣ではありません。  ただ、歴史時代小説をお好きな読者の皆様には一目瞭然と存じますが、丸海藩のモデルとなったのは、讃岐の丸亀藩です。もともとこの作品の発想の素は、 ″妖怪 ″ の異名で知られる幕末の幕臣鳥居耀蔵が、罪を受けて讃岐丸亀藩に永預となり、明治元年に大赦を受けるまで、そこで流人生活を送ったということにありました。  取材の折、歴史考証にも史実にも疎いわたくしを親切に案内してくださり、貴重なご教示をくださいました丸亀の皆様に、末尾ながら篤く御礼を申し上げます。宇佐が仰ぐ青い空、ほうが見渡す青い海を描くとき、わたくしの心にはいつも、丸亀の景色が浮かんでおりました。     平成一七年五月吉日          宮部みゆき   この作品は「歴史読本」二〇〇一年十月号〜二〇〇五年六月号)に、   二十五回掲載されたあと、加筆・推敲したものです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  孤宿の人(下) 二〇〇五年六月二一日 第一刷発行 著者  宮部みゆき 発行者 菅 春貴 発行所 新人物往来社 テキスト化 二〇〇五年 八月十七日  −零一−